父が家にいたら大変だっただろうなと思う。なにしろ部屋の中は冷房が効いているが、一歩廊下に出たらサウナ状態だ。さぞかし一日中温度計を握って右往左往していたことだろう。
夕方穴子寿司おにぎりと生八ッ橋を持って行くと、父はおいしいおいしいと喜んで食べたが、やはりおにぎりを持つことがむずかしい。
手がこわばっているからだ。バラバラになったおにぎりのご飯粒で手がベタベタになるので、それを洗面器で何度も洗いながら食べ終えた。
手がうまく動かないのでおにぎりが食べにくい |
洗面器で手をいちいち洗いながら食べる |
この洗面器は、父が最近よく食べたものを吐き出すので、スタッフが枕元に置いてくれたらしい。でも、ナイロン袋がかけられているので、父には洗面器であるとは認識できない。ましてや、そこに詰まったものを吐き出せばいい、と言われても覚えていられない。だから、父はその辺にあるコップや尿器に唾液を吐き出して、その上ティッシュまで詰め込む。父の部屋に行くといつもティッシュと唾液だらけのコップがその辺中に置いてある。
これが父の育ちの悪さなんだろうなあ、とため息が出る。他の入居者はこんなことはしないだろう。認知症が進行すると排便したあと、便を壁にこすりつける患者もいるようだが、それは育ちとは関係ない。父のようにちょっとした日々の作法に、育ちの悪さは出る。が、それでも本当の育ちの悪さは他人との関係において表れるような気がする。
育ちの悪い人とは、人を見下したりして自己満足を得る人のことなのかもしれない。父の場合ご飯はくちゃくちゃ音を立てて食べるし、こうして認知症が進んでからはコップに物を吐き出すなどの作法の悪さが以前より目立つようになってきた。それでもそれよりも困るのは、人を受け入れない性格がもっと顕著に表れるようになってきたところだ。
母は全く違った。人にいつも優しく自己主張をすることもなかった。父が音を立てて食べることもいやだったようだが、それでも父に文句を言うこともなく、『いやあねえ。』と笑うだけだった。そういう『人を受け入れることができる人柄』が、育ちの良さだったように思える。
周囲の人を和ませる力を持った人。それが育ちの良い人なのかもしれない、と思ったりする。自分のことを考えてみる。友人と自分の意見が違うとすぐ自己主張をしてしまう。年を取るに従って友人はもっともっと大事になって来た。だから、相手のことも認めてあげて自分の言いたいことを押し通してはいけない、といつも思う。なのに、それでもすぐそのことを忘れてしまう。
人を受け入れながら、周囲の人をいつも和ませる力を持った人になりたい。
今日食べた育ちの良い白桃 衝撃のおいしさでした 和む〜〜 |