ナパダウンタウン |
1989年の10月17日午後5時4分、ジャイアンツのワールドシリーズの試合が始まったところだった。私はその時 Hayward(ヘイワード)のフィールド(他になんと表現すればいいのか、まるで巨大な運動場)に立っていた。ヘイワードはイーストベイにあり、サンフランシスコからは車で30分ぐらいのところだ。
野球の生中継中に起きた初めての地震だった |
突然フィールドが波打ち始めた。海面が波打つ状態、ゼリーにスプーンを入れた時のような状態、電信柱は全て60度ぐらいの角度に曲がったかのように見えた。何が起きているかわからなかった。ただ、何か大変なことが起きているのだけはわかった。
カリフォルニアで過去起きた マグニチュード7.8以上の地震マップ |
この地震がサンタクルーズ近郊を震源地としたマグニチュード6.9の大地震、Loma Prieta earthquake (ローマプリータ地震)だった。
大変なことになった。まずは息子たち2人の生存を確認しないといけない。携帯電話のない時代だ。4人の子供を見てくれている友人に電話しないといけない。青ざめた友人の夫と公衆電話を探した。が、ここはアメリカだ。公衆電話というものが日本のようにそこら中にあるわけではない。しかし、ラッキーにもすぐそばにあった。電話の受話器を持ち上げた頃には、辺り一帯はサイレンに包まれていた。それも複数のサイレンだ。救急車や消防車が何台も走っているのだ。『まるでハリウッド映画だな。』と思ったのを覚えている。
友人には電話がつながらなかった。気が狂ったようにかけ続けたがつながらない。友人の夫が他の電話を探しに行った。しばらくして帰って来た彼は、電話が通じた、5人とも無事だと教えてくれた。一生のうちであんなに安堵した瞬間はなかった。なにしろ子供を誰かに預けて外出したことがなかったのだから。初めて子供から離れた日に起きた出来事だったのだ。
友人の家まで普段なら車で20分ぐらいの距離だ。が、その日は3時間以上かかった。この時子供たちの無事がわかっていたから良かったが、わかっていない状態だったら3時間以上も無力感の中で運転しなくてはならなかったのだ。今から考えても本当に良かったと思う。
地震直後の球場 |
アパートに帰ると、長男がワーッと泣きながら抱きついて来た。次男はまだ赤ちゃんだったので、お腹をすかしていた。友人も母乳で育児していたのでミルクの買い置きもなかったからだ。が、そんなことは些細なことだ。とにかく皆無事だった。家に一人でいた夫にも連絡が取れた。サンノゼでも比較的地盤の強い地域にある我が家の被害と言えば、本棚からビデオテープが数本落ちて壊れただけだったようだ。
その日サンノゼまで帰るのは無理だったので、友人の家に泊めてもらい翌日帰宅した。家では殆ど停電もしなかったので、毎日ニュースばかり見ていた。近くのロスガトスでは停電断水が3日以上続き、多くの家が土台からダメージを受けた。
オークランド郊外を走る高速道路880の高架部分が崩壊し、下敷きになった部分では車が押しつぶされ43人が亡くなった。ベイブリッジも一部が崩落し、ちょうどビデオを撮っていた人が『オーマイゴッド!』と言い続ける映像は、何度も何度も繰り返さし放映された。
ベイブリッジ |
東日本大震災、広島の土砂災害、ローマプリータ地震、と死者の数はそれぞれだが、その死者の出た家族にとっては、世界が崩壊するのだなあとテレビを見ながら胸がいっぱいになる。ある日突然自分の世界からもぎとられた幸福。その瞬間からその家族にとっては違う世界が始まるのだ。
地球がどんどん温暖化し災害が増えている。息子たちにも災害に備えていてほしい。ナパ地震の余震はこれから7日間、震度5以上のものが起きる可能性は54%、今回の地震よりも大きなものが起きる可能性は10%以下というニュースをCNNで見た。
戦前に建てられた古いアパートに住んでいる次男にテキストメッセージを送る。『今日の地震より大きなものが起きる可能性は10%近くもあるんだって!』と送った瞬間、次男からも同時にメッセージが送られて来て交錯した。『今日の地震よりも大きなものが起きる可能性は10%もないんだって。』やはり母の心配とは程度が違う。しかし、普段から用意しておきなさい、などとクドクドと言うとうるさがられるのもわかっている。一言だけアドバイスすることにした。『ヘルメットをいつも手元に置いておきなさい。』
アパートロビー 古色蒼然としている |