1954年、私は広島の高校卒業後、銀行で仕事をしたかった。
が、タイプライターの学校を卒業していたにもかかわらず、両親がいないことで就職できなかった。
近所の叔母の家に行っては、泣いていた。
叔母は親戚に、「あの子は日本にいる限り幸せになれない。」と言っていたようだ。
その頃、夫が私の写真を見て一目惚れした。
当時夫は婚約していた女性が自分を捨てて逃げたことで、失意のどん底にいた。
しばらく文通を続けたあと夫が来日し、私達は初めて会った。
文通しているうちにお互いに好きになり、1954年10月日本で結婚した。
そして、私は一人で渡米することになった。
が、アメリカまでは長い道のりだった。
渡米するにはパスポート、ビザ、胸部レントゲン写真が必要だった。
アメリカに移民として入国するためクラスを取り勉強し、テストを受けた。
1955年1月初めに広島を出て、アメリカに飛ぶことになった。
当時広島から東京までは汽車で16時間、その後羽田空港に行きアメリカ行きの飛行機に乗った。
JALは週に1便ぐらいしか飛んでなかった時代である。
私は1月最初の飛行機で日本を発った。
東京からサンフランシスコまではプロペラ機32時間の長旅である。
はっきりした時刻を覚えていないが、確か夕方羽田を出発した。
飛行機から見る東京の街がとてもきれいだったことを覚えている。
勿論初めての飛行機旅行だった。
ウェーキ島(Wake Island)に着いたのは朝6時。
当時は機内食というものがなかったので、朝ご飯はバスで食べに行くことになった。
おいしい朝ご飯のあと、飛行機に戻った。
ホノルルにお昼ごろ着いて、そこでコーラというものを初めて飲んだ。
が、まずくて吐き出した。
ホノルルの空港でランチを食べたあと、同じ飛行機に戻り出発。
機内で一晩過ごし、サンフランシスコ空港に翌朝6時に到着した。
航空会社が資生堂の大きな化粧品セット、立派な漆の盃2つ、などなどたくさんのお土産をくれた。
サンフランシスコではタクシーであちこち観光に連れて行ってもらったが、初めて食べたハンバーガーとフレンチフライが、あまりに美味しかったのが忘れられない。
サンフランシスコからデンバーまでは8時間かかった。
機内食がないので、ランチを買うための休憩をユタでとることになった。
お腹がすいていなかったから、私は何も食べなかった。
デンバー空港には、朝2時に着いたのだが、親戚全員が迎えに来てくれていた。
アメリカで初めて目が覚めた時、コーヒーの香りがあまりにすばらしかったことが、一生忘れられない。
7年後の6月23日、夫が亡くなった。
見通しの悪い線路には当時踏切もなく、トラックを運転していた夫は汽車に轢かれたのだった。
長男5歳、次男4歳、長女3歳、次女1歳半だった。
お姑様の時代の渡米、今と大違いですね。まだまだ続きますように!
返信削除kikiさん、
削除今だと関空に飛ぶのにサンフランシスコから12時間かかるので、ブーブー文句言う私です。まあ、でも姑の場合は幸せなフライトだったのでしょうね。
続きは実はないのですが、kikiさんにそう言っていただいたので、その後の人生についてもう少し姑にインタビューしてみます^^;
たった70年前の話なのに、この50年の進歩が急速過ぎて‼️ですよね...
返信削除敗戦で苦労なされて両親が揃っていなければ就職も結婚も出来なかった時代が確かにあったのです。
姑さんが強くなられたのは、そんな経験があったからと思います。
当時のアメリカは、憧れの土地だったのでしょうね。KiKiさんと同じくシリーズ化を望みます(^-^)
danmamaさん、
削除そうですよね。戦争が終わって昭和30年代から何もかもが急速に進歩し始め、東京オリンピックの頃一気に日本は変わりました。
姑は満州から日本に帰国し、今度は就職も結婚もできず、でも優しい夫と幸せな7年を過ごしたようです。ブログに9年と書きましたが、確か7年のはずです。姑の思い違いかも。
姑はたくましくこのあともアメリカで生きていくのです。そのことをまた書きますね。