母の状態は日に日に悪化した。 まず足が痺れる感覚はひどくなる一方で、 立つことができなくなった。 服用していた劇薬は身体中の神経を麻痺させていくものだった。 足の次は腰、そして麻痺はどんどん上がっていく。 遂には視神経が侵された。 10月末に祖母が母のお見舞いに来てくれたが、 母はもう自分の母親の姿をはっきりと見ることもできなかった。
祖母は私にオレンジとブルー糸の混じったセーターを買ってくれた のだが、それを着た私を見て母は『 おばあちゃんに着物を買ってもらったの?』と聞いた。 母にははっきり見えないのか、とびっくりした。 その数日後母は失明した。38歳の母は下半身付随になり、 そして失明までしたのだ。母の親兄弟には、 母がもうダメかもしれないと連絡した。 母の弟が声を押し殺してしゃくりあげていた姿は忘れられない。
発病する少し前の母 |
原因究明のために激痛を伴う検査が繰り返された。検査手術で足の神経を引っ張られた母は、 まるで人体実験をされたよう、と言うのだった。 日本全国で母と同じ症状をもつ患者が増え、やっと 薬が原因だと結論が出て使用停止されたのは1970年。 母は40歳になっていた。
母の入院している病院には同じ症状をもつ患者がたくさんいた。 同室のKさんの症状は母のよりも重く、 脳まで侵されていたので一日中呟いたり泣いていた。 向かいの部屋のOさんは高校教師だったが、 母よりは少し軽い症状で、杖をついて歩くことができ、 かろうじて視力が少し残されていた。母、 Kさん、Oさんの3人が重症だったが、 ほかの患者は比較的軽症だった。 それでも大腸からの出血が続いたり、免疫力が落ちたり、 と皆予後は悪かった。
亡くなる少し前、79歳の母 |
この頃の母は多くのことが自分でできた。 採尿器を使って排尿することもできたし、 食事も介助なしで摂ることができた。 1日ラジオを聞きながら過ごし、 夜は父がベット脇で寝る毎日だった。誰にでも優しく明るい母は、他の入院患者に観音様と呼ばれるようになった。患者が入れ替わり立ち替わり部屋に来て、 母に悩み相談をする。 入院患者の娘まで部屋にきて母に恋の相談をするのだ。