2016年1月20日水曜日

そしてまた脳梗塞

2005年11月11日、母が75歳の時大きな後遺症を残す梗塞が脳と脊髄の間に起きた。



私は数年前から母の介護のために日米往復をしていて、その夜姉と一緒に母のベット脇でおしゃべりをしていた。



母の手を握ったまま、姉が私の顔をじっと見ながら口パクで言った。



『手が動いてへん。』




母の左手は全く動いていない。



当時母の主治医は次々と変わっていた。



姉が必死で見つけて来る良い先生も、父が何か問題点を見つけては『もうあの医者はダメだ。』と切ってしまうからだった。



せっかくいいお医者さんなのに、と姉と私が説得しようとしても、父は『親のことだと思って無責任なことをするな。』と娘の言うことに一切耳を傾けない。



父が望む医者は、他の患者よりも37度の熱がある母を優先して駆けつけてくれる医者だ。



そしてそんなお医者さんは勿論いない。



その頃母は前の脳梗塞の後遺症のために唇の動きが悪くなり、会話がむずかしくなっていた。



大阪にいる義妹に電話しておしゃべりするのが大好きだったのに、母の発語は誰にも理解できなくなってしまった。


だから母は、義妹にも段々電話しなくなって来たのだ。

この写真の母35歳ぐらいだろうか
この3年後に寝たきりになった


すぐに主治医に往診してもらったが、主治医はどうしていいかわからず、母の手を握って励ます言葉をかけるだけだ。



1時間が過ぎても、主治医は世間話をしながら母の手を握ったままだ。



人はいいのだろうが、医者としての決断ができないのは明らかだった。



突然立ち上がって受話器を取り上げて、119を押したのは私だ。



救急隊員が母の目をペンライトで照らし『瞳孔反応なし』と言いながら首をかしげる。



母を見ただけで、母が盲目だとわかる人はいない。それほど母の表情は健常人と全く変わらなかった。



救急車でERに運ばれた母はニコニコしながら、医者の質問に答えている。



そして目を輝かせながらはっきりと言った。



『あら、私しゃべれるわ。』




母が入院する時はいつも個室に入る。



父が夜付き添うことが多いから、女性ばかりの4人部屋には入れない。



入院の手続きは、毎回病院とのストレスだらけの交渉を伴った。



病院側は完全看護だから、付き添いを認めない。



が、母の足を夜中じゅう、立てたり寝かしたりしてあげる家族がそばにいる必要がある。



それは数分に一度のこともある。



そして唾液が器官に詰まらない(しょっちゅう詰まって母はパニックを起こす。起き上がって咳払いをすることができないから、呼吸できなくなるのだ)ように、横に誰かが常についていないといけない。



完全看護でもそれは無理だ。



個室に空きがないその夜、姉と私は4人部屋の前の廊下で寝た。



母がすぐ横に見える場所に座布団を敷いて座り、うとうとと一夜を過ごした。




その日から母の障害は一層ひどくなった。



まず嚥下困難になり、水分も摂れなくなってしまった。



計量カップを買ってきて、今日は一度に2cc飲めた、3cc飲めた、と父や姉と励まし合う。



少しずつ飲む量を増やしていった。



夜は私が病室に泊まり込んだ。



ボンボンベッドというキャンプの時に使うような、小さな簡易ベッドを運び込んだが寝心地は最悪だ。



結局小さなビニール張りの病室に備え付けてある椅子を二つと、テーブルをくっつけてその上にお布団を敷いて寝た。


その頃サンノゼの家では免許取り立ての16歳の次男が
夜な夜な車に乗って遊び回っていた



昼間は隣にある大型スーパーに行って、お惣菜を買って帰宅する。



数時間父と交代してもらうのだ。



家で眠ることはできなかったが、少しでも横になって体を休めたかった。



スーパーでは母が好きな食べ物を見ると、涙があふれる毎日だった。



もっともっとおいしいものを食べさせてあげたかった、母の人生は何だったのか、38歳から寝たきりになってしまって、などなど考えると他の買い物客の目も気にならず、涙はとめどなく溢れた。



しかし、不死鳥のような母は回復し始めた。



お水が50ccほど飲めるようになると、おうどんが食べたいというのにはびっくりした。



それでも本人は必死でしゃべっているのだが、唇がちゃんと動いていない。



ほとんど息だけでしゃべっているようで、何を言っているのかわからなくなってしまった。




そして夜は頻繁に起きる。



その度に採尿器でオシッコをさせてあげては、トイレに捨てる。



これはもう10年以上前からずっと、家族が日夜していたことだ。



母は夜中、1時間に3度ぐらい起きることもある。



その際『足を動かして』と言う母の足を立ててあげる。



が、母の足は全く力が入らないので、そのままでは足がズルズルと伸びてしまう。



だから、砂袋を置きそこに足をかませる。



それでも膝は外にひっくり返ってしまう。



膝がひっくり返らないように角度を工夫しないといけない。

サンクスギビングには是非とも家に帰りたかったのだが無理だった



そして、脱げかかったソックスを履かせてあげて、膝のところで互いに持たせ合うような形でくっつける。



その上にリヒカという、お布団が直接足につかないように工夫された器具(父が板で作った)を置きお布団を上からかける。



これが毎回数分かかる。



母が規則正しい呼吸を始めるのを見届けて、簡易に作った椅子布団に寝る。



10分後に母が目を覚まして、足を伸ばして、と言う。



伸ばしてあげる。



20分後に母がオシッコ、と言う。



採る。



捨てる。




これを一晩中続けるのだ。



母が一晩で4度ぐらいしか起きない日は、本当に休めた感じがした。



昨夜はよく寝てくれた、と思うのだ。



新生児と同じことでしょ?気持ちはわかりますよ、と言われたこともあったが全く違うと言いたい。



新生児は数ヶ月すれば夜起きなくなる。



新生児には未来がある。



介護には未来がない。



それが苦しいのだ。




この時点で家に入ってくれていたのは、週一でおしゃべりに来てくれるヘルパーさん一人だった。



週に1時間のみ。



あとは訪問看護師さんが週に1時間。



母のそばにずっとくっついていなくてもいいのは、1週間で2時間だけ。



これでは家族は全滅だ。



もっとヘルパーさんに入ってもらわないといけない、と父を説得する必要がある。

27年前の父、私、長男
私はこの頃からデカ尻だった