脳梗塞を起こすたびに母は『また何か障害が増える。』と悲しんだ。
40代の頃の母は父の作った3メートルほどの平行棒を使って、足にギブスをはめて歩くというリハビリを家でしていた。
歩くことで母の足は適度に疲れて夜眠ることができた。
が、段々それもできなくなっていった。
母の病気の症状の一つに足の痛みがあったのだが、夏の間は特に痛む。
夏は薄いお布団をかけていて、足が冷えた状態になるからだ。
勿論ソックスを二重に履いてはいたが、どうしても冷房で足は冷える。
足が痛い痛いと、母が泣くことが増えて来た。
この頃私はまだ子供たちに手がかかり、遠距離介護は始まっていなかった。
父と、仕事をフルタイムでしている姉の二人が介護をしていた。
夜の過酷な介護が始まった。
姉が当時記録した表を見ると、痛み止めが効かない母は夜眠れず、精神安定剤を使っていた。
が、安定剤もあまり効果はなく、夜中に何度も起きては痛みで『デパス(安定剤)をちょうだい』と泣き叫ぶこともあった。
姉が母の気を紛らわせるために夜中の1時から4時まで、足をさすりながら話しかける、というような介護が続いた。
以前のようにベットの上に自分の腹筋を使って座っている、ということもできなくなったことの一つだ。
いつも背中がベットについたままの状態になったので、背中に熱がこもり発汗する。
放熱するためのベットパッドを姉が買い求めて、京都や大阪のデパートを回った。
展示会があると聞けば少しでも母が楽になるものが見つかるのではないか、と東京まで行って新しい介護用品を探し求めた。
放熱するためのパッドを次々と買っては試したが、どれもダメだった。
パッドは5万円ぐらいする。
しばらく試してみて使えないとわかると、捨てるしかなかった。
薬害とはいえ、母への国からの補償金は微々たるものだったのだ。
特に母は女性なので一家を支える人間とみなされず、呆れるほどの小額だった。
後年母の介護が大変になった時、補償金さえもっと出ていたら住み込みヘルパーさんを雇ったり、バリアフリーにリフォームできたのに、と思わずにはいられないことも度々あった。
放熱に関してはパッドを使いながら、アイスノンをベットの四方に吊るすのが一番良かった。
アイスノンを入れる袋も次々と工夫していたので、我が家に来るヘルパーさんには『この家は次から次へとおもしろい介護グッズが増えますね。』とよく言われた。
それでも何よりも一番の問題だったのは父だった。
母を乗せてリビングルームに移動して 気分転換をさせてあげる時使っていた車椅子 |
母をベットから車椅子に移動させる時は、 このパッドを身体の下に滑り込ませて父や ヘルパーさんと一緒に動かした |
しかし上のネイビーのパッドの上に母を滑って移動させるには、 この赤いツルツルとした生地の移動用スライドシートも必要だった |