2016年1月26日火曜日

所有するもの

父を見ていると思う。

人間最期は何も所有しないのだ。死ぬ時には何も持って行けない。

午前中行くと父はいつも暗い部屋で死んだように寝ている

サンフランシスコのマンション(日本式にマンションと呼びます)がやっと竣工した。契約日は2月3日。鍵引き渡しが2月4日。引越しはその週末になるだろう。次男にとっては待ちに待った日だ。このお店のイメージで少しずつ家具を揃え始めた次男は、まずダイニングテーブルを買った、ソファは今日注文した、と次々と写真を送ってくる。

このダイニングテーブルを買ったそうだ

今日注文したソファ
できあがりは5月

次男は私にそっくりで、家具を買ったり模様替えをするのが大好きなのだ。私も10年ほど前までは家具を買うのが好きだった。お店で好みのタイプの家具や雑貨を見つけると、買わずにお店を出るのは至難の技だ。父もそうだった。

特に父は家具の他にも腕時計、置き時計、文房具、万年筆、カメラなどなどなどすさまじいコレクション癖があった。なのに、今父が所有するものは最低限の着るものと補聴器だけだ。自分が時計やカメラを収集していたことさえ覚えていない。

今日のわいわい広場
紅白の玉を持ち、父が『紅上げて、白下げて』という
ゲームの音頭をとる役割を授かったが、今の父にはもうむずかしい
父が固まってしまい、他の入居者も両手が下ろせない状態

26歳の次男が嬉々として家具や食器を買う姿を見ていると、なんだかその若さがうやましくもあり、むなしくもある。次男もいずれわかるのだろう。年を取って所有するものは頭の中にあるもの、つまり知識や思い出だけなのだ。物ではない。

だから今日はつくづく思う。家族や友人との時間を大事にするべし。

そしてうまいものを食うべし

2016年1月22日金曜日

介護地獄

母が亡くなってから5年半が過ぎ、母のことを思い出して泣くことはなくなっていた。懐かしく思い出すことはあっても、胸が詰まるような悲しみではない。

なのに、母のことをここに数日間書いたことで、悲しみはぶり返した。日誌を読んだことで、母がまた戻ってきてしまい涙が止まらなくなってしまった。悲しみというよりも、もう二度と母には会えないんだという切ない気持ちだ。それはとても苦しいもので、これを書いてなかったらそういう感情は戻ってきてなかっただろう。

だが、きれいごとは言いたくない。母は懐かしいけど、介護地獄という言葉があるように介護は本当につらい。あとで思い出すと密接な時間を家族と持つことができた、と思えるいい面は確かにあるが、介護している時は本当に本当に辛い。何しろ先が見えないし寝られないしで、なんでこんな思いをさせられるんだ?と親のことが恨めしくなったりもする。

突然ですが、京都駅の上りホーム10号車付近になる
スタンドのカプチーノはおいしいです

友人からメールが来た。日本のご両親が電話代を使わなくていいようにスカイプを設定してあげたら、しょっちゅうかかってきて大変!だそうだ。

それで思い出した。私も遠距離介護をしていた頃、アメリカにいる間は毎週金曜日と土曜日にスカイプをしていた。アメリカの金曜日、つまり日本の土曜日は父が一日出かけるので姉が介護を担当する。姉がスカイプカメラを母のベット脇につけて、私の方は家の書斎で2時間から6時間ぐらいカメラの前に座ってしゃべっていたのだ。

日本の日曜日は姉が出かける。出かける前あるいは帰ってきたらスカイプする。もしくは皆が用事をしている間、私はスカイプのマイクを使って母に本を読んであげる。母が寝ていたらカメラで母が大丈夫かどうか看視して、起きたら姉にメールして伝える。とにかく母には誰かの目が24時間ついてないといけない。

今日の父
最近しゃべる時唇がしっかり閉まらず
何を言っているかものすごくわかりにくい

スカイプでは賑やかに笑い声の入る会話をしているので、アメリカの家族は私が日本の家族と話したくてじっと座っている、と思っていたことだろう。苦痛ではあったが、それが日本にいない私のせめてもの介護だったのだ。今になって胸が痛む。あの数年間、毎週末子供たちともっと何かができたかもしれない。子供はあっという間に家を出てしまったのに。でも、それが介護というものだ。自分の都合は優先できない。

正直母の死は悲しいながらも、ホッとした気持ちが全くなかった、と言えば嘘になる。それほど介護は肉体的にも精神的にもつらい。

今父の介護はホームに任せているから、ホームに行っておしゃべりをしてあげるだけだ。勿論ついこの前までは父の幻覚症状で介護地獄もあったが、今は比較的穏やかな状態だ。このままずっと続いてほしい。多分そううまくはいかないと思うのだが。

ところで、最初の写真だが何故今朝新幹線のホームにいたのか。実はういろを買いに名古屋に行ってきたからなんです。下の写真は米原。

また始まった
レールパス地獄

2016年1月21日木曜日

ヘルパーさんの日誌

このままでは母よりも介護する家族の方が先に死んでしまう。



そんな危機感を持った私と姉は、ケアマネジャー探しをした。



母が入院している間に算段をつけておかないといけない。



母が退院したらすぐにヘルパーさんに入ってもらわないと、家族は寝る時間もなくなるだろう。



入院前から父は夜なかなか起きられなくなっていた。



週末は姉が、父に代わって夜は母の部屋で寝るようになった。



勿論平日も夜仕事から帰った姉は、寝るまで母の介護をする。



夜中も何度も2階から降りて来る。



焦って階段を走り降りる際に、柱で胸を打撲することもあった。



ある小さな介護ヘルパーステーションが見つかった。



早速病院に来てもらって話す約束をした。



が、父は大反対だ。



絶対認めないと言う。



他人なんか信用できない、家族のようには介護できない、無責任なことをするな、介護はこれから娘に一切頼らない、全部自分でする、という主張だ。



勿論そんなことは無理だ。



いざとなると娘たちに全面的に頼るしかない。



実際ある冬、母、父、姉と3人ともノロウィルスに感染した。



母が最初に治ったが、姉と父は母ほど軽症ではなかった。



姉は父の汚したものを拭き掃除しつつ、這いながら母を介護した。



自分が病気になる暇はない。

母が亡くなる2年ほど前の写真(78歳)
この頃母は見えず、歩けず、しゃべれず、左手が動かず、と
身体機能はかろうじて右手が少し動くだけだった



それまでにも父は姉に、仕事を辞めて介護をしてくれ、と何度も言っていた。



一人暮らしをしていた姉に、家に帰ってきて一緒に住んでくれ、と無理を言ったのも父だ。



そもそも実家は父と姉が半分ずつお金を出して買っていた。



だから、姉には実家のローンが残っていたが、父と一緒に住むわけにはいかない。



父と同居することで、精神のバランスを崩してしまいそうだ。



そう思っていた姉は、妥協策を見つけた。



家から歩いて2分のところにマンションを借りたのだ。



ほとんどは実家で母の介護をしないといけないが、自分の逃げ場を作ったわけだ。




介護往復をしていた私は、日本にいる間は日中はほぼ全面的に介護を代わった。



夜中に母の声がすると2階から駆け下り、日中は朝から寝るまで母の横で介護をする。



ほぼ24時間体制の介護だ。



誤嚥のひどい母の唾液が詰まった場合のために、1分も一人にすることはできない。



その頃飛行機が関空に着くと真っ暗な気持ちになった。



問題行動の多い次男と仕事のある夫を家に置いて(長男は大学のために家を出ていた)、これから1ヶ月日本に滞在する。



その間は自分の時間は全くなく、スーパーに行く30分がホッとする時間だった。



帰りたくないがその当時、フードコートやカフェで時間を潰すということは全くできなかった。



30分以上になると父から電話がかかってくる。



一体どこにいるのか、事故にでもあったのではないか、と心配する。



疲れて母を怒鳴ることが増えて来た父に、ヘルパーさんに入ってもらわないなら、母を連れて家を出ると言うしかなかった(勿論そんなつもりはない)。



それでも父は強固に反対を続けたが、最終的にやっと折れた。



最初は1週間に2時間ほど、そしてそのうち少しずつ時間を増やすことができるようになった。



勿論そのたびに父とは大喧嘩した。



ヘルパーさんにも細かく文句を言う父だった。



色々な介助を禁じる父だったので、家族が補助しないといけない場面は多かった。



が、それでも外部の補助があるとなしでは全然違う。



38歳から寝たきりになった母は家族の太陽であり続けたのだ。



どんなことがあっても、最後まで家族で介護する。



2010年には数人のヘルパーさんが交代で夜必ず1時間、多い時で2時間入ってくれた。



日中は訪問看護が週2度。



ヘルパーさんが午前中、あるいは午後1時間入ってくれる日もあった。



週1の入浴サービスと週2のマッサージは、短時間だが母の一番リラックスできる時間になった。



だが、その年の8月末に母は脳出血を起こした。



その日まで、嵐の中でも雨合羽を着て毎日来てくれたヘルパーさんには感謝してもしきれない。



特に夜一番よく来てくれたM藤さんは、家族でも理解するのがむずかしい母の言葉を、どうにか聞き取ってくれる。



そして、母語録をよく書いてくれた。



この箇条書きの日誌を読むと、最期まで明るかった母の姿が浮かび上がってくる。



姉が唇のリハビリのために、と買って来た紙でできた笛を母はいつも吹いていた。



母はまたしゃべれるようになりたかったのだ。



この笛はウサギの形をしていて、うまく息が吹き込めた時には、耳が伸びる。



最後の頃の日誌には、M藤さんがこの笛でリハビリの手伝いをしてくた様子が書いてある。



母が亡くなる直前の数日は何が書かれていたのか。



今日はこの日誌を読んでみた。



どのページも母のユーモアに溢れた言葉が生き生きと書かれていた。

最後に車椅子に移乗しました。
リビングに移動して『ご家族の片付けを監督する』そうです。


たっぷり発声練習や笛吹きなど頑張られ、笛も上手に伸びました。
『今日は満足!』と言ってくださいました。

今日は便がスッキリのようです。新しいヘルパーの名前をしっかり覚えておられ
感心すると『あたり前や』とおっしゃってます。
(母は標準語だったが、冗談を言う時はよく関西弁を使っていた)



入浴もされ言語療法士さんも来られ、
『皆にいろいろしてもらってありがたい』と喜んでおられます。



ご自身からすすんで笛を吹くとおっしゃり、義歯をはずさず楽々と伸ばす事ができ、
『大したもんだ』とおっしゃってました。



今日はリハビリで『イジメられた』とおっしゃるのでよく聞くと
足の筋を伸ばして”我慢我慢”と(言われた)。
結局気持ちよかったと笑ってられた。

『パタカラ(口に入れて発語練習をする器具)』練習をされた。腕の運動も少し。
お父さんとはケンカしても『戦友みたいなもの』だそうです。



旅行の話が出て、『海外、ヨーロッパへ行きたい』とおっしゃっていました。


今日お話をたくさんしました。今日の晩ご飯は『コロッケ』だったそうで、
『大好きよ』と言われました。


最近マイブームのまんじゅう。食べるとオナラがよく出るとのこと。
『明日入浴時大勢の前で出たらどうしよう』と悩んでられた。


うさぎの笛を2連共何度も何度も伸ばされかなり肺活量が上がっているようです。
『やったるでー』と張り切っておられます。


体操し、自主的に笛吹きされてます。『やったるで、見とれよ。』と
自信満々におっしゃるのでやって頂いたら、
二連の片方楽々とできました。

『まあちゃん(母)おでこは広いな』と(よく言われたと)
クリームを伸ばしながら子供の頃のお話されました。
自主的に腕の体操もされてます。



そしてこれが母が脳出血を起こす直前の、最後の日誌になった。


笛を吹くとの事。吹き始めるとすぐに伸び、
『どんなもんだ!』と大変得意気に何度も吹かれ上手に伸びました。



母だ。



今日は母がそばにいる。

2016年1月20日水曜日

そしてまた脳梗塞

2005年11月11日、母が75歳の時大きな後遺症を残す梗塞が脳と脊髄の間に起きた。



私は数年前から母の介護のために日米往復をしていて、その夜姉と一緒に母のベット脇でおしゃべりをしていた。



母の手を握ったまま、姉が私の顔をじっと見ながら口パクで言った。



『手が動いてへん。』




母の左手は全く動いていない。



当時母の主治医は次々と変わっていた。



姉が必死で見つけて来る良い先生も、父が何か問題点を見つけては『もうあの医者はダメだ。』と切ってしまうからだった。



せっかくいいお医者さんなのに、と姉と私が説得しようとしても、父は『親のことだと思って無責任なことをするな。』と娘の言うことに一切耳を傾けない。



父が望む医者は、他の患者よりも37度の熱がある母を優先して駆けつけてくれる医者だ。



そしてそんなお医者さんは勿論いない。



その頃母は前の脳梗塞の後遺症のために唇の動きが悪くなり、会話がむずかしくなっていた。



大阪にいる義妹に電話しておしゃべりするのが大好きだったのに、母の発語は誰にも理解できなくなってしまった。


だから母は、義妹にも段々電話しなくなって来たのだ。

この写真の母35歳ぐらいだろうか
この3年後に寝たきりになった


すぐに主治医に往診してもらったが、主治医はどうしていいかわからず、母の手を握って励ます言葉をかけるだけだ。



1時間が過ぎても、主治医は世間話をしながら母の手を握ったままだ。



人はいいのだろうが、医者としての決断ができないのは明らかだった。



突然立ち上がって受話器を取り上げて、119を押したのは私だ。



救急隊員が母の目をペンライトで照らし『瞳孔反応なし』と言いながら首をかしげる。



母を見ただけで、母が盲目だとわかる人はいない。それほど母の表情は健常人と全く変わらなかった。



救急車でERに運ばれた母はニコニコしながら、医者の質問に答えている。



そして目を輝かせながらはっきりと言った。



『あら、私しゃべれるわ。』




母が入院する時はいつも個室に入る。



父が夜付き添うことが多いから、女性ばかりの4人部屋には入れない。



入院の手続きは、毎回病院とのストレスだらけの交渉を伴った。



病院側は完全看護だから、付き添いを認めない。



が、母の足を夜中じゅう、立てたり寝かしたりしてあげる家族がそばにいる必要がある。



それは数分に一度のこともある。



そして唾液が器官に詰まらない(しょっちゅう詰まって母はパニックを起こす。起き上がって咳払いをすることができないから、呼吸できなくなるのだ)ように、横に誰かが常についていないといけない。



完全看護でもそれは無理だ。



個室に空きがないその夜、姉と私は4人部屋の前の廊下で寝た。



母がすぐ横に見える場所に座布団を敷いて座り、うとうとと一夜を過ごした。




その日から母の障害は一層ひどくなった。



まず嚥下困難になり、水分も摂れなくなってしまった。



計量カップを買ってきて、今日は一度に2cc飲めた、3cc飲めた、と父や姉と励まし合う。



少しずつ飲む量を増やしていった。



夜は私が病室に泊まり込んだ。



ボンボンベッドというキャンプの時に使うような、小さな簡易ベッドを運び込んだが寝心地は最悪だ。



結局小さなビニール張りの病室に備え付けてある椅子を二つと、テーブルをくっつけてその上にお布団を敷いて寝た。


その頃サンノゼの家では免許取り立ての16歳の次男が
夜な夜な車に乗って遊び回っていた



昼間は隣にある大型スーパーに行って、お惣菜を買って帰宅する。



数時間父と交代してもらうのだ。



家で眠ることはできなかったが、少しでも横になって体を休めたかった。



スーパーでは母が好きな食べ物を見ると、涙があふれる毎日だった。



もっともっとおいしいものを食べさせてあげたかった、母の人生は何だったのか、38歳から寝たきりになってしまって、などなど考えると他の買い物客の目も気にならず、涙はとめどなく溢れた。



しかし、不死鳥のような母は回復し始めた。



お水が50ccほど飲めるようになると、おうどんが食べたいというのにはびっくりした。



それでも本人は必死でしゃべっているのだが、唇がちゃんと動いていない。



ほとんど息だけでしゃべっているようで、何を言っているのかわからなくなってしまった。




そして夜は頻繁に起きる。



その度に採尿器でオシッコをさせてあげては、トイレに捨てる。



これはもう10年以上前からずっと、家族が日夜していたことだ。



母は夜中、1時間に3度ぐらい起きることもある。



その際『足を動かして』と言う母の足を立ててあげる。



が、母の足は全く力が入らないので、そのままでは足がズルズルと伸びてしまう。



だから、砂袋を置きそこに足をかませる。



それでも膝は外にひっくり返ってしまう。



膝がひっくり返らないように角度を工夫しないといけない。

サンクスギビングには是非とも家に帰りたかったのだが無理だった



そして、脱げかかったソックスを履かせてあげて、膝のところで互いに持たせ合うような形でくっつける。



その上にリヒカという、お布団が直接足につかないように工夫された器具(父が板で作った)を置きお布団を上からかける。



これが毎回数分かかる。



母が規則正しい呼吸を始めるのを見届けて、簡易に作った椅子布団に寝る。



10分後に母が目を覚まして、足を伸ばして、と言う。



伸ばしてあげる。



20分後に母がオシッコ、と言う。



採る。



捨てる。




これを一晩中続けるのだ。



母が一晩で4度ぐらいしか起きない日は、本当に休めた感じがした。



昨夜はよく寝てくれた、と思うのだ。



新生児と同じことでしょ?気持ちはわかりますよ、と言われたこともあったが全く違うと言いたい。



新生児は数ヶ月すれば夜起きなくなる。



新生児には未来がある。



介護には未来がない。



それが苦しいのだ。




この時点で家に入ってくれていたのは、週一でおしゃべりに来てくれるヘルパーさん一人だった。



週に1時間のみ。



あとは訪問看護師さんが週に1時間。



母のそばにずっとくっついていなくてもいいのは、1週間で2時間だけ。



これでは家族は全滅だ。



もっとヘルパーさんに入ってもらわないといけない、と父を説得する必要がある。

27年前の父、私、長男
私はこの頃からデカ尻だった

2016年1月19日火曜日

美少女

また火曜日が来た。わいわい広場の日だ。今回の滞在では父が問題を起こすでもなく、補聴器の混乱もなく、穏やかな日々が続いた。父が唯一楽しみにしているわいわい広場に車椅子を押して行った。

2年前の父は車椅子どころかスタスタと早足で歩いて行っていたのだ。今は気力も随分減退しているし、以前のように自分が一番、というような態度も取らない。父がホームのイチローだったのはほんの2年半前なのに。

2年半前とは大違い

以前は45分のイベントの間にも、父は『おーい、ちょっと来てくれぇ。』とまるで殿様のように私を偉そうな態度で呼びつけていたのに、今は大人しくしている。呼びつけられていた時は憎たらしいなあ、と感じていたが、今はそんな父を見てかわいそうになる。父に対してはいつもいつも同じ感情を持つ。うるさいなあ、憎たらしいなあ、という気持ちと、かわいそうに、という気持ちと。

イベントの前にこのボール30個分の空気を入れてあげた
結構重労働

父を部屋に連れて帰ったあと30分ほど話して、11時40分の電車で京都駅に出ることにした。とにかく、最近は出かけたらただでは帰りませんよ、という気持ちがいつもある。だから今日は新大阪までご飯を食べに行くことにした。新大阪には乗り換えで行ったことがあるだけで、駅構内は全くわからない。どうも京都と違って新大阪は大都会のようだ。新幹線のホームだけでもいくつもある。

京都は上りと下りのホームが4つあるだけ

そして駅構内のレストランもものすごい数だ。やっと比較的すいているお店を発見。少し待っただけで席に案内されたのは蕎麦弦というお店。すいているのにめちゃくちゃうまい!おいしい、というよりもうまい!そして900円というすばらしいコスパ。さすが大阪。

たこ焼きとお好み焼きを食べたかったが、
さすがに一人でお店に入る勇気なし

このランチを食べながらわいわい広場のことを思い出した。今日は30人ぐらい参加していて大盛況だった。半分は入居者、あとの半分はデイサービスに来ている人たちだと思う。デイの人たちは70代ぐらいだろうか。中に一人素敵な女性がいた。小柄で洋服もちょっとおしゃれで上品な感じ。ホームでも高齢者の男女に恋が生まれるらしいが、モテるのはああいう女性なんだろうなあと思う。

自分のつらい恋を思い出した。高2の時Yぶき君という一年上の男の子がいた。このYぶき君は物静かな美青年だったが、女の子たちは皆この人に憧れていた。Yぶき君が教室から出て来ると、廊下から彼を見ていた女の子たちがサーッとYぶき君のためにわきに寄って道を作る。まるでモーゼが手を挙げて海が割れたようだ。

京都に帰ってきた時は雪が降っていた

太った私なんかYぶき君の目に留まるはずもない、と思いながらも一縷の望みは持ってしまう。Yぶき君がいるから毎朝学校に行くのが楽しみだった。だが、その秋の文化祭の日は暗黒の日となった。写真部のYぶき君が発表した写真を見て全てを理解した。写真は同級生Sちゃんのポートレートだった。そしてその写真の下には題名があった。その題名は『美少女』。

Sちゃんは身長が145センチぐらいで私より20センチは低いのだ。つまり、165センチ以上ある私にはチャンスは皆無ということだ。Yぶき君は145センチの小さな美少女Sちゃんが好きだったのだ。

そうなのだ。男性が好きなのはSちゃんのような小柄なかわいい女性だ。いずれ夫が死んだあと一人でホームに入居した私は、またがっかりするかもしれない。第二のYぶき君、いやYぶき老人は小柄な美老女にしか興味ないのだ。そうに決まっている。

しかしそこまで考えますかね、普通

2016年1月16日土曜日

昼夜逆転

全盲の人の一番の問題は昼夜逆転だそうだ。どうしても日中ウトウトすることが多く、夜寝られない。母もそうだった。

日中はウトウトし、夜はラジオで深夜便という番組を好んで聞いていた。母は落語も好きで夜一人でクスクス笑っていた。泣き叫ぶほどの足の痛みは、ある病院で受けた痛みをブロックする注射で劇的に治ったのだ。勿論ある程度の痛みは相変わらずあるのだが、それはマッサージしてあげたり、2リットルのペットボトルにお湯を入れて両足の外側に置いておくことで軽減した。

母の最後の5年間はヘルパーさんが入ってくれた
その時の連絡帳に、母のケアの注意点をイラスト入りで書いておいた

基本的には我が家は皆冗談が好きでおしゃべりなので、笑いは絶えなかった。が、父は自分が不安になると周りの人間を責める、という人だ。例えば母はこの頃自分で採尿することはできなかったので、家族がするのだが尿の量を毎回測っていた。尿量が少ないと腎臓の機能不全になる可能性があり、飲む量と尿量を家族で管理しなければならない。排尿の間隔が5時間空いてしまうと、父はパニックを起こして看護師さんに電話する。何度も何度も電話する。そして充分な量の飲み物を飲んでいない、とベットから動けない母を責める。母は父から逃げられないと時々泣いていることがあった。

母は最後まで尿器を使っていたが、漏れた時の
ためにパッドも併用していた

排便はセンナという漢方薬を煎じて、2日おきに飲むのだが、それは毎回大変なことだった。コップ1杯のセンナを嚥下困難のある母が飲むのも時間がかかるのだが、翌朝スムーズに排便があるかどうかが問題だった。スムーズにいかない時、父は『落ち着きなさい。ちゃんと出ないと困る。便器が痛くても我慢しなさい。』と母のベット脇で呪文のように唱え続けるのだ。骨ばかりの母のお尻に長時間の便器は痛い。母が痛い痛いと泣いても、父は痛みは精神的な問題で、母が我慢できないことを責める。

勿論父には母を責めているという感覚がない。だから、姉や私がそのことを注意してもどうにもならない。今度は私たちを責めるだけだ。そういう時父は『あんたはおかしい。どうかしている。』と相手の人格否定をする。そういう父と相対しているとこちらの精神的バランスが崩れてしまうので、父のそばから逃げたいのだが、そこには逃げられない母がいる。母を守るためには、父を受け入れるしかないのだ。

最後の5年間は右手がかろうじて少し動くのみだった

それに、そんな父でも基本的には母の介護をしているのだ。普段働いている姉は帰宅後母の介護をするが、日中は父が介護し、夜中も父が母の隣で寝て何度も起きないといけない。センナを飲んだ翌日、母は一日に数回排便することもあった。それは昼も夜も関係なかった。80代の父はそれを文句も言わずに片付ける。下半身が麻痺している人間のケアは大変だ。

それは重労働で、特に真夏の暑い日は途中で何度も中断して息継ぎが必要なほどだった。父が母を清拭しながら何度も天を見上げて呼吸を整えていた姿は忘れられない。夜中に母の寝間着が汚れて、下着から寝間着、ベットのシーツまで総替えしないといけないこともしょっちゅうあったが、そんな時父は決して娘を呼んで『手伝え』とは言わないのだった。

唾液が詰まることが頻繁に起きるので、
そんな時はすぐにベットの背部分を起こす必要があった

家族に対する愛情は人一倍あるのだ。翌朝母の寝間着やシーツが全部新しいものに替わっていて、汚れたものが洗濯室に置いてあることも頻繁にあった。つまり父のモラハラ発言は悪意からではなく、無視するしかないのだが、それでも人格否定をされた時は怒りで目の前が真っ暗になる。

しかしそんな父の発言や行動はもう忘れるしかない。過ぎ去ったことだ。今日は残りの人生の最初の日なのだ。いやな思い出を抱えて過ごしたくない。

今や桃源郷にいる父なんだし

2016年1月15日金曜日

認知症の行動16パターン

母の介護を過酷と書いたが、もっともっと過酷な介護をしている人は多いと思う。母の介護が大変だったのは、父のせいもある。一切の外部のヘルプを受け付けない、ケアマネさんや主治医が気に入らない、病院と喧嘩する。例えば母の新しいベットを買おうとすると『いい加減なことをするな、人間として何が正しいかちゃんと考えて行動しろ、あんたは無責任なことを考えているようだから。』などとモラハラ発言をする。

これは父が育って来た環境もあるようだ。父の妹も似たところがあったので、父が育った家の文化なのだと思う。本人はモラハラ発言とは思っていないのだが、こういう発言を展開する父との生活は大変だった。

昨日の父は卑猥なことを言っていた。その卑猥さにぞっとしたが、心配なのは女性職員に何かいやらしいことを言ったりすることだ。が、これは認知症中期の行動のパターンの一つで、ホームで男性認知症患者が卑猥な発言/行動をすることはよくあることらしい。

おやつにぜんざいを毎日食べる父

認知症のよくある行動16パターンという記事を読んだ。以下がその16項目だ。
  1. 記憶障害。
  2. 何度も繰り返し同じ話をする。
  3. 同じものを買ってくる。
  4. 怒りやすい/大声を出す/奇声をあげる。
  5. 介護/入浴/服薬/受診を拒む。
  6. 妄想/思い込みが激しい。
  7. 食べ過ぎる。
  8. 作り話をする。
  9. 人を間違える。
  10. お金に執着する。
  11. 眠らない。
  12. 徘徊をする。
  13. 帰りたいと言う。
  14. 性的な行為をする。
  15. 失禁をした。
  16. 不潔行為をする。
そういえばホームでは、男性認知症患者がよく女性スタッフに触ったりすることが問題になったりするらしい。

しかし、これを読んでちょっと不安になった。自分にも当てはまらないか?一つ一つ検証してみよう。
  1. 記憶障害。キャッシュを隠しては、その場所を忘れてしまう。
  2. 何度も繰り返し同じ話をする。日々同じ話を繰り返して、長男に『もう聞いた。』と言われる。
  3. 同じものを買ってくる。ジーンズ、靴、Tシャツなど気に入ったものは色違いでいくつも買う。
  4. 怒りやすい/大声を出す/奇声をあげる。ついこの前facebookに勝手に結婚式写真をアップした小姑に激怒した。
  5. 介護/入浴/服薬/受診を拒む。毎晩お風呂に入るのが面倒。
  6. 妄想/思い込みが激しい。さっき道で二人連れとすれ違ったあと、後ろで『若作り』という言葉が聞こえたような気がする。いや、絶対聞こえた!
  7. 食べ過ぎる。これは言うまでもない。
  8. 作り話をする。話をおもしろくするためには作り話をする。こともある。
  9. 人を間違える。若い芸能人の区別が全くつかない。
  10. お金に執着する。今日イノダで飲んだコーヒーが560円だったことにショックを受けた。
    アラビアの真珠560円はおいしいけど高い!
  11. 眠らない。これは当てはまらない。いつも眠い。
  12. 徘徊をする。意味もなくショッピングモールを徘徊する。
    京都駅でカフェや伊勢丹を徘徊するのが好きです
  13. 帰りたいと言う。早くカリフォルニアに帰ってピーツに行きたい。
  14. 性的な行為をする。これはない。性欲よりも食欲(キッパリ)。
  15. 失禁をした。とりあえずまだない。
  16. 不潔行為をする。潔癖性なので、これは当てはまらない。
16項目の内12項目が当てはまる。

家に帰ったら玄関に落ちていたFitbit
つまり認知症の可能性は75%。

2016年1月14日木曜日

過酷な介護が始まる

度重なる脳梗塞の後遺症で、母が自分でできることは一つずつ減っていった。



脳梗塞を起こすたびに母は『また何か障害が増える。』と悲しんだ。



40代の頃の母は父の作った3メートルほどの平行棒を使って、足にギブスをはめて歩くというリハビリを家でしていた。



歩くことで母の足は適度に疲れて夜眠ることができた。



が、段々それもできなくなっていった。



母の病気の症状の一つに足の痛みがあったのだが、夏の間は特に痛む。



夏は薄いお布団をかけていて、足が冷えた状態になるからだ。



勿論ソックスを二重に履いてはいたが、どうしても冷房で足は冷える。



足が痛い痛いと、母が泣くことが増えて来た。



この頃私はまだ子供たちに手がかかり、遠距離介護は始まっていなかった。



父と、仕事をフルタイムでしている姉の二人が介護をしていた。



夜の過酷な介護が始まった。



姉が当時記録した表を見ると、痛み止めが効かない母は夜眠れず、精神安定剤を使っていた。



が、安定剤もあまり効果はなく、夜中に何度も起きては痛みで『デパス(安定剤)をちょうだい』と泣き叫ぶこともあった。



姉が母の気を紛らわせるために夜中の1時から4時まで、足をさすりながら話しかける、というような介護が続いた。


当時姉が記録した日誌
あらゆる種類の精神安定剤を服用していたが、
母は眠ることができなかった



以前のようにベットの上に自分の腹筋を使って座っている、ということもできなくなったことの一つだ。



いつも背中がベットについたままの状態になったので、背中に熱がこもり発汗する。



放熱するためのベットパッドを姉が買い求めて、京都や大阪のデパートを回った。



展示会があると聞けば少しでも母が楽になるものが見つかるのではないか、と東京まで行って新しい介護用品を探し求めた。



放熱するためのパッドを次々と買っては試したが、どれもダメだった。



パッドは5万円ぐらいする。



しばらく試してみて使えないとわかると、捨てるしかなかった。



痛い出費だが、洋服を買うわけでもなく宝石がつけられるわけでもない母のためには安いものだ、と思うしかない。

この網状になったパッド、ひんやりパッド、
100%麻綿というパッドも買った



薬害とはいえ、母への国からの補償金は微々たるものだったのだ。



特に母は女性なので一家を支える人間とみなされず、呆れるほどの小額だった。



後年母の介護が大変になった時、補償金さえもっと出ていたら住み込みヘルパーさんを雇ったり、バリアフリーにリフォームできたのに、と思わずにはいられないことも度々あった。



放熱に関してはパッドを使いながら、アイスノンをベットの四方に吊るすのが一番良かった。



アイスノンを入れる袋も次々と工夫していたので、我が家に来るヘルパーさんには『この家は次から次へとおもしろい介護グッズが増えますね。』とよく言われた。

母を乗せてリビングルームに移動して
気分転換をさせてあげる時使っていた車椅子


母をベットから車椅子に移動させる時は、
このパッドを身体の下に滑り込ませて父や
ヘルパーさんと一緒に動かした

しかし上のネイビーのパッドの上に母を滑って移動させるには、
この赤いツルツルとした生地の移動用スライドシートも必要だった



それでも何よりも一番の問題だったのは父だった。



父はモラハラ的な発言で家族をコントロールしようとし、母の介護を一層むずかしくしてしまうのだった。

憎まれっ子 世に・・・

2016年1月13日水曜日

結婚式の写真

母の最初の脳梗塞は、1990年の敬老の日に起きた。



その後何度も脳梗塞と心筋梗塞を繰り返し、母の障害は増えて行ったのだった。



最後の10年間は編み物もできなかった。



その頃のことを詳しく書きたいが、記録を調べていると気分が落ち込んでしまう。



ここで少し気分転換をすることにした。



やっと次男から送られてきた、プロによる結婚式の写真だ。



ウェディングドレスの詳細がはっきりと見えるだろうか。

式後ドライクリーニングと保存剤入り箱詰めで$250

マリーは髪を片側に寄せた


結婚式用に買った靴
ガーデンを貸してくれた家でマリーは準備をした

結婚式翌日サンフランシスコで写真を撮った

我が家の披露宴飾り付けさえ、プロが撮った写真で見ると美しい。






あ、あかん!いっぺんに気分が暗くなってしもた。

昨日の父のホームでのわいわい広場
父は先生の指示が理解できない