2021年1月3日日曜日

ネギ坊主

新年あけましておめでとうございます。

いつも、こんな読みにくいブログを読んでくださって、本当にありがとうございます。

もう感謝感謝です。

今年こそはもっとブログ更新を頻繁にしようと誓っております(毎年)。 

そして、コロナ共存生活の中ポジティブに生きましょう。


そう。今年はもっといろいろなことをポジティブに考え、ネガティブな考えに陥らないようにすることを自分に課することにした。

後悔することに意味はない。

今後悔していることは、紙に書きつけて、その紙は捨ててしまうこと。

そしてもう考えないことにしよう。


とにかく何でもいい面を見ること。悪い面を見ない。そしてセラピーを受けることで、もっと人間として成長したい。人間として成長することで幸せになれるのだと思う。

いい面を、いい面を、と考えるようになってかなり気持ちが楽になってきた。


そして、もう人生ラストスパートに入ってきているのだから、今が自分を変えるラストチャンスと考えている。


クリスマスも新年も長男家族とは会うのをやめて、FaceTimeで話すだけにした。寂しいが、次男家族には毎日会えるのだし、今は我慢。


妊娠8週でコロナ感染したマリーから生まれた
アキも健康で生後3ヶ月が過ぎた


和気藹々と楽しく会話したあと、マリーが作ってくれたパスタで夕食。

マリーはスーパーテイスター(味覚が普通の人より3倍鋭い、人によってはコーヒーや炭酸水が飲めないこともあるらしい)のせいか、何を作っても美味しいのだ。


だから私は彼らの食事作りをリタイヤした


今年も変わらず食べ物だけはお正月の準備をするつもりだったが、1月29日開店と同時にニジヤに行ったものの大行列。

38人が目の前に並んでいる。入店できる人数制限があるので、25分待った時点で2人が入店できただけ。

まだ目の前には36人いる。

その時点であきらめた。

何しろ寒い。

お正月の食べ物のために風邪をひきたくない。


ニジヤ入店を待つ人たちの列


帰宅してすぐ家族全員にメッセージを送る。

『警報!お正月過ぎるまで日本スーパーには行かない方がいいかも。

多分アジア系スーパーはどこでも混んでいるはず。

今朝私はニジヤ開店と同時に行ったのに、25分経っても行列が全く短くならないので、あきらめて帰ってきた。』


長男から返事が来た。

『1時間行列に並んで今マルカイに入店。何か必要なものがあれば買って届けるけど。』

が、マルカイから帰宅するのに1時間かかる長男に、更にもう1時間かかる遠回りをさせるのもかわいそうで、辞退した。

だから、お正月の夜だがパスタとブロッコリーの簡単な夕食に、今年からお酒を少し飲めるようになりたくて、赤ワインを開ける。

手頃な価格で美味しいコッポラ


さて、南アのコロナ変異種にはワクチンがどこまで有効かまだわからない、というニュースを見た。

元々ワクチンの有効性に数%だけ懐疑的(もしかして100%元通りには戻らないかもしれない、という意味で)な私は『やはりそうか』と暗い気持ちになる。


2021年はどこまで元の世界に戻るのか。


ワクチンの有効性が証明されれば、今年中に50%ぐらいは元どおりになるのだろうか。

そうも思えない。


マスクや手洗いは引き続き必至だろう。


お店でも3密を避ける方式は続くだろう。


今年、日本には行ってもいいのだろうか。


イリノイ州在住のMささんは、精神安定のために2月末から3週間ほど日本に行くことを思案中、ということ。


イギリス在住のYりさんからも1月末から2月に日本に行くチケットを取った、というLINEが来た。


う〜ん、私も2月に日本に行けばこの二人に会えるのかと思ったが、いくらなんでも感染者数が爆発的であろう真冬に行くのは避けたい。


それもこの二人は首都圏に家があるが、私にはない。


寒い日本にわざわざ着いたあと、2週間の隔離生活は辛い。


やはり無理だろう。



そんなことを考えていると、先が見えない生活に暗くなるが、それに関しては誰もが同じ思いを持っている。

若い子たちはもっと辛いだろう。

子供だって近所の子と距離を取るように親から言われ、公園にも行けない生活。



それでもポジティブに考えるしかない。

家族が皆健康でいられるのだから感謝しよう。

普段会えない長男がコロナに感染して重症化したらどうしよう、と不安になったりするがそんなことを心配していたらキリがない。

そう考えていた時たまたまこんな俳句に行き当たった。




葱坊主 子を憂ふれば きりもなし(安住敦)




そうだなあ。息子たちの安否を日々憂うことは時間の無駄で、その時間は自分を成長させることに使うべきだろう。



しかし葱坊主というのはどんな植物なのかな、と調べてみると、なんと私が一番好きな花だった。(葱坊主の画像2枚は両方ともお借りしました)


この花で庭をいっぱいにしたい、といつも考えていた


アメリカではLeekという名前、日本ではネギの花だ。

そうかあ。これはネギだったのか、と目からウロコ状態。





『葱坊主』と最初に入れるといろいろな俳句(川柳)ができそうなことも発見。そしてその季語を入れた五七五を作ることで、気分が明るくなるようだ。


そうだった。介護が辛い時はいつも川柳を作っていたではないか。


葱坊主 生きてるだけで 儲けもん


今年は何か辛いことにぶち当たっても、ネギ坊主ネギ坊主、と『ネギ坊主』を入れた川柳を作って乗り越えることにしよう。




ネギ坊主 このこと知るは 自分だけ
(イヤ、隠れ肥満、公開してるし)

2020年12月28日月曜日

セラピー

 パンデミックという予想もしなかった大事件が起きた今年。それでも時は過ぎて行き、また新しい年が始まろうとしている。

それがどうも感覚的にすんなりと入ってこない。

あまりにも外出せず、家族だけと過ごした一年。


小さな子供には大変な一年だったと思う
公園の遊具が使えないヒロは、毎日近所の小学校の校庭で自転車に乗って遊んだ


が、2020年が終わろうとしている今、私はこのままではうつ病になるかもしれないな、と思うほど落ち込んでいる。


毎朝真っ暗な気持ちで目がさめる。


介護をしていた時が今までの人生で一番辛い時期だったと思っていたのに、介護には終わりがあったのだ。


が、今は終わりが見えない。このまま真っ暗な気持ちがいつまで続くのかと不安になり、どうやって這い上がればいいのかわからない。


秋は空まで物悲しいし


毎日イギリス在住のYりさんとLINEでお互いを叱咤激励し合うエクササイズは2ヶ月続いている。


体の健康だけではなく、心の健康のためにセラピストと話すのがいいのだろうと思い始めた。


長男は数年前セラピーに通い、かなり助けられたらしい。その話は次男にはしたらしいが、私にはしない。私がセラピーというものに対して懐疑的だとわかっていたのだろう。

次男は去年の夏から毎週50分リモートセラピーを受けている。今年は隔週で受ける予定。

マリーも今年2月から受ける。


では私も受けようかな、と言うと、次男曰く『いいと思うよ。問題を抱えていない人間なんていないと思うし、誰もがより良い人生を送るためにセラピーを受けるべきだと思う。お父さんも受ければ、ずっとずっと幸せになれると思うけどね。』ということ。

私だってそれはわかる。お金の心配さえないなら、数ヶ月前から受けることを考えただろう。

が、今はお金がかかってもセラピーを受けて、より良い人生を送るために自分を変えたいと思っている。

サキ母に勧められて摂り始めた髪のためのサプリ
明るい未来を運んできてほしい

以前はセラピーを受けるなんて考えたこともなかった。姉がいつも言うように、私は親から愛され屈託がない子供時代を送ったから大丈夫、と思っていたのに、実は自分が『多くの屈託』に包囲されているのだ、と感じる。


では、どんなセラピーを望んでいるのか、どんな話をしたいのか、自分の中に巣食う暗闇がどうやって掘り起こされるのか。もしかしたらセラピストと話すことで、今後の人生の展開が変わってしまうのではないか、などなど考え始めるとまた躊躇する。


まずは自分が残りの人生に何を望んでいるのか。



もしかして、最近ほんのりと割れ始めてきたように見える6パック?


もしかして錯覚?

2020年12月11日金曜日

英語を話すということ オマケ 歌

今朝のヤフーニュースによれば、移住したい国#2は日本(1位はカナダ)だそうだ。

アメリカ人にも人気の日本。


日本語のクラスも常に人気がある。



昨日奈良に行った姉が送ってくれた奈良の写真
私は東京か奈良に移住して、清水にご飯食べに行きたい


私が高校生/大学生/一般市民を教える時も、いかに楽しく習えるかということばかりに心を砕いた。

楽しい授業じゃないと生徒は途端にあくびをし始める。

特に高校生なんて遠慮なくあくびを連発する。


でも、楽しい授業を作ることは一番難しい。


私にはほとんど楽しい授業なんかできなかったような気がする。

特に難しい生徒(文句・泣き言が多い、クラスメイトが白ける発言をする、など)のいるクラスでは空回りすることも多かった。

でも、高校生でもこういう動画を組み込むと喜んでいた。所詮かわいい年頃なのだ。


自分の授業を生徒はどういう形で覚えていてくれるのだろうか、と時々考えたりする。


私が中高生の時英語の授業は全く面白くなかった。

特に高校時代のI原先生なんぞ、覚醒状態維持困難、などという漢字を羅列したくなるような授業だった。

テストは参考書の英文を(各10文ほどの段落)丸暗記し、一語も間違えずに書くことができるか、という全く意味のないもの。


姉の友人は子供の頃英語塾に通っていたそうだ。

そして1週間を英語で覚えるための歌は、今でも覚えている。

月曜日だけは忘れてしまった、ということだが、その歌がこれだ。


日曜日 日曜 洗濯 タクサンデー
火曜日 火事には 水を チューズデー
水曜日 水田(みずた)に 苗を ウエンズデー
木曜日 木刀 腰に サーズデー
金曜日 金髪 料理は フライデー
土曜日 お土産 持って ゴブサタデー



秀逸ではないか!

月曜日は確か月(つき)で始まったような気がする、ということ。

この人がこの英語塾に通ったのは昭和36年頃だそうで、まだアポロ月面着陸の前。

もしかして『月にはもうすぐツキマンデー』?

いや、そんな品のない言い方を塾では教えないだろう。


よし、月曜日の語呂を作ってみようではないか。

こういうのって、作るものでその人の為人(ひととなり)が表れますよね。


あなたも月曜日の歌を作ってみてください。


ちなみに私のは・・・


毎週 月曜 肉マンデー

2020年12月8日火曜日

英語を話すということ 3/3 早期英語教育

中学生になって一番楽しみだったのは、英語を習い始めることだった。

新しい言葉。ウキウキした。


が、最初の英語の授業で打ちのめされた。


教科書に出てくる一番最初の文でつまずいたのだ。

I have a book.

え?え?え?

これは、今、本を手に持っているという意味?

それとも本を所有している、という意味?


当時英語の教科書はクラウンかリーダーという二つに分かれていたと思う(うろ覚え)が、リーダーの方は、

This is a pen.

で始まるということだった。


うらやましかった。
それならわかる。
目の前にあるのは本だ。
手に持っているのか、所有しているのか、なんて迷うことはない。




さて、1983年84年は日本でアルバイトをし、その後アメリカに戻ってきて結婚した。


20代の頃ボストンに旅行しても、興味の対象は文化ではなく食べ物だった(今は?)


そして日本企業の支社の経理部門で働き始めた。そのうち支社長から公認会計士になることを勧められ、午後はほぼ毎日のように職場を抜けて、大学に行くようになった。

が、支社長とその他1人の社員からのセクハラがひどく(毎日午前午後と肩、背中、腕、指の先までマッサージをされた)、会社に行くのが憂鬱でたまらない。そのうち直属の上司である部長が企業秘密を他の会社に漏洩していたことで解雇され、私もそれを機に辞めることにした。



その後二人の子育てをしながら90年代はIT企業のコンサルタント(肩書きだけ立派)としてパートタイムで働きながら、私はまた悩んだ。家でパソコンを使って仕事をする、社会から隔絶された地味な生活。名ばかりのコンサルタントで、していることは下手な翻訳とラベル作り。資格もないしキャリアも積めず、相変わらず何を考えたらいいのかわからない。とにかく満たされない。このまま年をとるのか、と忙しい中暗澹たる気分が続いた。


そんな時、姉がおもしろい本をくれた。沢木耕太郎『深夜特急』単行本2冊、立花隆『宇宙からの帰還』、日高敏隆と竹内久美子共著『ワニはいかにして愛を語るか』、そしてディック・フランシス『本命』だった。

大人になって初めて本に没頭し、知識欲が満たされるというのはこんなに幸福感をもたらしてくれるのか、と感動した。サンノゼにある紀伊国屋で本を買いあさり、時間がある限り読書にふけった。新しい世界を知ることの楽しさ。

ここで初めて、英語でどうしても人に伝えたくてたまらないことができたのだ。それも伝えたい相手は世の中で一番かわいい二人(だった)。

マリーとアキのクリスマスストッキング完成
が、マリーのは今後新たに作り替えることに・・・

ヒロはアキのストッキングの方を気に入ってしまったので、
急遽二人の名前を入れ替えた


この時代私は一番英語をしゃべることができたと思う。自分の頭の中はおもしろい話で満杯だ。香港、インド、パキスタンなど行ったことはないけど興味深い国の話、アポロ計画の裏話、イギリス競馬界の話。おもしろい話を息子たちに教えるためなら、いくらでも英語が出てくる。親しい日本人の知り合いはいなかったから、日本語を話す機会もない。

そうか、エンジニアや会計士になれ、と言われたのは私が有能だったからではなかったのだ。数字にとんでもなく弱いアメリカ人が多い中、私は強かった(指を使ってカウントしない)。そして日本人の特性である生真面目に仕事をこなすこと、ただそれだけが評価されていたのだろう。


そして発音が良かろうがネイティブ並みにしゃべる事ができようが、仕事をする上でそれは大した意味を持つことでもないのだ。キャリアを積んでいても、充実した人生待っているわけではない。

必要なのは、自分の中に充足感があるかどうかなのだ。


英語がしゃべれても人に伝えたいものがなければ、英語で実ある会話はできない。それは日本語での会話でも同じだ。自分のが心が満たされ、自分なりの文化が育ってやっとそれを誰かに伝えたくなるのだろう。その時話す言葉は流暢でなくともいいのだと思う。


クリスマスツリーを出した
キャンディが売り切れ始めたり、全てがクリスマスモードになりつつある

ヒロとは少しずつ日本語で話したい


日本では早期英語教育が導入されている学校が多いようだが、子供達が楽しく学べる限り、悪いことだとは思わない。私の息子たちも楽しみながら日本語を学ぶ機会があったら、そしてバイリンガルになっていたら、それは彼らの財産になっていたと思う。日本語が全くしゃべれない夫と私の間で息子たちが二つの言語に混乱し、母国語さえしゃべれなくなるかもしれない、と心配し私は日本語で会話しなかった。

が、アメリカで育った友人たちの子供は両親が日本語をしゃべる環境で育ち、学校では全く問題なく英語をしゃべるバイリンガルだ。彼らは仕事の選択肢も増え活躍している。そして何よりも、友人たちが子供と日本語でコミュニケーションが取れるのはうらやましい。


日本で育つ子供たちの早期英語教育はまた少し違う話だ。

家で家族と話す時は100%英語、そして学校では日本語、という形が一番自然なバイリンガルに育つ環境だろう。

そういう環境にいない場合、歌やショートストーリーで、幼少時から英語に楽しみながら触れるのはいいことかもしれない。

大事なのは子供の中で育つ物事への興味だろうと思う。そしてそれを否定せずに応援してあげる親の姿勢なのだろう。外国語に興味を示す子供には教えてあげればいい。が、興味を示さない子供には、時間のむだなのかもしれない。特にそれが親のイライラにつながるとしたら。そんな時はその子の興味の対象を深めてあげる、という時間の使い方の方がずっと価値があるように思える。



英語はブロークンで発音は最悪。でも、構文を必死で組み立ててでも伝えたい事のある人。

片や英語がペラペラだが話に中味もおもしろさもない人。

英語でコミュニケーションをとる場合、相手はこの二人のうちのどちらと会話したいだろうか。自分の子供にはどちらの人間に育ってほしいか。




ここ数年私は息子たちと英語がしゃべれなくなった。
英語がまたむずかしくなってきたのだ。
スラスラと言葉が出ない!

家族と話す時、単語が出て来ない状況が増え、息子たちも私と話す時、我慢しているように見える。ような気がする。が、それを態度に出さないように努力しているように見える。(被害妄想?)


私の英語力が落ちたことだけが、息子たちとうまく英語を話せなくなった理由ではない。
私ができなくなったのは、息子たち世代が興味を持つ話題がなくなったことだ。

もう彼らは私から聞きたいことがない。


私が会話したい人は日本語を話す人ばかり。
私の『英語でコミュニケーション』時代は終わったのだ。

が、私が新たな人間性を作っていく時代が始まったのだと思う。
この話はまた後日。



この2匹は早期教育が必要だったのね

2020年12月1日火曜日

コロナのワクチン

前回までの記事『英語を話すということ』は書き始めると長くなる一方で、最終の記事がまだ書きあがってないので、もう少しお待ちください。出来次第、閑話休題としてアップします。



京都で眼瞼下垂手術を受けることになり、4月に手術日を予約した。

が、アメリカではコロナワクチンが、来年の4月から5月頃一般人に供給されるということだ。

今日のニュースで、こういうワクチン開発の時系列を見た。


つまり、

1月11日に中国がCovid-19の遺伝子配列を発表した。

1月13日にワクチン企画案(?)は完了した。

2月7日にワクチン第一号が作られた。

3月16日から治験が始まった。


ということは、私がコロナに感染した時にはもうワクチンはできていたことになる。


今日のニュースでは遅くとも6月までには、ワクチンを接種したい人全員が受けることができる、ということだった。

まず最初は医療従事者、次に高齢者と重篤な持病のある者、そして次が65歳以下の一般市民。

となると、私もワクチンを接種してから日本に行くべきなのだろう。

でもワクチンが行き渡ったあと人々はまた旅行を始め、特典旅行はあっという間に満席になり、空席がないという可能性もある。いや、それでもとにかくワクチンは2度接種してから行くべきだろう。じゃないと、特典旅行どころかコロナにかかって死ぬかもしれない。春の手術予約はキャンセルするべき?

いやいや、下のユナイテッド航空の記事を読むと、機内でのコロナ感染は満席の場合でもリスクはゼロに近いということ。現在サンタクララ郡は全国ニュースになるほど感染が拡大している。となると、日本にいる方がかえって安全だ、ということになる。


ユナイテッド航空のお知らせ


ユナイテッド航空はワクチンのニュースを受けて、株価が上がっている。

航空会社の一番の財源と言われる特典旅行プログラム。特典旅行のためのマイルを買いませんか?27日までに35000マイル以上買うと、おまけとして100%ボーナスがつきますよ、というメールが先週ユナイテッドから来た。

85%ボーナスメールはたまに来るが、100%ボーナスはあまりない

散々迷った末買うことにした。

35000X2=70000マイル買った

マイルは貯めようと思えば色々貯め方がある。

次男の同僚なんか、貯まりに貯まってしまって、コロナ以前は毎月家族全員でニューヨークに遊びに行ったりしていた。使い切れないほどのマイルが貯まっているので毎回ビジネスクラスを使うのだが、子供にそんな贅沢を覚えさせるのはいかがなものか、といううらやましい悩みを持っているほどだ。

ユナイテッド航空の買い物をする時、契約店から買えばエキストラのマイルがもらえるプログラムがある。例えばMacy'sやJ. Crewといったようなお店。

だから私はマスクもMacy'sで買い、6枚30ドルのマスクで150マイルついた。

先週はベッドを買い、消費税前1020ドルX5=5100マイルのボーナスがついた。このように買い物でマイルがどんどん貯まる。



1020ドルの5倍は大きい


Unitedのクレジットカードは色々あり、加入した時の条件は色々違う。マイルの貯め方に関して、詳しい知識のある人はどんどんマイルを増やしていくのだろう。

とにかく、日本までの往復マイルが貯まったことだし、行くか。春のニッポン!


ちょっとブレイクあってもいいかも












ちょっとブレイクあってもいいかも

2020年11月28日土曜日

英語を話すということ 2/3 挫折

大学4年生の時、私の一番の悩みは『何を考えたらいいのかわからない。』ということだった。


当時のボーイフレンドと姉に笑われたものだ。『考えることがない?』



姉はドストエフスキーとかボーヴォワールを読んでみたら?と言った。


少し読んでみたがますます混乱した。



その頃の私の生活はほぼ男子校のような大学キャンパスでの勉強(ほとんど注意を払ってなかった)、男子生徒たち(全員単純だった)との放課後のおしゃべり、アルバイト、一日中自分の所在を明確にするよう父から義務付けられていた電話(公衆電話から!)に終始していた。



こうして思想も文化も意見もない人間ができあがった。


そして、その人間が卒業後の就職先を探そうとする。



大阪にある企業に面接に行ったが、私にはアピールするものは何もなかった。


そもそも履歴書に書ける趣味や特徴など何もない人間だったのだ。



こんな私が次に考えたのは何か。


そうだ、京都に行こう!


じゃない。私は京都に住んでいたのだ。


私は単純に、そうだ、アメリカに行こう!と決めた。



1973年に固定相場から変動相場に移行した円相場は、当時200円前後をつけ留学ブームが始まりつつあった。



サンノゼ大学を選んだのは、カリフォルニアが日本から近くて暖かいというイメージがあったこと、カリフォルニア各地の大学の写真を見た時、なぜかサンノゼ大学の時計塔が気に入ったこと、それだけの理由で決めた私は本当に何も考えていない人間だった。


さて、Univacというコンピューターの会社で秘書として働いていた私に、Student-in-Training Visaが切れる日が来た。


が、実はその少し前に私をIndustrial Engineerとして雇用したい、というオファーが会社からあり、グリーンカード取得の準備を人事と進めていたのだ。


エンジニアとしてアメリカに永住する可能性が出てきた。


それも自分には破格と感じるお給料での正規雇用。


夢の中にいるような気分だった。



書類審査と面接も終わり、会社が私のためにグリーンカード申請をする段階になった時、会社は規則として社内に『エンジニア募集』のお知らせを出した。


私の上司の推薦で私を雇うことが決まった場合でも、社員にはxxxxポジションの募集がある、と公開しておかないと違法になる。


形だけのものだから心配はいらない、と言われた。



が、最終的に私の雇用は実現しなかった。



癌治療のため病気休暇を取っていた女性社員からクレームがついたのだ。


女性社員の言い分は、自分はこの仕事に就くためのの条件を満たしていて、しかも正社員である。


その自分を差し置いて、アメリカでの就労ビザを持たない者にグリーンカードを取得させてまで雇うことは、癌患者への差別であり、会社を相手取って訴訟を起こす、と正式に人事課に申し入れたのだ。


人事のマネージャーは私を個室に呼び "I'm so sorry."と言った。



人生初の大きな挫折だった。


今なら理解できる。知り合いであるY山さんは人事課マネージャーをしているが、こんなことを言っていた。


アメリカの会社ではxxx差別、という名目で訴訟を起こす社員が一番厄介なので、そういう訴訟問題に発達した場合に備えて企業はどこも顧問弁護士を雇っている、ということだ。


Y山さんは、60歳の時に前の会社をリストラされることになった。


赤字決算、業務縮小のため解雇された数人のうちの一人だったのだが、その際3ヶ月分の給料をseveranceと呼ばれる退職金と共に呈示された。


Y山さんはこのリストラはAge discriminationつまり、年齢による差別が理由で行われている、だから会社を訴えると人事課に伝えた。


彼女にとっては単なる交渉だった。会社からの返事は、退職金を6ヶ月分に増やします、というものだったそうだ。



この挫折のあと私は日本に帰国した。


今思う。


あの時エンジニアとしてアメリカで働き始めていたら・・・


どういう現在につながっていたのだろう・・・


もしかしたらネイティブではない英語で仕事をしないといけないことがつらくなり、仕事を辞めて帰国していたかもしれない。


少なくとも今の夫とは結婚せず、違う人生を送っていたような気もする。


となると、違った幸せと不幸を経験していたのかもしれない。



昨夜は今までの大人数での集まりではなく、長男家族と次男家族とだけサンクスギビングのテーブルを囲んだ。


最近自分は幸せなのか不幸なのかわからなくなってきた。


が、とりあえず食べる時だけは幸せだ。

アメリカではthe same bubble, the same pod(同じグループに属するという意味)の
中にいる人たちとなら集まってもいい、と言われていた


今の私は英語に自信がない。


サキ母は清水市出身というラッキーな人だが、サキ母と日本語だけで話すことができる、ささやかな幸せを感じながらもりもり食べた。

長男が焼いたターキーは生々しい姿


これが英語しかしゃべれない人たちとだけの晩餐会だと、食べた気がしない。


やっぱり私にとって英語は母国語ではない、緊張をもたらす言語なのだ。

近所を歩いていたターキーたちも緊張していたような

2020年11月26日木曜日

英語を話すということ 1/3 愛の行方

この話の一部は6.7年前の記事に一度書いたことがある。


が、もう一度少し形を変えて書くことにした。


また同じ話を〜と思われた方、ちょっと我慢して聞いてくださいね。




40年前の春、初めてアメリカの地を踏んだ。


サンノゼ大学でESLのクラスを9ヶ月とるコースで、留学というよりは遊学。



当時のサンノゼにはビルもなく、舗装されていないダウンタウンを歩くのは大変で、石ころと空き地だらけのダウンタウンには、たくさんの売春婦が立っていた。


シリコンバレーと呼ばれるようになったのはずっと後のことだ。



9ヶ月英語を学ぶことで流暢な英語が喋れるようになり、日本に帰国すればどんな仕事でもあるだろう、と思っていた私はなんとおめでたい人間だったのか。


それも英語なんか全くしゃべれなかったのに。

日本からサンノゼに来て3週目にディズニーランド旅行に当選して行ったが、
この頃他のどの日本人学生よりも英語ができなかった


私はとんでもない思い違いをしていたのだった。


英語が全くしゃべれないまま、9ヶ月コースは終わった。


さて、これからどうする?



そんな時、住んでいたアパートのすぐそばに秘書養成学校があることを知り、そこに行くことにした。


13ヶ月のコースがすんだあと学校の事務局から仕事を紹介してもらい、Univacというコンピューターの会社で働き始めた。


ヒヤリングはできるが、英語はまだまだしゃべれない。


発音も悪い。


なのに、秘書として一日中電話を取り次ぐ仕事をすることになった。



当然電話の向こうにいる人は私の英語がわからない。なにしろ私の所属する部署Facilitiesという言葉さえちゃんと発音できない。



電話をかけてきた人は私の"Facilities(部署の名前)"という最初の一言が理解できない。


"I beg your pardon."と言われてめげるの、なんの。




そんな日が続き、日曜日の夕方になると胃が痛み始めた。


明日の朝また仕事に行かないといけない。


英語の発音が悪い自分が、なぜ電話で話す仕事をしてるんだ。もう辞めたい。



そのことばかり考えて眠れない。が、夜は明ける。


月曜日の朝重い足を引きずって会社に行った。



ある日私をいつも指導してくれていた秘書ルイーズの、3歳のお嬢ちゃんが職場に遊びに来た。


3歳の女の子はまあよくしゃべる。3歳なのに英語がペラペラかあ。当たり前だけど・・・



突然私の脳の中に灯りが点った。



待てよ、あの子は今3歳。3歳であれだけしゃべることができる。


ってことは私がアメリカに来た日を生まれた日と考えれば、今2歳。3歳になるまでにあと1年ある。


その1年で英語がペラペラになってあの子と同じようにしゃべれるはずだ。



それに『石の上にも3年』ということわざがあるではないか。


2年でしゃべれるはずがない。


何事も3年努力することが必要なんだ。



その日から全身耳になり、周りの英語を吸収しようと努力した。


すると自分の英語がどれだけなまっていたかわかり始めた。


時々職場に電話をしてくれていた日本人の友人F田君と話す時、英語も交えて話してみる。


F田君は『お、どないしたん。発音がネイティブっぽくなってきとるやん。』と言う。

上の写真に比べると、アメリカ女子っぽくなっているその頃の私(下は姉)


俄然自信がついてきた。


Facilitiesと電話に出ると誰もPardonと言わなくなった。


この人生の転機は一生忘れられない思い出なのだが、忘れたのはその時3歳の女の子がどういう語彙を持ち、どういう話し方をしていたか、だった。


それは最近になり解明された。

このところ突然寒くなり、ガーデンチェアのクッションも仕舞った


ヒロが3歳を過ぎて、英語の構文が飛躍的に発達したのだ。


お風呂の中で遊んでいるヒロの頭の上に、誤って私がお湯をかけてしまった時のことだ。


眉をしかめて私を睨むヒロ。"What did you do that for?"と言う。


そうか。3歳児はここまでの文を作ることができるのか。


感心した私はなんだか嬉しくなったのでヒロを抱きしめた。


そしてI love you.と言った。


ヒロは困ったように下を向いてつぶやく。


"Noooo, I love my mommy." だそうな。

愛が拒絶された瞬間