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2025年12月22日月曜日

幸福の条件をAIに聞いてみた

先週コロラドから帰ってきた。


12月始めに到着した日は雪だったが、その後はずっといいお天気だった。




コロラドの夕焼けはとても濃い色に見える。


その理由をAIに聞いてみた。


コロラドの夕焼けが特に鮮やかな赤い理由は、太陽光が待機中を長距離通過する際の散乱減少に加え、乾燥した高知特有の澄んだ空気、適切な雪の量、そして山岳地帯が引き起こす上昇気流などが複雑に組み合わさっているためです。


だそうだ。



数日前とてもイヤなことがあった。


それ以降、幸せってなんだろう、と毎日考えている。

気持ちが落ちるのはこの天候のせい?


やっぱり家族全員が健康であること?

孫1(8歳)とコロラドのモールを二人で歩いた


もちろん幸せで暮らせる基本は、健康でいられることだろう。

孫2(5歳)はテント生活にハマっている


同じように大事なのは、人間関係、生きがいがあること、つまり心の健康、そしてやはりある程度のお金も必要だとは思う。


心身共に健康で、人間関係もうまくいき、打ち込めることがあっても、お金に困った生活はやはり辛いだろう。

孫3はもうすぐ生後15ヶ月
よく喋るがまだ歩かない


このところ幸せを感じることがあまりない。


朝起きた時から、憂鬱なことを思い出すんである。


幸福感がない。


一体何が幸せの基準なのかわからなくなってしまったので、AIに幸福と感じられる条件を聞いてみた。


幸せの条件は、主に「心身の健康」「良好な人間関係(家族・友人)」「経済的な安定」の3要素に、自己実現や生きがいが加わる総合的な状態です。心理学的には自己受容・他者信頼・貢献が重要で、幸福の40%は日々の行動や考え方で決まるというデータも存在します。


だそうだ。


40%が日々の行動や考え方で決まる、は大きなポイントだなと思う。


ここまで悩んでいると、脳がダメージを受け続けているように思える。


友人たちはどんどん日本やカナダに引っ越してしまって、寂しい。




コロラドのモールはクリスマス一色

対してサンノゼのモールはクリスマス色ほぼゼロ


日本語を話せない家族の中で、いずれ私は孤立してしまうかもしれない。


突然、やっぱり老後は日本の方がいいのかもしれない、と再び考えるようになった。


日本で認知症になったら、息子たちが訪ねて来てくれてももう私は英語を忘れているだろう。


その時どうすればいいか、AIに聞いてみた。


イヤホン型翻訳デバイスを装着すればいい
ということです

2022年7月23日土曜日

記憶

コロナ感染し自宅で隔離生活を送る夫を持つ友人Y子、夫のために毎日上げ膳据え膳していて、もううんざり!と言っていた。


Y子夫(68歳)はなんと21日間自宅検査キットで陽性が続き、22日目にやっと陰性になったそうである。


彼はパクスロビドを最初の5日間服用したから、一旦治ってリバウンドしたのかどうかはわからないが、21日間の隔離生活は辛かっただろう。


一方私は感染6日目に陰性となり、こんな記事もあったことだし今だけは再感染はないのではないか、と出歩いている。


いや、出歩いているなんて言葉は少し違うかもしれない。


出かけ先は主に3箇所。


和食材のお店ニジヤ、家から一番近くはないがオシャレな雰囲気が好きなピーツ、そしてTrader Joe's。

ごくたまにNordstrom Cafeに行くが、最近ガラガラ


あまりにも刺激のない生活に気分が沈む。


ついこの前までは、日本で毎日出歩き、美味しいものを食べ、おしゃべりをしていたのに、今は話す人と言えば孫ぐらいだ。


しかも、この前なんかヒロ(4歳10ヶ月)に英語の発音を直された。


Kindergartenの発音をキンダアガートン、つまりkindagartenと発音していたらしい。


こうして少し気を抜くと、言葉の真ん中辺りのRがちゃんと発音されていなかったことを、孫に指摘されてやっと知る。


やはり住みたいのは日本なのか、と考える。


息子たちは自分の生活でいっぱいいっぱいで、勿論親との会話なんか楽しまない。


リフォームのことになると話ははずむが、他の事では彼らの興味あることに私は全く関心がないし、反対も然り。



10年後、英語がスラスラ出てくるとは思えない。


そして、この全く刺激のない生活の中、ボケていくのは避けられないような気がする。


今日言葉を発したのは一度だけ。


朝ピーツに行ったが、スマホでコーヒーとスコーンを注文し、果物を買いに行き、買い物袋は持ってますか?と聞かれてYESと答えた。


このスコーンにもさすがに飽きた


認知症になる人とならない人の差は、食べ物や運動や脳トレよりも、会話があるかどうかだ、という記事を読んだところなので不安になる。


10年後には英語で会話するのもいやになり、話す人もいず、どんどん認知症が進行してしまうかもしれない。


その前に日本に移住すべきか?と毎日考える。


そして、東京や横浜辺りのマンションを賃貸できないか、とヤフー不動産を見ては夢見ている。


英語の会話はできなくなっていくのだろうが、日本語は一生大丈夫だろう。


父だって最期まで言葉は忘れなかった。


と考えながら、日本で買ったポケットティッシュのネーミングに感心する。


鼻セレブって!すごいネーミング!
って、これ前にも言った?

2021年4月7日水曜日

日本の水際対策 鼻咽頭検査

来る日も来る日も、日本入国規制について調べている。


今日本に入国するとしたらどんな問題があるのか。


クリアする方法とコスト。



などなど調べないといけないことがあまりにも多い。 


(以下は私が調べた範囲内でわかったことで、現在日本入国に関して調べている人の参考になれば、という意味で書いておきます。規制は突然変わることもあるし、クリニックのサービスも確実ではないので、単に参考までに、ということで詳しくはご自分でダブルチェックしてください。)


最近のカリフォルニアの空は、脳内が空っぽになりそうな青

まず、現在の入国規制情報と見通しについてはこのサイトがわかりやすい。


いろいろな方の入国体験談も大いに役立つ。



米国入国規制も含めて、米国・日本往復に関しての質問表。これは少し前のものなので、マイナーな変更はあるが(入国のための陰性証明書項目に関して手書きでいいのか、医療機関のスタッフの署名が必要か、など)概ね大きな変化はない。




アメリカから日本入国に関しては、日本国籍を保持する者は問題ないが、米国籍など日本国籍ではない国籍しか持たない人は領事館に相談した方がいい。



一番の問題は搭乗前出発前(つまり離陸)72時間以内にコロナ陰性証明を取るための検査を受けること。例えば5月4日午前11時に搭乗予定だとしよう。そのためには5月1日午前11時01分以降に検査を受け、結果を受け取ったら、それを日本入国のための陰性証明書として入国の際提示できる形にしないといけないこと。



ということは、遅くとも5月3日午前11時までには検査結果を受け取っておきたい。その後このようなクリニック(サンフランシスコ領事館のサイトからのリンク)で、入国時陰性証明書として提示できるフォーマットに変えてもらう。



証明書を印刷する時間はあるのか!




印刷する時間がない場合、スマホに届いた検査結果をpdfの形で入国時検疫官に提示するのはどうか。


これについてはイリノイ州在住の私がいつも頼りにしているMささんが、

厚生労働省新型コロナウイルス感染症相談窓口(検疫の強化)
海外から:+81-3-3595-2176

に電話して直接聞いてくれた。


👩🏻(Mささん)「印刷できない場合それでもいいですか?」
👩(窓口女性)「印刷したものをなるべくお願いしておりますが…」
👩🏻「最悪間に合わなかったら、メールに添付されたPDFで飛行機乗っても大丈夫ですよね?」(食い下がる)
👩「はぁ…それで入国できないという例は聞いておりませんので…」


という返事だそうで、相談窓口女性はとても丁寧で、「お願いします」という姿勢。いつもながら日本の相談窓口の方々はアメリカと違って、とても感じが良い。



私の場合、検査はサンノゼ空港の駐車場に設けられた戸外の施設で受け、検査の翌日14時までに結果が出る(とクリニックはうたっている)。他の検査機関では「翌日に出る検査$400」というものが多いのに、この空港施設の検査は$170だということで、大丈夫なのか?と思うが調べたところ問題はなさそうだ。



私が利用したあとで大丈夫、ということが確認できればリンクを載せただろうが、現時点では有効性に関しての不安がある。だから今は載せないことにする。




こういう施設での検査有効性に関しての不安がどこから来るのか。


日本入国には日本独自の規制があり、以下のテストしか有効ではない、ということが問題なのだ。





サンノゼ空港のクリニックに電話してみたら確実に後期高齢者と思われる女性が出て、親切に返答してくれる。


アメリカでは80代?と思われる方も多く就労していて、喜ばしいことだ。が、必要な答えは何も返ってこなかった。



親切な女性が言う。検査方法については私はわからないので、検査官に直接聞いてね、Have a nice day, dear.だって。




大丈夫かなあと考え始めるとストレスになる。


カイザー(かかりつけの病院)に電話したけど、検査結果がいつ出るかは保証できない、ということ。まあ想像通り。



Everything is all right.と考えよう。もうストレスは受けたくない。



私も無事コロナワクチンを接種し、これで安心して日本に行けるかと思ったが、日本では今変異種が猛威を奮っている。大丈夫大丈夫。アメリカにいるよりは日本の方が安心感はある。


無事陰性証明書を獲得して、出発空港カウンターに行き、準備オッケー、となったらこの質問表を記入し終えておこう。



ユナイテッドのラウンジが使えるから、そこで搭乗時刻までゆっくり食べたり飲んだりしてよう、と思ったあなた、間違っていますよ。今はラウンジは使えないのです!


私も去年の8月サンフランシスコ空港から日本に飛んだ時、出発2時間前に空港に行って苦労した。せっかくラウンジフリーパスを持っていたのに、ラウンジどころかお店も閉まっているし、歩いている人もほとんどいない!



無事飛行機に乗れた。さあ、飛行機の中は病院と同じフィルターを使っていて、コロナ感染はまずない、とどこの航空会社もうたっているが、ちょっと待った。




飛行機の中ではマスクをしっかりし、トイレでも潔癖症の私はそこらじゅうを消毒してしまう。前回はANAだったが、今回はユナイテッド航空なので、ANAほどトイレをCAが四六時中掃除してくれる、とは思えない。


消毒用ジェル、お手拭き、しっかり確保しておこう。




さて、無事日本に到着したら次は何だ?


検疫ではスマホに厚生省14日隔離のためのアプリがインストールされているかどうかチェックされる。



このアプリがインストールされていない方、日本でのスマホレンタルは15日で15000円もするんでっせ。知ってました?それも厚生労働省指定のアプリのみ使用可能(アプリの追加は不可)ということ。指定のアプリ3つだけが入っているスマホを15日間借りて15000円?



では、自分が居住する国で使っているスマホを使うことにしよう、と私は自分のiPhoneを使おうと決めた。が、スマホ設定で居住国を変更しただけでは、日本のアプリはインストールできない。だから、これを試そうと思った。



まずは日本の住所を使って新たな日本用のApple IDを作ろう!


しかし、問題があることがわかった。いわゆる90日間の呪いというやつだ。


呪いを解くためにはiPadなどのデバイス削除をしておかないとエライことになる。




う〜ん、面倒だ。やっぱり日本のスマホを借りるしかないか、とあきらめかけていたら、突然今までインストールできなかったこの3つが、英語版QRコードで簡単にインストールできるようになっているではないか!



やった!これで15000円節約。



つまり、今回の入国規制のための必要経費は以下だ。

検査料金 $170
陰性証明書発行費用 $50
日本到着後の京成電鉄とハイヤー 2万円
2週間自己隔離のホテル代 ??
日本からアメリカに帰国する際の陰性証明書発行費用 14000円から2万円



準備オッケーか?ととりあえずホッとする。


普通24時間以内で結果がわかるコロナ検査なんて$400かかるのに、このサンノゼ空港の検査施設は安くて良かった〜と安心していたらMささんからテキストが入る。


検査方法は下のチャートにある方法しか有効ではない。


2番めの表にあるような、よく行われるただのNasal swabではダメ!






















図にするとこれ。


鼻の穴の奥とはいえ、咽頭方向に綿棒を突っ込む方法じゃないといけないのだ。


Kobayashi Clinicさんの画像をお借りしました


鼻腔ではなく、鼻咽頭のスワブ検査が必要ということだ!


すぐ検査機関に電話して確認することにした。


でも、またあの親切な後期高齢者の女性?


なら、その前に発音をしっかりしないと聞き取ってもらえない可能性大だ。


Is your test nasopharyngeal(鼻咽頭)or just nasal(鼻腔) swab?




鼻咽頭(nasopharyngeal)なんて言葉生まれてこの方、日本でもアメリカでも使ったことがない。


日本に行くための検査内容を確認、という問い合わせで、発音が悪いためにニッポンジンがバカにされてたまるか!と何度も何度も練習する。



最初のうちはGoogleが、「frのところでrが聞こえない」とか「zoのあとでなんでr入れるわけ?」とか発音にケチをつけくる。



何度練習しても無理。100%オッケーは出ない。


ま、いいか。


この誤発音で落ち着くことにした。


どゆこと?

2020年12月11日金曜日

英語を話すということ オマケ 歌

今朝のヤフーニュースによれば、移住したい国#2は日本(1位はカナダ)だそうだ。

アメリカ人にも人気の日本。


日本語のクラスも常に人気がある。



昨日奈良に行った姉が送ってくれた奈良の写真
私は東京か奈良に移住して、清水にご飯食べに行きたい


私が高校生/大学生/一般市民を教える時も、いかに楽しく習えるかということばかりに心を砕いた。

楽しい授業じゃないと生徒は途端にあくびをし始める。

特に高校生なんて遠慮なくあくびを連発する。


でも、楽しい授業を作ることは一番難しい。


私にはほとんど楽しい授業なんかできなかったような気がする。

特に難しい生徒(文句・泣き言が多い、クラスメイトが白ける発言をする、など)のいるクラスでは空回りすることも多かった。

でも、高校生でもこういう動画を組み込むと喜んでいた。所詮かわいい年頃なのだ。


自分の授業を生徒はどういう形で覚えていてくれるのだろうか、と時々考えたりする。


私が中高生の時英語の授業は全く面白くなかった。

特に高校時代のI原先生なんぞ、覚醒状態維持困難、などという漢字を羅列したくなるような授業だった。

テストは参考書の英文を(各10文ほどの段落)丸暗記し、一語も間違えずに書くことができるか、という全く意味のないもの。


姉の友人は子供の頃英語塾に通っていたそうだ。

そして1週間を英語で覚えるための歌は、今でも覚えている。

月曜日だけは忘れてしまった、ということだが、その歌がこれだ。


日曜日 日曜 洗濯 タクサンデー
火曜日 火事には 水を チューズデー
水曜日 水田(みずた)に 苗を ウエンズデー
木曜日 木刀 腰に サーズデー
金曜日 金髪 料理は フライデー
土曜日 お土産 持って ゴブサタデー



秀逸ではないか!

月曜日は確か月(つき)で始まったような気がする、ということ。

この人がこの英語塾に通ったのは昭和36年頃だそうで、まだアポロ月面着陸の前。

もしかして『月にはもうすぐツキマンデー』?

いや、そんな品のない言い方を塾では教えないだろう。


よし、月曜日の語呂を作ってみようではないか。

こういうのって、作るものでその人の為人(ひととなり)が表れますよね。


あなたも月曜日の歌を作ってみてください。


ちなみに私のは・・・


毎週 月曜 肉マンデー

2020年12月8日火曜日

英語を話すということ 3/3 早期英語教育

中学生になって一番楽しみだったのは、英語を習い始めることだった。

新しい言葉。ウキウキした。


が、最初の英語の授業で打ちのめされた。


教科書に出てくる一番最初の文でつまずいたのだ。

I have a book.

え?え?え?

これは、今、本を手に持っているという意味?

それとも本を所有している、という意味?


当時英語の教科書はクラウンかリーダーという二つに分かれていたと思う(うろ覚え)が、リーダーの方は、

This is a pen.

で始まるということだった。


うらやましかった。
それならわかる。
目の前にあるのは本だ。
手に持っているのか、所有しているのか、なんて迷うことはない。




さて、1983年84年は日本でアルバイトをし、その後アメリカに戻ってきて結婚した。


20代の頃ボストンに旅行しても、興味の対象は文化ではなく食べ物だった(今は?)


そして日本企業の支社の経理部門で働き始めた。そのうち支社長から公認会計士になることを勧められ、午後はほぼ毎日のように職場を抜けて、大学に行くようになった。

が、支社長とその他1人の社員からのセクハラがひどく(毎日午前午後と肩、背中、腕、指の先までマッサージをされた)、会社に行くのが憂鬱でたまらない。そのうち直属の上司である部長が企業秘密を他の会社に漏洩していたことで解雇され、私もそれを機に辞めることにした。



その後二人の子育てをしながら90年代はIT企業のコンサルタント(肩書きだけ立派)としてパートタイムで働きながら、私はまた悩んだ。家でパソコンを使って仕事をする、社会から隔絶された地味な生活。名ばかりのコンサルタントで、していることは下手な翻訳とラベル作り。資格もないしキャリアも積めず、相変わらず何を考えたらいいのかわからない。とにかく満たされない。このまま年をとるのか、と忙しい中暗澹たる気分が続いた。


そんな時、姉がおもしろい本をくれた。沢木耕太郎『深夜特急』単行本2冊、立花隆『宇宙からの帰還』、日高敏隆と竹内久美子共著『ワニはいかにして愛を語るか』、そしてディック・フランシス『本命』だった。

大人になって初めて本に没頭し、知識欲が満たされるというのはこんなに幸福感をもたらしてくれるのか、と感動した。サンノゼにある紀伊国屋で本を買いあさり、時間がある限り読書にふけった。新しい世界を知ることの楽しさ。

ここで初めて、英語でどうしても人に伝えたくてたまらないことができたのだ。それも伝えたい相手は世の中で一番かわいい二人(だった)。

マリーとアキのクリスマスストッキング完成
が、マリーのは今後新たに作り替えることに・・・

ヒロはアキのストッキングの方を気に入ってしまったので、
急遽二人の名前を入れ替えた


この時代私は一番英語をしゃべることができたと思う。自分の頭の中はおもしろい話で満杯だ。香港、インド、パキスタンなど行ったことはないけど興味深い国の話、アポロ計画の裏話、イギリス競馬界の話。おもしろい話を息子たちに教えるためなら、いくらでも英語が出てくる。親しい日本人の知り合いはいなかったから、日本語を話す機会もない。

そうか、エンジニアや会計士になれ、と言われたのは私が有能だったからではなかったのだ。数字にとんでもなく弱いアメリカ人が多い中、私は強かった(指を使ってカウントしない)。そして日本人の特性である生真面目に仕事をこなすこと、ただそれだけが評価されていたのだろう。


そして発音が良かろうがネイティブ並みにしゃべる事ができようが、仕事をする上でそれは大した意味を持つことでもないのだ。キャリアを積んでいても、充実した人生待っているわけではない。

必要なのは、自分の中に充足感があるかどうかなのだ。


英語がしゃべれても人に伝えたいものがなければ、英語で実ある会話はできない。それは日本語での会話でも同じだ。自分のが心が満たされ、自分なりの文化が育ってやっとそれを誰かに伝えたくなるのだろう。その時話す言葉は流暢でなくともいいのだと思う。


クリスマスツリーを出した
キャンディが売り切れ始めたり、全てがクリスマスモードになりつつある

ヒロとは少しずつ日本語で話したい


日本では早期英語教育が導入されている学校が多いようだが、子供達が楽しく学べる限り、悪いことだとは思わない。私の息子たちも楽しみながら日本語を学ぶ機会があったら、そしてバイリンガルになっていたら、それは彼らの財産になっていたと思う。日本語が全くしゃべれない夫と私の間で息子たちが二つの言語に混乱し、母国語さえしゃべれなくなるかもしれない、と心配し私は日本語で会話しなかった。

が、アメリカで育った友人たちの子供は両親が日本語をしゃべる環境で育ち、学校では全く問題なく英語をしゃべるバイリンガルだ。彼らは仕事の選択肢も増え活躍している。そして何よりも、友人たちが子供と日本語でコミュニケーションが取れるのはうらやましい。


日本で育つ子供たちの早期英語教育はまた少し違う話だ。

家で家族と話す時は100%英語、そして学校では日本語、という形が一番自然なバイリンガルに育つ環境だろう。

そういう環境にいない場合、歌やショートストーリーで、幼少時から英語に楽しみながら触れるのはいいことかもしれない。

大事なのは子供の中で育つ物事への興味だろうと思う。そしてそれを否定せずに応援してあげる親の姿勢なのだろう。外国語に興味を示す子供には教えてあげればいい。が、興味を示さない子供には、時間のむだなのかもしれない。特にそれが親のイライラにつながるとしたら。そんな時はその子の興味の対象を深めてあげる、という時間の使い方の方がずっと価値があるように思える。



英語はブロークンで発音は最悪。でも、構文を必死で組み立ててでも伝えたい事のある人。

片や英語がペラペラだが話に中味もおもしろさもない人。

英語でコミュニケーションをとる場合、相手はこの二人のうちのどちらと会話したいだろうか。自分の子供にはどちらの人間に育ってほしいか。




ここ数年私は息子たちと英語がしゃべれなくなった。
英語がまたむずかしくなってきたのだ。
スラスラと言葉が出ない!

家族と話す時、単語が出て来ない状況が増え、息子たちも私と話す時、我慢しているように見える。ような気がする。が、それを態度に出さないように努力しているように見える。(被害妄想?)


私の英語力が落ちたことだけが、息子たちとうまく英語を話せなくなった理由ではない。
私ができなくなったのは、息子たち世代が興味を持つ話題がなくなったことだ。

もう彼らは私から聞きたいことがない。


私が会話したい人は日本語を話す人ばかり。
私の『英語でコミュニケーション』時代は終わったのだ。

が、私が新たな人間性を作っていく時代が始まったのだと思う。
この話はまた後日。



この2匹は早期教育が必要だったのね

2020年11月28日土曜日

英語を話すということ 2/3 挫折

大学4年生の時、私の一番の悩みは『何を考えたらいいのかわからない。』ということだった。


当時のボーイフレンドと姉に笑われたものだ。『考えることがない?』



姉はドストエフスキーとかボーヴォワールを読んでみたら?と言った。


少し読んでみたがますます混乱した。



その頃の私の生活はほぼ男子校のような大学キャンパスでの勉強(ほとんど注意を払ってなかった)、男子生徒たち(全員単純だった)との放課後のおしゃべり、アルバイト、一日中自分の所在を明確にするよう父から義務付けられていた電話(公衆電話から!)に終始していた。



こうして思想も文化も意見もない人間ができあがった。


そして、その人間が卒業後の就職先を探そうとする。



大阪にある企業に面接に行ったが、私にはアピールするものは何もなかった。


そもそも履歴書に書ける趣味や特徴など何もない人間だったのだ。



こんな私が次に考えたのは何か。


そうだ、京都に行こう!


じゃない。私は京都に住んでいたのだ。


私は単純に、そうだ、アメリカに行こう!と決めた。



1973年に固定相場から変動相場に移行した円相場は、当時200円前後をつけ留学ブームが始まりつつあった。



サンノゼ大学を選んだのは、カリフォルニアが日本から近くて暖かいというイメージがあったこと、カリフォルニア各地の大学の写真を見た時、なぜかサンノゼ大学の時計塔が気に入ったこと、それだけの理由で決めた私は本当に何も考えていない人間だった。


さて、Univacというコンピューターの会社で秘書として働いていた私に、Student-in-Training Visaが切れる日が来た。


が、実はその少し前に私をIndustrial Engineerとして雇用したい、というオファーが会社からあり、グリーンカード取得の準備を人事と進めていたのだ。


エンジニアとしてアメリカに永住する可能性が出てきた。


それも自分には破格と感じるお給料での正規雇用。


夢の中にいるような気分だった。



書類審査と面接も終わり、会社が私のためにグリーンカード申請をする段階になった時、会社は規則として社内に『エンジニア募集』のお知らせを出した。


私の上司の推薦で私を雇うことが決まった場合でも、社員にはxxxxポジションの募集がある、と公開しておかないと違法になる。


形だけのものだから心配はいらない、と言われた。



が、最終的に私の雇用は実現しなかった。



癌治療のため病気休暇を取っていた女性社員からクレームがついたのだ。


女性社員の言い分は、自分はこの仕事に就くためのの条件を満たしていて、しかも正社員である。


その自分を差し置いて、アメリカでの就労ビザを持たない者にグリーンカードを取得させてまで雇うことは、癌患者への差別であり、会社を相手取って訴訟を起こす、と正式に人事課に申し入れたのだ。


人事のマネージャーは私を個室に呼び "I'm so sorry."と言った。



人生初の大きな挫折だった。


今なら理解できる。知り合いであるY山さんは人事課マネージャーをしているが、こんなことを言っていた。


アメリカの会社ではxxx差別、という名目で訴訟を起こす社員が一番厄介なので、そういう訴訟問題に発達した場合に備えて企業はどこも顧問弁護士を雇っている、ということだ。


Y山さんは、60歳の時に前の会社をリストラされることになった。


赤字決算、業務縮小のため解雇された数人のうちの一人だったのだが、その際3ヶ月分の給料をseveranceと呼ばれる退職金と共に呈示された。


Y山さんはこのリストラはAge discriminationつまり、年齢による差別が理由で行われている、だから会社を訴えると人事課に伝えた。


彼女にとっては単なる交渉だった。会社からの返事は、退職金を6ヶ月分に増やします、というものだったそうだ。



この挫折のあと私は日本に帰国した。


今思う。


あの時エンジニアとしてアメリカで働き始めていたら・・・


どういう現在につながっていたのだろう・・・


もしかしたらネイティブではない英語で仕事をしないといけないことがつらくなり、仕事を辞めて帰国していたかもしれない。


少なくとも今の夫とは結婚せず、違う人生を送っていたような気もする。


となると、違った幸せと不幸を経験していたのかもしれない。



昨夜は今までの大人数での集まりではなく、長男家族と次男家族とだけサンクスギビングのテーブルを囲んだ。


最近自分は幸せなのか不幸なのかわからなくなってきた。


が、とりあえず食べる時だけは幸せだ。

アメリカではthe same bubble, the same pod(同じグループに属するという意味)の
中にいる人たちとなら集まってもいい、と言われていた


今の私は英語に自信がない。


サキ母は清水市出身というラッキーな人だが、サキ母と日本語だけで話すことができる、ささやかな幸せを感じながらもりもり食べた。

長男が焼いたターキーは生々しい姿


これが英語しかしゃべれない人たちとだけの晩餐会だと、食べた気がしない。


やっぱり私にとって英語は母国語ではない、緊張をもたらす言語なのだ。

近所を歩いていたターキーたちも緊張していたような

2020年11月26日木曜日

英語を話すということ 1/3 愛の行方

この話の一部は6.7年前の記事に一度書いたことがある。


が、もう一度少し形を変えて書くことにした。


また同じ話を〜と思われた方、ちょっと我慢して聞いてくださいね。




40年前の春、初めてアメリカの地を踏んだ。


サンノゼ大学でESLのクラスを9ヶ月とるコースで、留学というよりは遊学。



当時のサンノゼにはビルもなく、舗装されていないダウンタウンを歩くのは大変で、石ころと空き地だらけのダウンタウンには、たくさんの売春婦が立っていた。


シリコンバレーと呼ばれるようになったのはずっと後のことだ。



9ヶ月英語を学ぶことで流暢な英語が喋れるようになり、日本に帰国すればどんな仕事でもあるだろう、と思っていた私はなんとおめでたい人間だったのか。


それも英語なんか全くしゃべれなかったのに。

日本からサンノゼに来て3週目にディズニーランド旅行に当選して行ったが、
この頃他のどの日本人学生よりも英語ができなかった


私はとんでもない思い違いをしていたのだった。


英語が全くしゃべれないまま、9ヶ月コースは終わった。


さて、これからどうする?



そんな時、住んでいたアパートのすぐそばに秘書養成学校があることを知り、そこに行くことにした。


13ヶ月のコースがすんだあと学校の事務局から仕事を紹介してもらい、Univacというコンピューターの会社で働き始めた。


ヒヤリングはできるが、英語はまだまだしゃべれない。


発音も悪い。


なのに、秘書として一日中電話を取り次ぐ仕事をすることになった。



当然電話の向こうにいる人は私の英語がわからない。なにしろ私の所属する部署Facilitiesという言葉さえちゃんと発音できない。



電話をかけてきた人は私の"Facilities(部署の名前)"という最初の一言が理解できない。


"I beg your pardon."と言われてめげるの、なんの。




そんな日が続き、日曜日の夕方になると胃が痛み始めた。


明日の朝また仕事に行かないといけない。


英語の発音が悪い自分が、なぜ電話で話す仕事をしてるんだ。もう辞めたい。



そのことばかり考えて眠れない。が、夜は明ける。


月曜日の朝重い足を引きずって会社に行った。



ある日私をいつも指導してくれていた秘書ルイーズの、3歳のお嬢ちゃんが職場に遊びに来た。


3歳の女の子はまあよくしゃべる。3歳なのに英語がペラペラかあ。当たり前だけど・・・



突然私の脳の中に灯りが点った。



待てよ、あの子は今3歳。3歳であれだけしゃべることができる。


ってことは私がアメリカに来た日を生まれた日と考えれば、今2歳。3歳になるまでにあと1年ある。


その1年で英語がペラペラになってあの子と同じようにしゃべれるはずだ。



それに『石の上にも3年』ということわざがあるではないか。


2年でしゃべれるはずがない。


何事も3年努力することが必要なんだ。



その日から全身耳になり、周りの英語を吸収しようと努力した。


すると自分の英語がどれだけなまっていたかわかり始めた。


時々職場に電話をしてくれていた日本人の友人F田君と話す時、英語も交えて話してみる。


F田君は『お、どないしたん。発音がネイティブっぽくなってきとるやん。』と言う。

上の写真に比べると、アメリカ女子っぽくなっているその頃の私(下は姉)


俄然自信がついてきた。


Facilitiesと電話に出ると誰もPardonと言わなくなった。


この人生の転機は一生忘れられない思い出なのだが、忘れたのはその時3歳の女の子がどういう語彙を持ち、どういう話し方をしていたか、だった。


それは最近になり解明された。

このところ突然寒くなり、ガーデンチェアのクッションも仕舞った


ヒロが3歳を過ぎて、英語の構文が飛躍的に発達したのだ。


お風呂の中で遊んでいるヒロの頭の上に、誤って私がお湯をかけてしまった時のことだ。


眉をしかめて私を睨むヒロ。"What did you do that for?"と言う。


そうか。3歳児はここまでの文を作ることができるのか。


感心した私はなんだか嬉しくなったのでヒロを抱きしめた。


そしてI love you.と言った。


ヒロは困ったように下を向いてつぶやく。


"Noooo, I love my mommy." だそうな。

愛が拒絶された瞬間