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2023年10月7日土曜日

姉との古い写真

姉がいて良かったと思う。


歳が離れているので、小さい頃は一緒に遊ぶこともなかったが、今は一緒に遊ぶ。


「遊ぶ」というのは、一緒に御飯を食べに行ったり、神社仏閣に行ったりすることだが。


色白の姉に比べて、私は幼い時から色黒だった


姉は40年以上働いたので、年金は女性としてはそう悪くないかもしれない。


それでも、今の日本の値上げラッシュを見ていると、老後の生活は大丈夫なのだろうか、と最近心配になってきた。


このチャートはこのサイトからお借りしたもの。



国民年金保険料は増える一方なのに、老齢基礎年金額は減るばかり、ということらしい。(私は日本の年金に関して殆ど知識がないので、間違っていたら訂正していただきたい。)



一方アメリカのSocial Security(社会保障年金)はCOLA (Cost of Living Adjustments)、つまり生計費調整で、一昨年5.9%、去年は8.7%上昇した。



その上日本のiDeCoのような制度があり、RMDと呼ばれるのだが、これを72歳辺り(生まれた年によって開始時期は違う)からおろすことが義務付けられている。


ちょうどカリフォルニアばあさんと、先週年金のことなどを話したところで、色々な学びがあった。


ここに記事をアップされている。


我が家も少しRMDには貯めているが、それが充分なのかどうかは全く見当がつかない。


COLAは高率とはいえ、基本的に物価が高過ぎる。


10年後のアメリカの物価や住宅事情はどういう状態なのだろうか。


その頃自分の健康状態もどうなっているのか。


一番怖いのは認知症である。


認知症を患ってアメリカに住むのは可能なのか。


父が認知症を患って入っていた特養に比べて、アメリカの高齢者施設にかかる料金はとんでもなく高い。


5歳年上の姉よりも、私の記憶障害の方がずっとひどい。


下の写真はもう40年前のことなのに、まだこの時のことを色々覚えている。

日本から遊びに来た姉と、私(in 当時のホットパンツ)


とにかく、昔のことは覚えているのに、数秒前にしたこと、考えたことを忘れるのは認知症の典型的な症状だ。


そして私のこの症状は年々ひどくなる一方である。


下の写真も40年前の写真で、先日古い写真を整理していた時出てきたものだ。


これを見て浮かんだ言葉がある。

「オー・モーレツ!」
54年前の流行り言葉である

2023年8月12日土曜日

遅延再生障害テスト(記憶と認識テスト)

エライコッチャ、エライコッチャ!


なんでもう次々と悩まされることばかり起きるんじゃ!と言いたい。


8月14日に、かかりつけ医Dr. Kのオフィスで、 記憶障害テストを受けることになった。


Dr.Kが前回私を診察した時に、認知症の気配を感じたのか。


いや、そうではなくてこういう理由らしい。


This appointment is to check memory and cognitive skills. We will ask you a series of questions. Medicare requires this type of appointment once a year.


つまりメディケアを受けられる年齢(65歳)になると、シニアとして記憶と認識検査を年に一度受けないといけない、ということである。


なので、ちょっと練習してみた。(YouTube)


2つのテストを見てみると、1つは4つの言葉、もう1つは5つの言葉を覚えないといけない。


では5つで練習してみよう。


次の5つの言葉を復唱してください、そして覚えておいてください。


5分後にその5つの言葉を教えてください(テストは3つから5つで、両方ではない)。


Apple, Tree, Tie, House, Car


こういう時はイメージで覚えるのがいいらしい。


が、問題がある。


英語で5つの言葉が覚えられるとは思えない。


なので、英語⇒イメージ⇒日本語⇒英語、と転換して答えねばならない。


🍎 🌲 👔 🏠 🚘

↓

りんご、木、ネクタイ、家、車

↓

Apple, Tree, Tie, House, Car


転換しているうちに、最後の2つ、あるいは3つを忘れそうな気がする。


もっと難しい言葉もあるようだ。


例えばdrivewayやjustice(YouTubeのテストではJusticeが使われれいる)など。


Justiceのような言葉は何を思い浮かべるべきなのか。


裁判所とか?・・・ってどんなイメージなんじゃ。


私は5つを5分後まで覚えてはいられない。


しかも、その5分間は他のテストを受けているのだから。


いや、3つも無理かも。


多分他のテストは大丈夫だろう。(と思いたい)


父が認知症のテストを受けた時、やはりこの質問にだけ答えられなかった。


そして、他の質問には答えられても、この遅延再生障害はアルツハイマーの症状の一つであるらしい。

老健で晩年を過ごしたアルツハイマーの父


正に私だ。


他には「数字を言います、反対から繰り返してください」というのもある。


これは3つ、あるいは5つの言葉を数分後に再生するのと違って、すぐ繰り返すことができるかどうかを試される。


とはいえ、5つの数字を反対から、しかも英語で再生はできない。


3,8,1,9,2を2,9.1.8.3と並べ替えるだけでも難しいのに、英語に転換できるか?


これは多分ほとんど答えられない自信がある。


さて、テストは月曜日。


どうなることやら。

日本で何を食べたか、なら
自信を持って思い出せるのに

2023年2月22日水曜日

老後はどこ?議論再燃 47 妄想老後生活 @ 京都室町六角

老後の生活に欠かせないもの。


それは、友人、健脚、そしてお蕎麦である。


私が住む室町六角からも、歩いて行けるお蕎麦屋さんがいくつかある。

寺町京極にある有喜屋にも歩いて
ランチセットを食べに行くことが多い


2004年に建てられた私のマンションは、地下鉄烏丸御池駅から徒歩4分、四条駅から7分、阪急京都線烏丸駅からも7分の場所にある。


とにかく、京都のド街ナカである。


48㎡、1LDK(17帖のLDKと5帖の寝室)のこの部屋を、5年前、つまり2023年春に3700万円で買った。


23年の1月2月の寒さが築33年の一軒家(実家)ではことの他厳しく感じられ、なけなしの老後資金に手を付けて買ったものだ。


管理費・修繕積立金で毎月23,820円が出ていくが、22年から高騰し始めた光熱費を考えると一軒家に住み続けるのは無理だと判断した。


健康寿命は75歳と言われるが、あと5年間はこの街ナカから日々歩いて寿命を伸ばそうではないか。


70歳からもらえる敬老パスを使ってバスに乗ることも多いが、とにかく歩くようにしている。

地下鉄よりも市バスに乗ることが多い京都の高齢者(東京も?)


今日は早朝歩いて27分の東本願寺まで行き、目の前の京都駅からJR奈良線で2駅目にある伏見稲荷大社に行くことにした。

散歩するのにちょうどいい距離の東本願寺


伏見稲荷大社は、昔からよく来た場所だ。

父の介護をしていた頃、よく通った


外国人はこの鳥居の文字が書いてある面が好きなんだと聞くが、私は勿論文字のない方、そして違う方向から見るのも好きだ。


横から見る鳥居も壮観な佇まい


今日はたまたま狂言を観ることもできたが、疲れたので早々と切り上げ、お蕎麦を食べて帰ることにした。


今の私の人生から蕎麦はかけ離すことのできない食べ物だが、昔はうどんが好きだった。


京都でうどんと言えばすぐ思い浮かぶのが 冨美家である。



10代の頃、父と初めて錦小路通の冨美家でうどんを食べた時のことは忘れない。


こんなに美味しいうどんがあるのか、と衝撃を受けた。


そしてどんな理由からかわからないのだが、うどんを食べる父が涙を浮かべていたことも忘れられない。


母が1968年に薬害で寝たきりになり、父はまだ子供だった私と一緒に、二人っきりでうどんをすすることに哀しみを感じたのかもしれない。


父との思い出には有楽町で食べたうどんもあった。


そういった思い出のせいか麺類は物悲しさに繋がる。


いや、繋がっていた。


堺町通にある冨美家で、ニシン蕎麦をいとこと初めて食べた日までは。


「蕎麦にニシン」を入れる、という食べ方にたまげた。


その日から蕎麦派に転向した。


そして今は蕎麦を食べる度に、ニシン蕎麦を初めて食べた時と同じ、エンドルフィンで満たされるようになったのだ。


こうして記憶は次々と、上書き保存されていく

2022年8月21日日曜日

老後はどこ?議論再燃 7 トシ取って英語話したくない(2)

バンカメ送金手続き時のフラストレーション、続話。


そもそもアメリカで仕事をしているアメリカ人は、I just work here.という意識を持つ人が多く、自分の仕事に責任を持たない輩が多い。


この会社のシステムがそうなってるんだから、私のせいじゃないわよ、文句言うなら会社のシステムに言ったら?というような態度。


送金のための書類を作っている時、送金先銀行の支店番号を入れるところがない、とキム(仮名)に言われた私は、仕方ないので口座番号のみを入力してもらった。


間違いがないことを確認したあと、キムが上司の承認を取りに行った。


私はその間、送金先の銀行のサイトで支店番号が必要かどうか調べてみた。


そこには、支店番号は必ず入力してください、と書いてある。


おお、必ず、という言葉があるぞ。


上司の部屋から帰ってきたキムに、今調べたら支店番号は必ず入れてください、って書いてあるから口座番号欄に、支店番号と口座番号の間のスペースナシで追加したい、と告げた。


キム激怒!


👩あなたはこの送金書類を見て、これでいいって言ったでしょ!だから、私は(隣に座っている)上司に見せて承認を取ったのに、今になって支店番号を追加したいってどういうこと!!あなたは私が作った書類でいいと言ったの覚えてるでしょ!!


これには私も頭に来た。


🐽最初から支店番号を入れたいって言いましたよね?でも入力する欄がないから無理、とあなたが言った。その後私が送金先のサイトで支店番号は必須であることを確認して、口座番号の前に3桁の支店番号を追加したいと言った、これのどこがそこまで問題なわけ?


キムの声は、トーンが全く変わるほどの怒りを含んでいたが、私は穏やかに言い返した(つもり)。


最終的にはキムも、大きくため息をつきながら支店番号を入れ、書類は承認され送金できたのだが、アメリカで仕事をしている友人たちの、ストレスが理解できた。


そうでなくともアジア人、年寄り、英語もネイティブではない、という三重苦。


今だからまだどうにか英語で言い返すことができるが、介護施設の中で、80歳になった自分が、若いキムたちと英語でコミュニケーションを取れるとは思えない。


そして、汚れたオムツを一日中我慢しているかもしれない。


me オシッコ・・・


What's oshikko?


なんていう会話が想像できる。



やはり東京での賃貸生活⇒サ高住⇒老人ホーム、という道を辿るのもいいかもしれない。


できれば、その頃の日本は高齢者に優しい社会で、東京の便利な場所のホーム(銀座とか?)も値下がりし、そこに入居する。


四丁目の三越で葛饅頭を買ったあと、ルノアールに行きコーヒー昆布茶を飲む(持参の葛饅頭も目立たないように食す)。


息子たち家族が日本に毎年来て、1ヶ月滞在する、その間私にも時々会いに来る、なんてのもありか?


高齢の親の存在は精神的な重しになり得るが、離れて住む親に時々会うのは、子供にとっても楽だろう。


そして、親の死後、懐かしい存在として親を思い出すだろう。

父が最後に出した年賀状(死の6ヶ月前)
父の文字はとても読みにくいが、
色々な(あたたかい)思い出をありがとうございます、と書いている


下の写真は、長男が特養にいる父と最後に会った時のものだ。


子供に別れを悲しんでもらうには、長期介護をさせないこと
そして近くに住まないこと、かも(?)

2022年4月8日金曜日

老後(つまり、今)気をつけること

3月23日に日本からアメリカに帰国し、今日で2週間半。


KITTEビルの5Fレストラン「菜な」からの景色

菜なでのランチはメカジキの西京焼き定食1200円


今回の日本行きは、自分の年齢を考えて生活をシンプルにするための手続きをするのが目的だった。


国立社会保障・人口問題研究所の推計では、日本の65歳以上の高齢者単独世帯は2040年、つまり18年後には全高齢者世帯の4割を占めるようになるそうだ(同じ年、高齢者の総人口に対する割合は35.3%になる予測)。

日本に行く前は、毎日ベーグルとコーヒーだけの朝食だったが、
帰国後は朝からちゃんとタンパク質と野菜を食べるようにしている


日本にいる時特別高齢者が多い国だと感じなかったのは、池袋、丸の内、三条烏丸で過ごす時間が殆どだったからだろう。


が、そろそろ自分が何もできなくなった時のことを考えて、できることはしておく時がきていると感じる。

なのに、アメリカに帰ったら帰ったで、
こういうもの(タルト)も食べたくなる


アルツハイマーの父を世話したので、人間は何でもできる状態から、何もできなくなるまでは意外と速い、とわかっていたし、私がアルツハイマーにかかる可能性は高い。


アルツハイマーの症状が出てちょうど5年後の父
この写真から1年半後に永眠した


そして、自分が元気なうちにあとに残す家族に迷惑をかけないように、今のうちにできる手続きはしておくことにした。


まず、日本で借りていたガラケー(電話のためにだけ契約していた)を返却。


返却する前に写真を全てパソコンに移したり、電話番号を保存したり、という作業の他、今回は京都で開設していた銀行口座を一つだけ残し、あとは全て解約する、という目的があった。


だが、この口座解約手続きにかなりのエネルギーを使い、消耗してしまった。



なにしろ、残高0円の外貨預金などもあったので、朝9時に行って長い手続きのあと、「あっ!外貨預金も持ってらっしゃるのですね。(残高0であっても)10時半に今日の為替レートが発表されてから、もう一度出直してください。」と言われ、出直したり。


銀行では毎回気分が悪くなるのはなぜだろう。


待っている間に具合が悪くなり、これが日本では一番辛い時間だった。



とにかく、行けるうちに日本に行き、老後のことを計画せねば。



実は先週我が家の家計を改めて見直す機会があり、かなり失望したのだ。


いやあ〜、知らんかったぁ〜。



年金生活になる前に、リサーチをしておかないといけない。


老後のことだ。


日本で生活をすることができるかどうか、の可能性を詰めていきたい。


そのためには、今住んでいる家を売れば首都圏にマンションを買うことができるのかどうか、も知りたい。

沢木耕太郎サマを見かけないか、と
三茶にも行ってみた

が、勿論見かけなかった


今後気をつけねばならないのは、転倒に気をつけること。


そして、もう少し健康的な食生活にすること。

Costcoで買ったプランターがスグレモノで、
レタス、ブロッコリーなどの野菜が育つのなんの!


ストレッチも毎日。(のつもり)


脳トレのための刺繍も続ける。


去年サキのために作ったクリスマスストッキングが
とても好きだったので、また作っている


そして・・・


指にまで刺繍しないこと


2022年2月17日木曜日

昭和28年

一番好きな作家は誰か、と聞かれたら「沢木耕太郎」と答える。


その沢木耕太郎のエッセイ「246」を読んでいたら、こんなフレーズがあった。


「全ては失われるためにあるというという平凡な真理をあらためて思い起こしていた。時の流れは急なのだ。そんなことに不意に気づかされる。」


これは、沢木耕太郎のお嬢さんが3歳の頃、沢木氏が父親として持った感情だが、ものすごく心に残る言葉だ。


そうだなあ、と失われるものを考える。


親を失う。


その頃には自分は、肌のハリも、数本の歯も失っているかもしれない。



いや、その前にもっともっと色々なものを失っている。



以下の写真は昭和28年に福音館から発行された略画小事典だが、父が生前好んで見ていたものだ。


昭和20年代の風景がほのぼのとしていて、なんとも癒やされる。






子供の頃、小学校から帰宅すると、ランドセルを家の中に投げ入れてすぐ遊びに行った。


洞窟を探検する、トンボの目を回して捕まえる、お姫様誘拐ごっこ、などなど遊びに夢中だったあの頃。


なんとまあ、一切の屈託がなかった時代だったのか、と懐かしく思い出す。




家族は小さな家で睦まじく暮らし、子どもたちもiPadやテレビゲームではなく、おままごとや縄跳びで遊んでいた。



自分のことを思い出しても、テニスに明け暮れた中学時代、永遠に続くかと思った不遇な(親が一緒にいない、背が高い、太っていた)高校時代、思えば18歳までが一番長かったと思う。


アキに鼻水が出たことで、ヒロも託児所に行けないことになり、
12月から1月は3週間自宅待機になった二人(託児所費用は免除にならない)



その後の人生はあっという間に過ぎた。


特に過去10年は速かった。


平均寿命まで生きたとしても、あと20年ちょっと。


急流に押し流されていると感じる。


過去10年の速度と次の20年の速度が同じぐらいかもしれない。


最近は朝起きた時、指がパシパシするし、腰がボキボキするし、頭がモヤモヤする(この表現で、状態を理解していただけるのは、60代以上の方でしょうか・・・)。


そして、最近よく思う。


残りの人生、友人や家族と幸せな時間だけを共有したい。


相手のいいところを頭の中で膨らませ、彼らを思いやり、自分が正しいと思うことを無駄に主張しない。



便利なものに囲まれ過ぎて、人と人との会話やふれあいが減ってしまった今、物欲も本当になくなってしまった。



冷蔵庫も、洗濯機も、テレビもなかった昭和28年。


家事の量も現代とは比べ物にならないほど多かっただろうが、近所の人たちとの会話もずっと多かったのだろうなと思う。


自分自身のことを思い出しても、昭和30年代、近所の小さな駄菓子屋に行けばピンクの小さなクジが店頭にぶら下がり、それを一枚取ってその場で舐めたりしていたものだ。


スカ、が出ればそれまで、アタリが出ればロッテコーヒーガム(一番好きだった)などをもらっていた。


コロナでソーシャルディスタンスを取らないといけない今では考えられないほどの光景だが、なんとも温かい時代だったと思う。



シュールな時代でもあった

2022年2月15日火曜日

高輪にある老人ホーム

2月10日、日本での新たな水際対策措置が発表された。


入国後の検疫所が確保する隔離施設での待機期間が、全米の4州からの帰国者以外は3日間になり、その後自分で手配したホテルか自宅で4日間、計7日間の隔離になった。


4日間指定隔離施設での隔離対象になる4州は、カリフォルニア州、イリノイ州、ニューヨーク州、フロリダ州で、この4州からの入国者は隔離施設で6日間待機+1日の自宅(ホテル)待機する。


3月になると、入国規制が段階的に緩和されるというニュースもあるが、どういう形で緩和されるかはまだわからない。


おそらく、ビジネス関係者や留学生、技能実習生などの入国が認められるようになるのだろう。


私は3月初めの成田行きフライトを予約しているが、政府指定の宿泊施設での隔離期間が3日間にならない限り、日本行きは保留にしたいと思っている。


フライトの前72時間以内にはやはりPCR検査を受けねばならないし、ベイエリアだとこの検査機関が良さそうだが、検査費用は$185かかる。


とにかく、一日も早く京都ですませたい用事があり、日本に行くことができても、今回は2週間で帰国しようと思う。



さて、話は変わり、オードリー・ヘップバーンの人生を描いたドキュメンタリーを見て、人生観が変わるほど考えさせられた。


ヘップバーンの女優としての人生のことはここでは話題にしなくとも、知的で美しく、多くの名作を遺した女優であることは周知の通り。


十代の時は、戦争のためにプリマドンナになる夢を諦め、結婚後は不実な夫たちのために苦労したが、晩年のヘップバーンは知性あふれた美しい女性だ。



ティファニーで朝食を、の頃のオードリー・ヘップバーンはまるで女神のように輝いている。


こんなに美しい人だったのか、と目を見張ったが、晩年のヘップバーンの神々しいほどの満ち足りた表情の美しさに、心を奪われてしまった。


ユニセフの大使として、食料や医療の限られた過酷な環境にいる子どもたちを助けていたヘップバーンの表情は、なんとも生き生きとしている(リンクはユニセフのサイト)。


それは自分のライフワークを見つけたからだと思う。


開発途上国に住む、枝のようにやせ細った子供たちを抱くヘップバーンの映像を見て、涙が止まらなかった。


それは私が毎日のように接している、おもちゃと食べ物に囲まれた4歳と1歳の孫たちと無意識のうちに比べてしまったからだ。


アメリカでは定期的に(多くは隔週)色々な慈善事業団体にお金を寄付する人が多く、私たち家族もそれは当たり前のことだと思うし、そうしている。


が、そこには心がこもっていなかったことをしみじみと感じる。



例えば、普段の生活で人を助けることに、全く躊躇はない。


カフェにいる時車椅子に乗った人、その車椅子を押す人がお店に入ろうとするのを見ると、走って行ってドアを開けて支えることに何の戸惑いもない。


街角に立つホームレスの人々には現金を渡す。


お店でパン1つ買っても、こうしたライフライン支えてくれる人たちに、心から感謝をこめてチップを置く。



アメリカの多くの人々にとって(勿論日本を含めて他の国々の人々にとっても)、これは当たり前のことで、誰かがそうする姿を当たり前のように日々見る。


こうした行為には心がこもっているが、引き落としになっている寄付金には自分が全く心をこめていなかった、と改めて思わされた。




が、自分一人の微力ではたった一人の子供も助けてあげられない、もっともっと多くの子たちを助けたいと考えているうちに、ある輸出ビジネスを思いついたのだ。


ここしばらく、そればかり調べていた。


日本でコンタクトする方の見当もつけた。


そのビジネスで得た利益は、全て困窮する子供たちを助ける慈善事業団体に寄付する。


その方も私と同年代で、子供たちへの慈善のためなら労を惜しまないだろう。


が、本当に寄付できるほどの利益に結びつくのだろうか。



色々と調べてみると、なんと(というか当然?)このビジネスはもうすでに存在していることがわかった。


しかも関税などの諸費用がかかるせいか、日本ではかなりの高額(アメリカで$19のものが日本では7400円)で売りに出ていることがわかった。


私の手に負えるビジネスではなさそうだ。


では、やはり自分が納得できる慈善事業団体を見つけて、そこに寄付するか。


アメリカの慈善事業団体に寄付したお金は、幹部のプライベートジェットやボーナスに殆どが使われる、などと言う人もいるが100%そうだとは思えない。


いくらなんでも、殆どは慈善のために使われているとは思うが、やはり具体的にどういう活動状況なのか調べてみたい。



では幹部の利益のためにばかり寄付金が使われているとは思えない、正直そうな日本の慈善事業団体に寄付するとしたら、どこがいいのだろうか。


やはり子どもたちを助けるユニセフ?



そうだ、日本に行った時、ユニセフに実際足を運び、どんな活動をしているのか、そしてどういう形でサポートできるのか、を自分の目で確かめてこよう。


日本ユニセフはどこにあるのだろう。



調べてみた。


なんと高輪にある。




シロガネーゼと呼ばれるリッチなセレブが住む、あの白金・高輪地域?


なぜ慈善事業団体がここに?


いや、お金持ちの地域に置くことでより多額の寄付が集まるから?


何度も訪れた泉岳寺のそば
そういえばあの地域には高級車が多かった


よし、次回の東京滞在の折に、行ってみよう。


近辺の地図を見ているうちに、近所にはアリア高輪という介護付き老人ホームもあることがわかった。


そうか、老人ホームとはいえ、こんな便利な地域にあれば、ちょっとカフェに行ってきます、なんて出かけることもできるしいいかも、と思ったりする。


父が3年半過ごしたホームも、こんな地域にあったら訪ねる私や姉も息抜きのできる場所が多かったのかなあ、とも思う。


介護付きホームってことは、つまり入居する本人はカフェに行くという状態にないかもしれないが、まだ出かけたりする元気もあるうちに入居するのもあり?などと希望を持って考える。


ここもついでに訪問しておく?


入居金がいらない、月額支払型というプランもあるらしい。


20㎡あれば充分だな、と思い料金プランの下方にスクロール。


オーマイガッ!!

2022年1月22日土曜日

息子たちに言ってはいけない言葉

最近、死んだ両親のことをよく思い出すようになった。


息子たちにとって京都の祖父母のイメージは、祖父はとにかく冗談ばかり言うおもしろい人、祖母は何を言うにしても、「あらぁ〜」か「まぁ〜」から始めるいつもニコニコした明るい人というポジティブなものだったらしい。


母は薬害により38歳で失明、下半身不随、そして60歳を過ぎる頃から脳梗塞を起こし始め、どんどん身体機能が衰えていき、舌や唇も動かしにくくなったので、後年は息だけで「あらぁ」「まあ」と言っていた。


それぐらいしか言えなくなってしまったのだ。



私がアメリカに行ってしまったあと、50代の両親は本当に寂しがっていたと、姉からあとで聞いた。


インターネットもなく、手紙を書いても両親の元に届くまで1週間かかり、電話料金も本当に高かったあの頃。


最初の3ヶ月はホームシックにかかって頻繁に両親に手紙も書いていたが、そのうちアメリカの生活が楽しくなり両親のことはあまり考えなくなった。


両親はどれだけ私のことを心配しただろうか、と思うと今になって申し訳ないことをしたなあ、と思ったりする。


なにしろ父は、私が明治天皇陵に行って階段を上がってくる、と言うだけで心配して、「転ぶなよ。」「気をつけなさいよ。」と言って私を苛つかせていたものだ。


先月ネットで話題になった写真家「まり」さんが撮った
心の折れる明治天皇陵階段の写真をお借りしました


子供を持つと楽しみは増えるが、ストレスも激増する。


長男(35歳)とサキ(34歳)は子供を持たない、と決めているわけではないが、持つという決断もできないそうだ。


子供のいない夫婦はいつまでも仲がいいとよく言われるのも、統計上間違ってはいないらしいし、次男一家を見ていると、長男夫婦に子どもがいないのもいいかなと思う。



なにしろコロナ禍の中の子育ては本当に大変だ。


孫たちの通う託児所も、透明ではない鼻水が出ていたら、本人とその兄弟は託児所に行けない、という規則になり、クリスマス休暇も合わせると、風邪をひいた孫たちは過去1ヶ月のうち3週間休んだ。

4歳のヒロは親を消耗させる活動的な子供
1歳のアキは比較的穏やか


次男一家は初秋にヨセミテにキャンプに行ったが、その後次男だけが11月にデスバレー旅行をしたり、マリーだけが旅行する、ということもあった。


それはいいと思う。


夫婦がお互いに、自分だけの時間を楽しむ、ということを👌と感じることができるなら、それでいい。



このあと、3月に次男は天の川を見に、またデスバレー国立公園に行くらしい。


4月にはマリーがマリー姉と二人でハワイに行くそうだ。


が、その後5月には一家揃ってヨセミテ国立公園に行くということ。



次男が車で旅行するのはいいが、行き先がデスバレーと聞くととても心配になる。


11月に行った時は親友Aと一緒だったが、今度はぜひ一人で行きたいという次男。

岩の上に立つ次男と、トラックの前に座る親友A
(ドローンで撮影)


危ないからやめてほしい、と言いたかったが大人の息子にそんなことを言ってはいけない、と自分を抑える。


でも、「自分の子供が18歳になって、デスバレーに一人で行きたいって言ったら心配で行ってほしくないでしょ?」と言うと、次男は頷く。


じゃあ、あなたもやめたら?と言いたいが我慢する。



子供のすることに干渉してはいけない。



「心配だなあ」


「やめたら?」


「気をつけなさいよ」


などなどは禁句だ。


自分の不安を子どもに伝えてはいけない。


父のそういうところがどんなに私を苛つかせたか。


もう息子たちは大人なのだ。



他には人っ子一人いない、11月のデスバレーを砂煙を上げながら走る息子のトラックの動画(ドローンで撮影)を見て思った。





今後、息子たちに言ってもいいのは「あらぁ」「まあ」だけなのかも

2022年1月13日木曜日

東尋坊の写真

シャワードアのパーツがやっと届き、ジャックさんとジーノさんによって取り付けられ、3つのバスルームのリフォームはこれで終了した。




実際取り付けられてみると、これは失敗だったなと思ったが、もうこれ以上何も考えないことにする。


人は目標を達成して幸せになれるのではなく、目標に向かうことで幸せになれる、という心理学の言葉を聞いたことがあるが、わかるような気がするなと思った。


そもそも自分の目標は何かと聞かれると、はっきり返事できない。


とにかく、日々穏やかに生活するだけで、精一杯。

今日の夕焼けはすばらしかった


いや、とりあえずコロナ感染状況が落ち着き、以前のような世界が戻ってくればいいと思うが、今はまだ静観するしかなさそうだ。


早く入国規制が緩和され、日本に行きたいとも思うが、それは目標ではない。


ここからの写真は、イギリスから日本に先週入国し、日本政府指定のホテルで現在隔離中の友人Yりさんが、提供されたお弁当である(今日が隔離6日目)。


どんなお弁当か見たい、と言った私に、「ありがたくいただいています」と写真を送ってくれた。









4日目の朝初めてパンが提供された






6日目の朝2度目のパン食

しつこいまでの写真のオンパレード
わたくし、お弁当大好きなもので・・・


明日が隔離最終日のYりさんは、その後ご家族の介護とまではいかないが、お世話をする日々が始まる。


Yりさんと話しているうちに、私も両親のことをよく考えるようになった。



母は幸せだったのだろうか。


父は幸せだったのだろうか。


娘たち二人が最期までそばにいてくれた両親は、幸せだったと思いたい。


死の前日までおどけていた父を思い出し、父の死は穏やかなものだったと思うが、どんな別れ方をしても、後悔は残るものだ。



完成したバスルームに、写真を撮るのが趣味だった父の写真を入れた額をかけたかった。


手持ちのブロンズ色のフレームに収まる、白黒の写真。


が、カラー写真ばかりで、白黒のがない。



ふと思い出した。


父が好きだった写真。


それは、京都から東尋坊までオートバイで行った時、父が撮った写真だ。


母の介護に明け暮れる父に、東尋坊まで1泊旅行してきたら?とある日姉が勧めたのだった。


まだまだ母の介護も過酷ではなかった頃のことだ。


お風呂に入りながら、両親に思いを馳せるのにちょうどいい写真だな、と思いフレームに入れた。




父の思い入れがあったこの東尋坊の写真は、もっと横長なのだが、手持ちのフレームに入り切らない。


フレームぐらい新しく買って、写真を完全な状態で入れればいいのに、そこが怠け者の私。


右端はちょこっと5㌢(暗く見える部分)ほど折らせてもらうことにした。


⬇

許せ、父