2025年2月5日水曜日

満州からの帰還 3/4

姑に戦時中の話を聞き始めたのは、半年ほど前になるだろうか。


姑は次女家族と住んでいるが、私がコロラドで滞在する次男の家からは車で30分ほど離れている。


なので、何度かに分けてインタビューしたのだが、こうしてまとめているうちに食い違いが出てくる。


で、電話をして掘り下げて聞くのだが、話すことで姑の記憶がだんだん蘇ってくるそうで、「長いこと忘れてたことを今になって思い出した!」となる。


最初に聞いた話と少し違ってくる。


なので、最初は「母と妹と3人で日本に帰ってきた」と聞いていたものが、実際はもう母妹は亡くなっていた、と何度か話しているうちにわかった。


これは姑が忘れていたというよりも、話しているうちにどこかで食い違いが発生したのだろう。


二人が死んだ年も思い出した、ということ。


なので、このシリーズの第一回と第二回は、少し書き換えた部分もある。


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京城に着いた私たちは、港にあるアメリカ軍の施設の中に入り、全員が裸になってシャワーを浴びさせられた。


シラミがついている人はシラミ退治をされたが、幸いにも私にはシラミはいなかった。


シャワーというものを浴びるのは初めての経験だった。


着ていた洋服が洗濯され、乾燥までしてある。


暖かい清潔な洋服に着替えた私は気持ちが良くて、ハンサムな若いアメリカ兵士たちはなんて親切で優しいんだろう、と感謝した。


それから日本の大きな船に載せられて(100人以上乗っていた)日本に向かった。


船長や船員が皆真っ白な制服を着ている。


「赤いリンゴ」の歌を船の中で聞きながら、これもまた真っ白な日本の船はなんてすばらしいんだろう、としみじみ思った。


日本の船員たちも皆親切で、私達にとても良くしてくれた。


満州からは一緒に帰った人たちが同じ船に乗っている。


川本のおばさん(と私は呼んでいた)、おばさんの娘二人(一人は私と同じ年齢)と、お嫁さんも一緒だ。


あとで知ったことだが、父、兄たち、姉は、この頃にはもう風の便りで母と妹が死んでしまったことを聞いていたらしい。


船は佐世保に向かっている。


80年後にここまで日本が復興するとは、
誰が想像したことだろう

4 件のコメント:

  1. 姑さん、一人になってしまわれたのですね。どんなに心細かったか...うちの母は家族全員揃っての帰国だったのでまだましだったと思います。祖父が赴任していた王子製紙の朝鮮人部下の計らいで自腹で漁船をやとい他の人々も乗せて機銃掃射を避けながら何日もかけて南朝鮮に逃げたという話を聞いていましたが祖母が親を失った「ようこ」という小さな女の子を連れ帰っています。
    終戦後、その子の父親と祖父母が生きている事がわかり送り届けたそうです。
    船底の魚を入れる場所に板を渡し何段かに急拵えした所で体を横たえるスペースもなかったと...
    やっと南に付いても立ち上がって歩けなかったそうです。
    その時、手荷物で持って来ていた生の大豆で命を繋いだと聞いた事があります。
    同じ漁船に乗った人の中には亡くなった方もいたそうですが船上から弔ったそうです。
    壮絶な経験をされた人は本当に強いです。そんな姑さんの貴重な話を纏められて後世に伝えるって
    大事な平和活動と思います。母から聞いた話では日本に帰ってからも大変だったそうです。
    「外地で良い思いをして来た」との偏見で親戚を頼っても居心地が悪かったそうです。

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    1. danmamaさん、
      姑は一人になったけど、同じ年頃の子どもが多かったので楽しい思い出も多いようです。でも、勿論心細かったでしょうね。特に日本に向かう時は不安だったことでしょう。それまで一緒だった母と妹がいなくなったわけですし。
      danmamaさんのお母様もやはり同じような経験がおありなんですね。自腹で漁船を雇ったというのは姑のグループの話と同じですが、機銃掃射を受けるなんてまるで映画の中のような世界が、実際に起きていたんですよね。ようこちゃんを連れて帰り送り届けることができたなんて、すばらしいお話ですね。戦争の話はずっと後世に伝えていかねばならない、と思いました。息子たちも、いえ、私でさえも戦争に関しては危機感が殆どない生活をしているし。
      身体を横たえる場所もないところで何日も過ごし、しかもその間食べていたのは生の豆、本当に無事日本に帰国できて良かったですね。確かに亡くなった方は船上から弔うしかない状況ですよね。本当に大なり小なり戦時中、そして戦後は非人間的な生活を送ることを余儀なくされながら日本に戻って来られた方の多いこと。私ももっと父から話を聞いておけば良かった、と思いました。
      外地で良い思い、って・・・ 一体どこからそういう発想につながるんでしょうかねえ。

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    2. 外地では現地の使用人がいて待遇は日本にいるより別格で良かったのです。現在でも駐在員の待遇は良いのがその名残ですね。だから向こうで良い暮らししていたのでしょう!という妬み嫉みの感情があったのでしょう。(勝つまでは欲しがりませんで国内では食べ物もままならなかったでしょうしね)で、命からがら帰国して転がり込まれても自分達の生活もやっとだったでしょうし親ならまだしも兄弟ともなると迷惑だったのでしょうね。

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    3. danmamaさん、
      確かに姑も、満州に住んでいた家は大邸宅で女中がたくさんいた、といつも言ってましたが、姑の場合は自分が住んでいた家というよりも、大勢で一緒に住んでいた家だったのですね。
      駐在員の待遇は今は以前ほどではないと思いますが、30〜40年近く前の彼らは帰国するとアメリカで築いた預金で家を建てる、とよく言われていましたよ。
      そうですねえ、帰国者が自分の家に転がり込まれると迷惑でしかなかったでしょう。食料にも事欠く時代でしたもんねえ。

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