人間最期は何も所有しないのだ。
サンフランシスコのマンション(日本式にマンションと呼びます)がやっと竣工した。
契約日は2月3日。
鍵引き渡しが2月4日。
引越しはその週末になるだろう。
次男にとっては待ちに待った日だ。
このお店のイメージで少しずつ家具を揃え始めた次男は、まずダイニングテーブルを買った、ソファは今日注文した、と次々と写真を送ってくる。
次男は私にそっくりで、家具を買ったり模様替えをするのが大好きなのだ。
私も10年ほど前までは、家具を買うのが好きだった。
お店で好みのタイプの家具や雑貨を見つけると、買わずにお店を出るのは至難の技だ。
父もそうだった。
特に父は家具の他にも腕時計、置き時計、文房具、万年筆、カメラなどなどなどすさまじいコレクション癖があった。
なのに、今父が所有するものは最低限の着るものと補聴器だけだ。
自分が時計やカメラを収集していたことさえ覚えていない。
今日のわいわい広場 紅白の玉を持ち、父が『紅上げて、白下げて』という ゲームの音頭をとる役割を授かったが、今の父にはもうむずかしい 父が固まってしまい、他の入居者も両手が下ろせない状態 |
26歳の次男が嬉々として家具や食器を買う姿を見ていると、なんだかその若さがうやましくもあり、むなしくもある。
次男もいずれわかるのだろう。
年を取って所有するものは頭の中にあるもの、つまり知識や思い出だけなのだ。
物ではない。
だから今日はつくづく思う。