2016年1月21日木曜日

ヘルパーさんの日誌

このままでは母よりも介護する家族の方が先に死んでしまう。



そんな危機感を持った私と姉は、ケアマネジャー探しをした。



母が入院している間に算段をつけておかないといけない。



母が退院したらすぐにヘルパーさんに入ってもらわないと、家族は寝る時間もなくなるだろう。



入院前から父は夜なかなか起きられなくなっていた。



週末は姉が、父に代わって夜は母の部屋で寝るようになった。



勿論平日も夜仕事から帰った姉は、寝るまで母の介護をする。



夜中も何度も2階から降りて来る。



焦って階段を走り降りる際に、柱で胸を打撲することもあった。



ある小さな介護ヘルパーステーションが見つかった。



早速病院に来てもらって話す約束をした。



が、父は大反対だ。



絶対認めないと言う。



他人なんか信用できない、家族のようには介護できない、無責任なことをするな、介護はこれから娘に一切頼らない、全部自分でする、という主張だ。



勿論そんなことは無理だ。



いざとなると娘たちに全面的に頼るしかない。



実際ある冬、母、父、姉と3人ともノロウィルスに感染した。



母が最初に治ったが、姉と父は母ほど軽症ではなかった。



姉は父の汚したものを拭き掃除しつつ、這いながら母を介護した。



自分が病気になる暇はない。

母が亡くなる2年ほど前の写真(78歳)
この頃母は見えず、歩けず、しゃべれず、左手が動かず、と
身体機能はかろうじて右手が少し動くだけだった



それまでにも父は姉に、仕事を辞めて介護をしてくれ、と何度も言っていた。



一人暮らしをしていた姉に、家に帰ってきて一緒に住んでくれ、と無理を言ったのも父だ。



そもそも実家は父と姉が半分ずつお金を出して買っていた。



だから、姉には実家のローンが残っていたが、父と一緒に住むわけにはいかない。



父と同居することで、精神のバランスを崩してしまいそうだ。



そう思っていた姉は、妥協策を見つけた。



家から歩いて2分のところにマンションを借りたのだ。



ほとんどは実家で母の介護をしないといけないが、自分の逃げ場を作ったわけだ。




介護往復をしていた私は、日本にいる間は日中はほぼ全面的に介護を代わった。



夜中に母の声がすると2階から駆け下り、日中は朝から寝るまで母の横で介護をする。



ほぼ24時間体制の介護だ。



誤嚥のひどい母の唾液が詰まった場合のために、1分も一人にすることはできない。



その頃飛行機が関空に着くと真っ暗な気持ちになった。



問題行動の多い次男と仕事のある夫を家に置いて(長男は大学のために家を出ていた)、これから1ヶ月日本に滞在する。



その間は自分の時間は全くなく、スーパーに行く30分がホッとする時間だった。



帰りたくないがその当時、フードコートやカフェで時間を潰すということは全くできなかった。



30分以上になると父から電話がかかってくる。



一体どこにいるのか、事故にでもあったのではないか、と心配する。



疲れて母を怒鳴ることが増えて来た父に、ヘルパーさんに入ってもらわないなら、母を連れて家を出ると言うしかなかった(勿論そんなつもりはない)。



それでも父は強固に反対を続けたが、最終的にやっと折れた。



最初は1週間に2時間ほど、そしてそのうち少しずつ時間を増やすことができるようになった。



勿論そのたびに父とは大喧嘩した。



ヘルパーさんにも細かく文句を言う父だった。



色々な介助を禁じる父だったので、家族が補助しないといけない場面は多かった。



が、それでも外部の補助があるとなしでは全然違う。



38歳から寝たきりになった母は家族の太陽であり続けたのだ。



どんなことがあっても、最後まで家族で介護する。



2010年には数人のヘルパーさんが交代で夜必ず1時間、多い時で2時間入ってくれた。



日中は訪問看護が週2度。



ヘルパーさんが午前中、あるいは午後1時間入ってくれる日もあった。



週1の入浴サービスと週2のマッサージは、短時間だが母の一番リラックスできる時間になった。



だが、その年の8月末に母は脳出血を起こした。



その日まで、嵐の中でも雨合羽を着て毎日来てくれたヘルパーさんには感謝してもしきれない。



特に夜一番よく来てくれたM藤さんは、家族でも理解するのがむずかしい母の言葉を、どうにか聞き取ってくれる。



そして、母語録をよく書いてくれた。



この箇条書きの日誌を読むと、最期まで明るかった母の姿が浮かび上がってくる。



姉が唇のリハビリのために、と買って来た紙でできた笛を母はいつも吹いていた。



母はまたしゃべれるようになりたかったのだ。



この笛はウサギの形をしていて、うまく息が吹き込めた時には、耳が伸びる。



最後の頃の日誌には、M藤さんがこの笛でリハビリの手伝いをしてくた様子が書いてある。



母が亡くなる直前の数日は何が書かれていたのか。



今日はこの日誌を読んでみた。



どのページも母のユーモアに溢れた言葉が生き生きと書かれていた。

最後に車椅子に移乗しました。
リビングに移動して『ご家族の片付けを監督する』そうです。


たっぷり発声練習や笛吹きなど頑張られ、笛も上手に伸びました。
『今日は満足!』と言ってくださいました。

今日は便がスッキリのようです。新しいヘルパーの名前をしっかり覚えておられ
感心すると『あたり前や』とおっしゃってます。
(母は標準語だったが、冗談を言う時はよく関西弁を使っていた)



入浴もされ言語療法士さんも来られ、
『皆にいろいろしてもらってありがたい』と喜んでおられます。



ご自身からすすんで笛を吹くとおっしゃり、義歯をはずさず楽々と伸ばす事ができ、
『大したもんだ』とおっしゃってました。



今日はリハビリで『イジメられた』とおっしゃるのでよく聞くと
足の筋を伸ばして”我慢我慢”と(言われた)。
結局気持ちよかったと笑ってられた。

『パタカラ(口に入れて発語練習をする器具)』練習をされた。腕の運動も少し。
お父さんとはケンカしても『戦友みたいなもの』だそうです。



旅行の話が出て、『海外、ヨーロッパへ行きたい』とおっしゃっていました。


今日お話をたくさんしました。今日の晩ご飯は『コロッケ』だったそうで、
『大好きよ』と言われました。


最近マイブームのまんじゅう。食べるとオナラがよく出るとのこと。
『明日入浴時大勢の前で出たらどうしよう』と悩んでられた。


うさぎの笛を2連共何度も何度も伸ばされかなり肺活量が上がっているようです。
『やったるでー』と張り切っておられます。


体操し、自主的に笛吹きされてます。『やったるで、見とれよ。』と
自信満々におっしゃるのでやって頂いたら、
二連の片方楽々とできました。

『まあちゃん(母)おでこは広いな』と(よく言われたと)
クリームを伸ばしながら子供の頃のお話されました。
自主的に腕の体操もされてます。



そしてこれが母が脳出血を起こす直前の、最後の日誌になった。


笛を吹くとの事。吹き始めるとすぐに伸び、
『どんなもんだ!』と大変得意気に何度も吹かれ上手に伸びました。



母だ。



今日は母がそばにいる。