昔から病気ばかりしていた、身体の弱い妹だった。
薬もなく、医者を見つけるのも大変な世の中だったのだ。
その悲しみのせいもあったのだろう、母が翌年1月18日早朝眠るようにして亡くなった。
寒いからお母ちゃんのへり(そば)に寄って寝なさい、と私に言ったのが最後の母の言葉だった。
母が死んだのは悲しかったが、周りは親を失った子も多く、皆で暮らす楽しさもあった。
中の一人の笑い方がおもしろいので、その子が笑うと伝染したように周りが笑うのだ。
朝鮮の年配の男性が、約100人の日本人たちに家や学校を確保してくれていた。
皆でそうやって暮らしているうちに、1947年になった。
私は日本に帰りたかったが、朝鮮を出る手段がない。
が、ある日その年配男性の計らいで船を雇い、夜中にこっそり沖に出ることになった。
家を出る前に、同じグループの皆で家を掃除した。
どこからともなく、「松XX之」という名前と住所を書いたクシャクシャになった紙が出てきた。
母の弟、つまり私の叔父の名前である。
私はとっさにその紙を自分のポケットに入れた。
航海中、私は隠れながらも時々デッキに出た。
1週間ほどたった頃だったろうか、小さな漁船が来た。
漁師が魚を買ってくれないか、と言っている。
誰かがお金を出した。
が、漁師は「ここは韓国だから朝鮮のお金は使えないよ。」と言った。
(朝鮮が北朝鮮と韓国に分割されたのは1948年なので、この時点ではどういう通貨が使われていたかは定かではない。)
漁師の言葉で、ここは南だ!とどよめいた。
遂に韓国に着いたのだ。
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つくづく思う。
なんでいがみ合うのだろう。
なんで戦争するのだろう。
なんで殺し合うのだろう。
みきみぃさんお勧めの「流れる星は生きている」を読みましたが「陸路で38度線」を越えるのは
返信削除本当に命懸けだったようで、姑さんも母も「船」で正解でしたね。朝鮮人の手引きがあったから
生き残れたのですね...トリクシーと猫たち「同じ部屋」に居られるようになったのですね(嬉しい!)本当に人間は動物達に学ぶべきです。
danmamaさん、
削除「流れる星は生きている」はすばらしいですよね。さすがに新田次郎の妻、藤原正彦の母って思いました。陸路での旅は本当に凄まじいですよね。姑は船でしたが、姑母さんはもう亡くなっていたんです。心細かったでしょうねえ。でも、色々と朝鮮の方々のおかげで生きて日本に帰れたんですよね。
トリクシー(牝)は猫ズと遊びたい、でも遊んでもらえない、タイタン(雄)は犬を無視して悠々と歩き回る、アイドル(牝)はタイタンとトリクシーを威嚇する。こういう性格の牝猫は結構いるようです。どちらかと言えばイケズ^^
ベルタン
削除2011年に亡くなった父は終戦前 平壌医科専門学校に通っており 義理のお母様と 同じルートで 帰国したようです。荒れた海を壊れそうな漁船の 船倉にかくれリンゴを囓りながら耐えた経験は 若かった父の人生に影響を与えたようです。帰国後 岡山大学の医学部に編入し 後に開業医として人生を全うしました。生前は あまり帰国の 事について話す機会が なかったので お話をうかがえて感謝しております。
ベルタンさん、
削除読んでくださってありがとうございます!お父様も同じルートで帰国なさったのですね。他にも多くの日本人がこのルートで帰国されたのでしょうね。大きな船での航海ではなかったでしょうし、いつ攻撃されるかという不安も抱えながら、大変な試練だったと思います。その後岡山大学医学部に入られ、お父様のご経験から開業医としても優秀ですばらしいお医者さまだったと想像します。私もこのシリーズを書きながら、戦争について色々と考えるようになりました。