2024年9月25日水曜日

姑の壮大な歴史

コロラドは突然朝晩寒くなってきた。

今年初めての冠雪


次男一家がコロラドに引っ越したために、 数年連絡し合わなかった夫の兄妹たちと、また交流するようになった。

Park Meadowモールの駐車場で、うろこ雲に気がついた


姑とは色々とあったが、1月には92歳。


もうお互い先が長いわけでもない。


義妹たちとも気持ち良く付き合いたいが、どうも私の心の底にはまだ少し垣根がある。


唯一今後も関わりたくない、という気持ちが拭えない義兄夫婦は、アリゾナに引っ越した。


なので、顔を合わせることもあまりない。

次男は2017年型トヨタ・タコマを運転中(幹線道路)
突然ブレーキが効かなくなる、ということがあった
修理工場まで牽引(修理代$1800)


姑は薬一つ飲むこともなく、健康である。


歩行は長距離に限りサポートを必要とするが、それでも足の痛みも何もなく、なによりも認知症には程遠い記憶力の良さだ。


そして、その記憶がしっかりしている間に、姑のいくつかの歴史的体験を書き留めておきたい、と思った。


なので、また東京ベーカリーに、一緒に行き話を聞くことにした。


これには夫の兄妹がとても関心を持っている。


が、姑はあまり英語が話せない。


家族は誰も日本語を理解しない。


なので、ファミリーヒストリーとして私が記録しておき、息子たちに伝えてもいいな、という思いがある。


書き留めておきたい記録は、姑が満州から一人で引き揚げた時のこと、初めて渡米した時のこと。


そもそも姑と夫以外の兄妹たちは、自分の家系がとても高貴なもの、と信じていて、そのことばかりに焦点を置き、実際の歴史は殆ど知らない。


特に満州から引き揚げた時、姑はまだ子供だった。


母が生きていた時、藤原ていさんの「流れる星は生きている」を毎日少しずつ読んであげたのだが、これがとても感銘深い本だった。


姑もたった一人で、満州からどうやって日本に帰ったか、という壮大なストーリーがある。


それを今私が書き留めて、今後何度も姑にインタビューを重ね、史実をチェックし、と時間をかけて記録することにした。


史実チェックだけで、膨大な時間がかかりそうだが、これが思いの外おもしろい。


姑が満州から北朝鮮を通過し(当時はまだ朝鮮人民共和国で、北朝鮮と韓国に分かれていなかったが)、どうやってたった一人で広島に帰り着いたか。


いつかここに書きたい。


勿論藤原ていさんの足元にも及ばないが、史実に基づいたストーリー。


それまでは、コロラドの寿司屋さんの、濃い濃い味の巻物の写真でお茶を濁したいと思う。


ま、私のストーリーでは
「流れるスシは生きている」レベルだろうが

8 件のコメント:

  1. 姑さんの一代記楽しみです!。戦後70年、激動の時代を生きた人も少なくなってきていますから
    ブログで残すというのは価値ある事ですし、ファミリーにとっても貴重な記録と思います。
    しかし、高貴な家柄っていうのにも興味があります(^-^)
    私も「平家の落人」の子孫と信じている身です(笑)

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    1. danmamaさん、
      姑の体験、いやあ、思った以上におもしろくて、でも食い違いが多くあり、それを史実に合わせるのと、姑が見たものを事実として考慮するのと、でなかなか時間がかかりそうです。
      息子たち、孫たちにも貴重な記録になると思うので、やり遂げたいですね。
      高貴な家柄、は姑のお兄さん(現在94歳)が「一体その話はどこから来てるんか、ヤレヤレ」とおっしゃっているみたいですよ。
      danmamaさんも、これから平家とのつながり、を調べてみると楽しいかも^^

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  2. 長い長い間、ずっと一読者として読ませていただき、初めてコメントさせていただきます。
    引き揚げ者を親に持ち、藤原ていさんの『流れる星は生きている』に感銘を受けた、日本在住の50歳です。
    私が幼い頃に祖母から聞いた引き揚げの話はたいそう壮絶なものでした。祖母のしっかりしているうちに、と若い頃に聞き取りを試みましたが、本人が当時の話をあまりしたがらなかったので、曖昧な部分もあるまま見送ることになりました。
    みきみぃさんがこちらに、すこしでもお姑さんのお話を書かれるのであれば、そしてそれを読ませていただけるのであれば、本当にうれしく思います。

    一族で私だけがその時代に執着し、20代のころから微力ながら調査もしていましたが、祖父が属した満鉄の社員(遺族)で構成する「満鉄会」があることを知り、当時の資料の写しを得て祖父が満州のどこに住んでいたのか、終戦時にどういう仕事をしていたのかを知ることができました。
    どうぞ、みきみぃさんのすばらしい筆から、後年、ご家族が歴史を知ることができますように。
    記録は英語で記されるとしても、私が日本語を解することに改めて感謝。みきみぃさんのウィットに富んだ日本語の文章を読んで、理解できるのですから!
    ゆっくりお待ちしております。

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    1. AYAさん、
      ちゃんと更新もしない怠け者の私のブログを長い間読んでくださって、本当に嬉しいです。
      ありがとうございます!
      AYAさんのご家族も引き揚げてらしたのですね。私は姑の引き揚げ時の話は全く知りませんでした。本人がやはり話をしたがらないのです。でも、私の息子も義妹の息子も、とても話を聞きたがっています。が、姑も英語では話すことができない。しかも、話すと辛い思い出が蘇ってくる。でも、私が感動、驚き、喜びを表しながら聞くことで、段々話す気持ちになってくれました。姑も細かいことを覚えていない部分も多く、それをゆっくり質問しながら思い出してもらっています。
      時間はかかると思いますが、必ず最後まで書き上げたいと思っています。AYAさんのように、この史実を知りたい、という方は他にもいらっしゃると思うのです。でも、すばらしい筆なんておっしゃっていただいて光栄ですが、本当にお恥ずかしいです。
      戦争のない時代に生まれた私たちは幸せですよね。つくづくそう思いました。
      応援してくださって、本当にありがとうございますm(_ _)m

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  3. こんばんは
    お姑さんは92歳になるお元気な方なんですね。満州からひとりで引き上げてきたお話し興味深いですね。わたしは祖父が戦時中満州に行っていたようですが、話を聞く機会はあらりませんでした。藤原ていの小説は知りませんでした。コロラドは朝晩寒くなってきたのですね。ベイエリアは昨日は暑くなり、今日は快適でした。

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    1. ケイさん、
      おはようございます。今年の夏は暑い日が多かったですよね。でもコロラドにいると、ベイエリアの気候はいいなあ、と改めて思います。
      姑は私より記憶力は冴えているかも。私は3秒前のことを忘れるし・・・^^;
      ケイさんも、お祖父さまが満州にいらしたのですね。うちは父が台湾にいました。
      藤原ていの流れる星・・夢中で読みました。引き上げる時連れて帰った子どもの一人が、数学者藤原正彦さんというのも興味深いです。

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  4. 長いことブログを読ませていただいていて、以前に2度投稿したことがあるのですが、今だにどうやって書くのかがわかりません。私のアドレスはグーグルですが。
    私は藤原ていさんと同じ、満州の新京から引き揚げてきました。その頃は満州鉄道、と満州電業、どちらかに勤めている家族が大半を占めていた様です。 父は電業で、ロシア語が出来ましたので、ソ連にロシア語の通訳捕虜として連れて行かれ、しばらくは母子家庭で、兄が5歳半、弟が2歳、私が4歳。食べ物もほとんどなくなり、家畜の餌だったコウリャンを食べ、消化できなくてそのまま出てきた記憶があります。母と庭で不発弾を拾い、使わなくなった井戸に落とすのが日課でした。処刑場のそばを通ると地面に人が転がっていて、幼い私にはガリバーの様に大きく見えて恐ろしかったです。父が帰ってくるのを待っている私たちにも集団自決の誘いがあった様ですが母が頑として、父の帰りを信じて、最後の帰国船に間に合いました。船に乗るまで、長い長い旅で、屋根のない囲いだけの汽車にぎゅうぎゅう詰め、どこまでも続く満州の平原に沈む太陽が真っ赤で、とてつもなく大きかったことを覚えています。乗船前の長い行列、父は首から長四角のアルミ缶を2個包んだのを抱え、その上に弟が座り、両手に荷物、母はリュックを背負い、さらわれない様に両手に私と兄をしっかりと掴み、土砂降りの雨の中、いつもはヤンチャ坊主で両親を困らせていた兄まで、一言の文句も言わずに静かに耐えていた姿を今でも覚えています。 僅か4歳でしたが、異常な環境だったので、家の間取りも、近所の様子も鮮明に覚えています。 お姑さまは、私より10歳上でいらっしゃるので、その記憶は凄まじく、それも女の子がお一人でどんなにか過酷な旅をされたことでしょう、と胸が潰れる思いです。

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    1. 匿名さん、
      ブログを読んでくださってありがとうございます!確かグーグルのメールアカウントがあれば、IDを作ることができると思うのですが。そしてコメント投稿者名は、メールアカウントに登録してある名前が出るのではないか、と思います。私も定かではなく、申し訳ありません。

      匿名さんも大変な引き揚げ経験をお持ちなのですね。匿名さんのお父さまは通訳捕虜として連れて行かれ、ご不在だったのですか。お母さまもさ3人の子供をかかえ、さぞかし不安な日々を過ごされたことでしょう。姑のお父さんも、それでは満州鉄道か電業勤務だった可能性が高いですね。食べ物のお話、処刑場のお話、地面に転がる遺体のお話、本当に幼い子供には酷な光景でしたね。勿論大人にとっても残酷で忘れられない記憶でしょう。
      集団自決をうながされ、それをお母さまが断固として拒否、その後お父さまが帰ってらしたのですね。今の電車からは想像もつかない、汽車の形態、真っ赤な夕日、ご家族5人での過酷な帰国の旅、匿名さんのお話も文書にして遺して、今の若い人たちにも知ってほしいです。
      私が遺しておきたい姑の体験談と共に、匿名さんのご体験も、家族に記録として伝えさせてくださいね。日本人が決して忘れてはいけない歴史だと思います。

      姑は当時12歳から13歳になる頃だと思いますが、やっと日本に帰ってこれたとは言え、家族がどこにいるかもわからず、旅の途中で母親と妹を失うという体験をしているので、傷は大きいでしょうね。話すのはとても辛いようですが、だからこそ私は記録として後人のために遺したいと思います。私がまた直接会って色々なことを質問したいのですが、しばらくは話せる機会がなく、話がまとまるまでは時間がかかると思いますが、必ずまとめますね。日本人もアメリカ人も、皆が知っておくべき史実ですよね。
      大変なご体験のお話を本当にありがとうございました。

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