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2026年1月24日土曜日

来週我が家に来る客😱

義兄と姑が我が家に来ることになった。


2週間の滞在である。


私が日本に出発する前々日に来るんだそうだ。

私は今まだコロラド、先週も雪が降ったが、
いつも2日以内に溶けてしまう


スケジュールがユナイテッド航空から夫に届き、夫からそれが私に転送されてきた。


義兄からはよろしく、とも、迎えに来てほしいとも何もメールは来ない。


もちろん頼まなくても、弟夫婦が迎えに来るのは当たり前のことだから。


我が家からはサンノゼ空港の方が、サンフランシスコ空港より比較にならないほど近いが、サンフランシスコ便が半額以下なのでサンフランシスコにに到着する。


私は急遽、日本に発つ日を2日早めて飛ぶことにした。


ホテルも全て取り直し。


そこまでは良い。


問題はそこからだ。


夫は義兄に逆らえない。


姑が長男教で、義兄を下手に褒めそやして育てたせいで、義兄はいつも威張っている(と姑が言う)。


その義兄は、我が家に来たら全ての部屋を見たい、と言うのがわかっている。


つまり、私の部屋も。


私の部屋は夫と別室だが、彼らが滞在中は夫が私の部屋を使い、彼らは夫の部屋と誰も使っていない部屋を使う。


部屋の中を何もかも細かく調べ、そして写真まで撮るであろう(そしてそれを周囲の人たちに見せる)R(義兄)を絶対私の部屋に入れないようにしてくれ、と夫に頼んだ。


が、夫は義兄に逆らえない。


夫が言うには、「Rは全室見たいだろうし、見たいと思ったら絶対見る。彼を止めることは誰にもできない。」


となると、ドアの外から鍵をかけて、夫が鍵を24時間管理するしかない。


そこまですると、今度は義妹たちは、私がおかしい、と言い始めるのも見えている。


ある意味それは正しいのかもしれない。


が、Who cares?である。


つまり「だから?」と言えるようにならないと、彼らに抵抗することは一生できない。



とにかく、今は一刻も早く日本に行きたい。


最近老後はアメリカと決心したことに、もう迷いが出てきている。


本当の幸せがアメリカにあるとは思えなくなってきた。


コロラドでは、いつも人の親切にふれることがカリフォルニアでより圧倒的に多いと感じる。


それでも、雪には慣れることができないし、運転もできない。


カリフォルニアには友人もいるし、長男家族もいる。


が、本当にどこが自分の最終の地なのか、また考えるようになった。



とにかく雪がまだ積もっていないうちにモールに行き歩く。

現在氷点下10℃


同じことを考える人が多いのだろう、朝のモールは歩きに来た人が多い。



犬の散歩に来た人とか


寂しい老女とか

2025年3月4日火曜日

番外編 <初めての渡米 by 姑>

1954年、私は広島の高校卒業後、銀行で仕事をしたかった。


が、タイプライターの学校を卒業していたにもかかわらず、両親がいないことで就職できなかった。


近所の叔母の家に行っては、泣いていた。


叔母は親戚に、「あの子は日本にいる限り幸せになれない。」と言っていたようだ。



その頃、夫が私の写真を見て一目惚れした。


当時夫は婚約していた女性が自分を捨てて逃げたことで、失意のどん底にいた。


しばらく文通を続けたあと夫が来日し、私達は初めて会った。


文通しているうちにお互いに好きになり、1954年10月日本で結婚した。


そして、私は一人で渡米することになった。


が、アメリカまでは長い道のりだった。



渡米するにはパスポート、ビザ、胸部レントゲン写真が必要だった。


アメリカに移民として入国するためクラスを取り勉強し、テストを受けた。


1955年1月初めに広島を出て、アメリカに飛ぶことになった。


当時広島から東京までは汽車で16時間、その後羽田空港に行きアメリカ行きの飛行機に乗った。


JALは週に1便ぐらいしか飛んでなかった時代である。


私は1月最初の飛行機で日本を発った。


東京からサンフランシスコまではプロペラ機32時間の長旅である。


はっきりした時刻を覚えていないが、確か夕方羽田を出発した。


飛行機から見る東京の街がとてもきれいだったことを覚えている。


勿論初めての飛行機旅行だった。


ウェーキ島(Wake Island)に着いたのは朝6時。


当時は機内食というものがなかったので、朝ご飯はバスで食べに行くことになった。


おいしい朝ご飯のあと、飛行機に戻った。


ホノルルにお昼ごろ着いて、そこでコーラというものを初めて飲んだ。


が、まずくて吐き出した。


ホノルルの空港でランチを食べたあと、同じ飛行機に戻り出発。


機内で一晩過ごし、サンフランシスコ空港に翌朝6時に到着した。


航空会社が資生堂の大きな化粧品セット、立派な漆の盃2つ、などなどたくさんのお土産をくれた。


サンフランシスコではタクシーであちこち観光に連れて行ってもらったが、初めて食べたハンバーガーとフレンチフライが、あまりに美味しかったのが忘れられない。


サンフランシスコからデンバーまでは8時間かかった。

現在はサンノゼ空港から2時間半


ネヴァダ上空

コロラド上空


機内食がないので、ランチを買うための休憩をユタでとることになった。


お腹がすいていなかったから、私は何も食べなかった。


デンバー空港には、朝2時に着いたのだが、親戚全員が迎えに来てくれていた。


アメリカで初めて目が覚めた時、コーヒーの香りがあまりにすばらしかったことが、一生忘れられない。




7年後の6月23日、夫が亡くなった。



見通しの悪い線路には当時踏切もなく、トラックを運転していた夫は汽車に轢かれたのだった。



長男5歳、次男4歳、長女3歳、次女1歳半だった。


終わり良ければ全て良し・・・
いや、まだあと10年いけるかも?

2025年2月7日金曜日

満州からの帰還 4/4

佐世保に着いた時は本当に嬉しかった。


私は叔父さん(母の弟松XX之)とその娘陽子さんの家に行こうと思い、広島県にある八本松駅まで汽車で行くことにした。


川本のおばさんたちは、八本松駅の一つ後の駅で降りる。


私は八本松駅から竹仁という小さな街までバスに乗るつもりだった。


竹仁に叔父さんの家があったので、バス停から歩こうと思ったのだ。


私がバス停を探していた頃、一つ後の駅(志和駅と記憶している)で降りた川本のおばさんたちは私の父にばったり会った。


父はその志和駅から広島駅に行くところだったのだ。


広島駅に行き、私を探すための新聞広告を出すつもりだった。


NHKラジオの人探しコーナーでも、私を探していると毎日放送されていたようだ。


駅でバッタリ父に会った川本のおばさんは、父に私が八本松駅で降りた、と話した。


父は駅員さんに、自分の娘が今八本松駅にいる、そこに自分が行くまで動かず待つように伝えてください!と頼んだ。


八本松駅では駅員さんが私のバッグに書いてある名前を見て、「今お父さんが来るからここにいてください!ここから動かないで!」と言った。



しばらくすると父の乗った汽車がホームに入ってきた。


顔を真っ赤にしたお父ちゃんが、私に向かって走って来る。 「完」



これではこのドラマの感動はなかったかも

2025年2月5日水曜日

満州からの帰還 3/4

姑に戦時中の話を聞き始めたのは、半年ほど前になるだろうか。


姑は次女家族と住んでいるが、私がコロラドで滞在する次男の家からは車で30分ほど離れている。


なので、何度かに分けてインタビューしたのだが、こうしてまとめているうちに食い違いが出てくる。


で、電話をして掘り下げて聞くのだが、話すことで姑の記憶がだんだん蘇ってくるそうで、「長いこと忘れてたことを今になって思い出した!」となる。


最初に聞いた話と少し違ってくる。


なので、最初は「母と妹と3人で日本に帰ってきた」と聞いていたものが、実際はもう母妹は亡くなっていた、と何度か話しているうちにわかった。


これは姑が忘れていたというよりも、話しているうちにどこかで食い違いが発生したのだろう。


二人が死んだ年も思い出した、ということ。


なので、このシリーズの第一回と第二回は、少し書き換えた部分もある。


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京城に着いた私たちは、港にあるアメリカ軍の施設の中に入り、全員が裸になってシャワーを浴びさせられた。


シラミがついている人はシラミ退治をされたが、幸いにも私にはシラミはいなかった。


シャワーというものを浴びるのは初めての経験だった。


着ていた洋服が洗濯され、乾燥までしてある。


暖かい清潔な洋服に着替えた私は気持ちが良くて、ハンサムな若いアメリカ兵士たちはなんて親切で優しいんだろう、と感謝した。


それから日本の大きな船に載せられて(100人以上乗っていた)日本に向かった。


船長や船員が皆真っ白な制服を着ている。


「赤いリンゴ」の歌を船の中で聞きながら、これもまた真っ白な日本の船はなんてすばらしいんだろう、としみじみ思った。


日本の船員たちも皆親切で、私達にとても良くしてくれた。


満州からは一緒に帰った人たちが同じ船に乗っている。


川本のおばさん(と私は呼んでいた)、おばさんの娘二人(一人は私と同じ年齢)と、お嫁さんも一緒だ。


あとで知ったことだが、父、兄たち、姉は、この頃にはもう風の便りで母と妹が死んでしまったことを聞いていたらしい。


船は佐世保に向かっている。


80年後にここまで日本が復興するとは、
誰が想像したことだろう

2025年2月3日月曜日

満州からの帰還 2/4

終戦から4ヶ月後、12月26日に妹が亡くなった。


妹は奉天でもよく入院していた。


昔から病気ばかりしていた、身体の弱い妹だった。


薬もなく、医者を見つけるのも大変な世の中だったのだ。


その悲しみのせいもあったのだろう、母が翌年1月18日早朝眠るようにして亡くなった。


寒いからお母ちゃんのへり(そば)に寄って寝なさい、と私に言ったのが最後の母の言葉だった。


母が死んだのは悲しかったが、周りは親を失った子も多く、皆で暮らす楽しさもあった。


中の一人の笑い方がおもしろいので、その子が笑うと伝染したように周りが笑うのだ。


朝鮮の年配の男性が、約100人の日本人たちに家や学校を確保してくれていた。



皆でそうやって暮らしているうちに、1947年になった。


私は日本に帰りたかったが、朝鮮を出る手段がない。


が、ある日その年配男性の計らいで船を雇い、夜中にこっそり沖に出ることになった。


家を出る前に、同じグループの皆で家を掃除した。


どこからともなく、「松XX之」という名前と住所を書いたクシャクシャになった紙が出てきた。


母の弟、つまり私の叔父の名前である。


私はとっさにその紙を自分のポケットに入れた。



航海中、私は隠れながらも時々デッキに出た。


1週間ほどたった頃だったろうか、小さな漁船が来た。


漁師が魚を買ってくれないか、と言っている。


誰かがお金を出した。


が、漁師は「ここは韓国だから朝鮮のお金は使えないよ。」と言った。


(朝鮮が北朝鮮と韓国に分割されたのは1948年なので、この時点ではどういう通貨が使われていたかは定かではない。)


漁師の言葉で、ここは南だ!とどよめいた。


遂に韓国に着いたのだ。


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つくづく思う。


なんでいがみ合うのだろう。


なんで戦争するのだろう。


なんで殺し合うのだろう。


ここで縄張り争いをしているのは、アイドルだけ

2025年1月31日金曜日

満州からの帰還 1/4

今日から何度かに分けて、姑が戦後満州にいた時の話、そしてその後日本に帰ってきた話を書こうと思っている。


書き進めていくうちに、いくつか辻褄の合わないところがあるので、インタビューを重ねつつ記録している。


例えば最初は姑が一人で帰ってきた、と聞いていたが、よくよく聞いてみると違うようだ。


とにかく、この話を普段の生活に関してのみのブログの日も交えながら、しばらく書いていきたい。


このブログにコメントをいただいたお二人の体験談、あるいはお二人のファミリーヒストリーとしてのお話も、改めて紹介させていただこうと思う。


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第二次世界大戦時、私は父の仕事の関係で家族と満州の奉天市に住んでいた。


終戦(1945年8月15日)の1週間前、ロシア軍が攻めて来た。


ロシア兵から避難するため、女子供100人ぐらいがそこに来た日本軍の2,3台のトラックに分かれて載せられた。


荷台に乗った私たちが着いたのは奉天駅。


奉天駅から平壌まで汽車に乗ったのだが、汽車の中で一夜を過ごす長時間の旅だ。


その時私は12歳、5歳下の妹と母と一緒だった。




当時18歳の長兄は奉天の日本軍にいた。


15歳だった次兄(現在東京在住)は、避難したくないと言って奉天に残り学校に行った。


次兄は未だにそのことを後悔している。


戦後腎臓を悪くして亡くなった母を守るために、一緒に行くべきだったと思ったのだ。


父は属官(官司に所属する官人。次官以下の職員)としての仕事、22歳の姉も仕事があるので、奉天に残った。



平壌に到着して、ある日本人の所有する大きなお屋敷に住むようになった。


お手伝いをしてくれる朝鮮の人ががたくさんいた。


何人がそのお屋敷に住んでいたかは覚えてないが、1週間後終戦になった。


私は13歳で、周囲の人々が泣いていたが意味がわからなかった。


誰かが「日本は戦争に負けた」と言った。



父と姉からあとで聞いた話によると、その頃ロシア軍が家に来て、「娘(姉)を出せ」と言った。


2番目の兄が「姉はいない」と言った。


父、姉、二人の兄は当時、軍の官舎に住んでいたのだが、隣の家と彼らが住んでいた家の、屋根裏部分の間にあった壁を取り払い、お互いが行き来できるようにしていた。


ロシア軍が来た時、姉は屋根裏経由で隣の家に隠れていたのだ。


こうして、姉は事なきを得たが、父は足を撃たれたこともあった。



日本が負けたことで、朝鮮半島は日本の植民地支配から開放された。


年配の朝鮮の人々は良くしてくれたが、若い人たちの中には横柄な態度を取り始めた人もいた。


その頃、父、姉、兄二人は葫芦島から船で日本に帰国した。



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こうして姑から聞いた話をブログでまとめているうちに、いくつかの食い違いに気づいたので、食事をしながら質問する。



が、姑も忘れていることも多いし、なかなか進まないが、時間をかけてインタビューしながら進めていきたい。




鍋焼きうどんと天ぷらを注文する姑の生命力はすごいなあ、と毎回思う。



それに比べて私が食べたのは、サーモン、サラダ、オレンジのみ
が、パンとお菓子で補填する

2025年1月27日月曜日

シリコンバレーのお葬式事情

友人の友人(69歳)のご主人(71歳)が、朝起きたら亡くなっていたそうだ。


パーキンソン病はあるが、前日まで普通に暮らしていらしたということ。


お葬式の準備を始めたら、サンノゼ(シリコンバレー全体?)の驚愕の現状がわかった。


火葬のウェイトリストはとんでもなく長く、1ヶ月先まで順番が回って来ない。


両親の死の際に思ったが、火葬する時の悲しみは大変なものだ。


とはいえ、そうすることで気持ちを整理し始めることができる。


その日が来るのが遅ければ遅いほど、その分悲しみを引きずるような気がする。


それが、1ヶ月!


その間実際に遺体に会いたいと言う弔問客もあることだろう。


その場合、冷凍庫(と友人は言った)の引き出しを開けて遺体に実際に対面するには、毎回$100かかるということ。


誰かの弔問が10回あったとしたら、それだけで$1000。


死を悼むどころか、そろばん計算機をパチパチしそうだ。


調べてみると、サンノゼでの火葬費用は$1195から$2350、お葬式は$1575ドルから$9280ドルということ。



今回姑と義妹2人が我が家に滞在していた時、3人は本当に元気だなあ、とつくづく思った。


食べるものを見てもそう感じる。


例えば以下の写真は、近所のレストランに朝食に行った時のもの。

義妹1はチーズたっぷりのハム、ポテトにトースト



義妹2はハッシュドポテト、オムレツ、トースト

夫はハッシュドポテトとスパニッシュオムレツ


私はパンケーキ普通サイズ1枚


とこんなところでも、生命力の違いを感じる。


92歳の姑が食べたものはこれ⬇️


あと20年はいけるでしょうな

2025年1月25日土曜日

義妹たちとコロラド移動

コロラドに来て3日目。

義妹たちは雪でサンノゼに来る時2時間遅れたので
$100金券を受け取ったらしい!



こちらに来るフライトは姑、義妹2人と一緒だった。

機内はガラガラ


姑に腹を立てながらも、世話をする義妹たち。


どうしているのか、と電話で様子を聞いてくる義兄。


姑は幸せだなあ、とつくづく思う。

髪がフサフサなので、抜け毛があるかどうか聞いたら、
「1日に3,4本は抜けるよ」ということ


今回はコロラドで初めて雪道を運転したが、路上の雪はすぐ溶けるので思ったよりは怖くない。

車庫から出たところ


次男は怪我のあと、最初の数日で4㌔ぐらい体重が減ったそうで、痛みもまだある。


前歯2本を含めて3本の歯が折れたので、それを直すまで日本には行けない。


もちろんまだ口に入れられるものは、ストローで飲めるものだけ。

ベビーフードの他に買った出来合いのスープ


写真のような出来合いのスープを買ってきて、ブレンダーで液状にし、こし網で粒が残らないようにヘラで濾し、ストローで飲む。


これが三種の神器


MRIによると脳震盪はなかったそうだが、近いうちに心臓内科の専門医の診察を受けるようだ。


これは転倒したあと、受けるべき検査らしい。



さて、姑が満州から日本に帰還して来た時のことを、近いうちに何度かに分けて書きたい。


この記録は、私が一番好きな夫側の親戚R叔父さんさんに最初に送るつもりだった。


が、義妹たちが「R叔父さんはコントロールフリーク(状況や人々を支配したい人)だから、送ってはダメ!」と口を揃えて言う(この発言こそちょっとコントロール・・・?)。


知的でユーモアのセンスもあるR 叔父さんがコントロールフリークとは思えないが、そこまで言われると送ることはできない。


約束を反故にしたようで気になるが、少し時間を置いて送ろうと思う。


フサフサ真っ黒髪の義妹には絶対勝てない‼️

2024年9月25日水曜日

姑の壮大な歴史

コロラドは突然朝晩寒くなってきた。

今年初めての冠雪


次男一家がコロラドに引っ越したために、 数年連絡し合わなかった夫の兄妹たちと、また交流するようになった。

Park Meadowモールの駐車場で、うろこ雲に気がついた


姑とは色々とあったが、1月には92歳。


もうお互い先が長いわけでもない。


義妹たちとも気持ち良く付き合いたいが、どうも私の心の底にはまだ少し垣根がある。


唯一今後も関わりたくない、という気持ちが拭えない義兄夫婦は、アリゾナに引っ越した。


なので、顔を合わせることもあまりない。

次男は2017年型トヨタ・タコマを運転中(幹線道路)
突然ブレーキが効かなくなる、ということがあった
修理工場まで牽引(修理代$1800)


姑は薬一つ飲むこともなく、健康である。


歩行は長距離に限りサポートを必要とするが、それでも足の痛みも何もなく、なによりも認知症には程遠い記憶力の良さだ。


そして、その記憶がしっかりしている間に、姑のいくつかの歴史的体験を書き留めておきたい、と思った。


なので、また東京ベーカリーに、一緒に行き話を聞くことにした。


これには夫の兄妹がとても関心を持っている。


が、姑はあまり英語が話せない。


家族は誰も日本語を理解しない。


なので、ファミリーヒストリーとして私が記録しておき、息子たちに伝えてもいいな、という思いがある。


書き留めておきたい記録は、姑が満州から一人で引き揚げた時のこと、初めて渡米した時のこと。


そもそも姑と夫以外の兄妹たちは、自分の家系がとても高貴なもの、と信じていて、そのことばかりに焦点を置き、実際の歴史は殆ど知らない。


特に満州から引き揚げた時、姑はまだ子供だった。


母が生きていた時、藤原ていさんの「流れる星は生きている」を毎日少しずつ読んであげたのだが、これがとても感銘深い本だった。


姑もたった一人で、満州からどうやって日本に帰ったか、という壮大なストーリーがある。


それを今私が書き留めて、今後何度も姑にインタビューを重ね、史実をチェックし、と時間をかけて記録することにした。


史実チェックだけで、膨大な時間がかかりそうだが、これが思いの外おもしろい。


姑が満州から北朝鮮を通過し(当時はまだ朝鮮人民共和国で、北朝鮮と韓国に分かれていなかったが)、どうやってたった一人で広島に帰り着いたか。


いつかここに書きたい。


勿論藤原ていさんの足元にも及ばないが、史実に基づいたストーリー。


それまでは、コロラドの寿司屋さんの、濃い濃い味の巻物の写真でお茶を濁したいと思う。


ま、私のストーリーでは
「流れるスシは生きている」レベルだろうが

2024年9月20日金曜日

トレジョのミニトートバッグ

トレジョ(トレーダー・ジョーズ)のトートバッグはアメリカでも日本でも人気がある。


左が大きいトートバッグで、以前はどこのトレジョにもあったが、今はあまり見ない。


小さいトートバッグは大人気の限定販売品で、プレミアムがついてヤフオクやメルカリでも販売されている。


小さなトートバッグは、年に2度ほどお店で販売される。


ちょうどパソコンが入る大きさ

両面に外ポケット付き
日本の買い物バッグと比べると2周りほど小さい


その限定販売が9月18日の朝8時から、という情報を得たので7時45分に夫と行ったら、もう行列ができていた。



しばらくすると、店員さんがお店から出てきて、お一人様5つまでです、皆さんに行き渡るだけの数が充分あるので、大丈夫ですよ、と説明がある。


このバッグは、アメリカでも日本でも場合によっては高額で転売されるらしい。


私はこの大型版トートバッグが好きなので、小型があると聞いて以来ずっとほしかった。


家族連れで来た人たちも含め、どの人(子供)も腕に5つ抱えてお店を出てくる。


夫と私で10個買った。


その後姑を東京ベーカリーに連れて行く約束をしていたので、50キロほど運転して姑が住む義妹のを家でピックアップ。

東京ベーカリー前の道


そこからまた20キロほど離れたところにあるベーカリーに、まず姑を連れて行く。

持ち帰り用のパンやサンドイッチとコーヒー
(はっきり言って日本で食べるパンとはかなり違う)


食後買い物に行きたいという姑を、朝行ったトレジョとはまた違う姑の家の近所にあるトレジョに連れて行く。


そこにはまだトートバッグが残っていた。

1つ$2.99


コロラドで家族に、そして日本の友人へのお土産が買えたと思うと、大きな達成感がある。


なにしろ、毎日毎日食事作り、片付け、孫と遊び本を読んであげて寝かしつける、という単調な日々。

右は先日7歳になった孫の靴、左が私の靴24㌢

夜は私のベッド横で、7歳と4歳の孫ズが寝る
4歳の方は寝たあと、子供部屋に移す


トートバッグ三昧の一日の終わりに、孫1のために注文していた、ゴーグルと革手袋がアマゾンから届く。


ゴーグルはこんな感じで7歳児の目をちゃんとカバーする
革手袋もピッタリ


が、トリクシーがこの革手袋を気に入ってしまって、数分後には裏庭に持って行き、クチャクチャになっていた。


次男はトリクシーがかわいくてたまらないので、ヤレヤレという顔はするものの、トリクシーを裏庭に連れて行きシャワータイム。

ぬるま湯でシャンプーしている間、大人しく立っているトリクシー


私はその間、孫1のバックパックから宿題を出して、一緒に終わらせる。


バックパックから、黄色いポストイットが出てきた。


女子クラスメイト・ハナちゃんから孫1への、「Your (You're)  funny」というメッセージである。


幼少時、おもろい男がモテるのは万国共通である

2024年9月7日土曜日

クリスマスストッキング#3

次男と孫ズが3泊し、ぞろぞろと帰って行ったと思ったら、70時間後また次男が仕事がらみで我が家にUターンしてきた。


孫ズが来ると、長男とサキが公園に連れて行ってくれる(これでどうにか1日は潰れる)。

真ん中ピンクのシャツがサキ、その左側長男、右端が次男

孫ズを遊具に乗せて両側から押す息子たち
(黒の帽子、グレーT、ダークジーンズでまるで双子)


次男一人で来ると孫ズの世話をしなくていいのだが、今度はマリーが仕事と子供2人の送迎や世話で大変だろうなあ、と気になる。


我が家と次男家族の家は1550キロ離れている。


日本国内で言えば、秋田市にぎわい交流館から佐世保市体育文化館までの距離(余計わかりにくい?)ぐらいだ。


孫ズは猛暑の中プールを楽しみ、夜は熟睡。


夜は私の寝室で寝たいと言う二人
私は安眠できない3晩だった


思えば4年前は、次男一家が4人で我が家に半年住み、2020年6月に我が家から歩いて行けるところに家を買い、2023年末にはコロラドに引っ越して行った。

我が家に同居していた頃、孫1は2〜3歳で手がかかった


いつも思うのだが、息子たちは親がもう年をとって色々なことに対処する体力がなくなってきていることが、想像できないのではないか。


姑が言う。


車の運転を一昨年(89歳の時)やめて以来、まるでJAIL(牢屋)にいるみたいよ、と。


娘夫婦と同居はしているが、彼らも孫の世話があり忙しい。


姑の住むところには、ベイエリアのように、近所に(車で10分以内)和食材のお店やベーカリーがあるわけでもなく、歩いて行けるお店は皆無。


数年前に東京ベーカリーというお店ができたが、ここに行くにも姑の住むところから車を15分ほど運転しないといけない。



お店はモダンな造り

パンは$43だが、チップが15%で一気に高くなる
(気がする)


運転していた頃は、車で5分のターゲット(ニトリのような大型店)やスーパーに行ってたのに、それすらできなくなった。


今はまるで牢屋にいるみたい、という姑の気持ちはよくわかる。

姑は中距離以上を歩く時、誰かの補助が必要


私だって、コロラドで車が使えない日はまるで牢屋にいるみたいな気分になる。


なにしろ、サンノゼの我が家と違って、次男の家の周りは歩いても歩いても、人っ子一人すれ違わない。


なので、出かけると言えば車の運転は必須。


やはり日本がいいが、かといって家族はアメリカにいる。


この堂々巡りの悩みは数年続いているが、そろそろ決断しないといけない締め切りが近づいてきている。



いや、もっと早急にやっつけないといけないものがある。


孫#3のクリスマスストッキングである。


10月初旬に生まれる予定の孫#3。


つまりクリスマスには#3のストッキングが必要だ。


Dimensionsというブランドのものなら、なんでもいいから選んで、とベビー母に任せた。


私の好みとしては、こういう色がはっきりしたものだ。

左がマリー、右がサキに作ったもの


が、彼女が選んだものはこれ。





う〜〜〜〜〜ん。


これはとても難しい。


クリスマスまでに間に合うとは思えない。


9月6日現在でこれ・・・


なぜって・・・


ババアには白糸が見えんのよ〜〜