両親は6畳プラス2畳の縁側がついた和室で暮らしていた 父はこうしていつも母の横で書き物をするのだった |
実際母が持てるものはお箸と編み針だけだった。
父と母は一日中おしゃべりしていた。父はせっせと新聞を切り抜いてスクラップして、母に読む。その記事について二人は延々と話すのだ。よくまあこんなに話すことがあるなあ、とびっくりするほど両親は四六時中会話していた。母の口癖は『まあ〜』と『あらぁ〜』で、何にでも感心し目を輝かせるのだ。小さかった長男と次男はいつも母の真似をして、まあ〜、あらぁ〜と言っていた。
両親の興味は似ていて、父が新聞をスクラップしては 母に読む毎日だった |
しかし母だって天使ではないので、父に意地悪なことを言うこともあった。なにしろ父の人間性は問題だらけだ。それでもよくこんな父に母は長年我慢しているなあ、と私と姉はいつも母がかわいそうだった。
母は一日中編み針を動かしていたが、目が見えないので模様編みは全て記憶に頼らないといけない。いつも指を折って計算していた。10段ごとに小さなピンクのプラスチックの輪を編んだものの端っこにつけて、時々段数を数えるのだ。が、ある日母が大泣きしていることがあった。横で父がしょんぼりしている。父を許せない!と泣いている母に理由を聞いた。母が模様編みをしていた時、どこまで編んだかわからなくなってしまった。父に聞いたが父が面倒がっていい加減な答えをした。母は父を信じてそのまま編み続け、やっとセーターの前身頃ができた。その時点で父が母の間違いに気がついて、ほぼ最初から編み直しになってしまった。
その日初めて母は目が見えないことがつらい、と泣くのだった。いつもいつも明るくて自分ほどラッキーな人間はいない、と言う母も心の底ではつらいことが多かったはずだ。孫のことだってどんなにか見たかったことだろう。でも母が弱音を吐くことはまずなかった。編み物をしながら、次に何を編むか考えるのが一番の幸せと母は言うのだった。
母はこの病院に何度も入院した 今でも救急車の音を聞くのがつらい |
母の幸せな日々は数年続いた。
私の幸せな日々は年末から2週間続いた。
京の四季860円 |
ポンドステーキハウス980円 |
コーヒーハウスMAKI650円 |
尾張屋1760円 |
今日現在2キロ増。かなり不幸・・・