大学4年生の時、私の一番の悩みは『何を考えたらいいのかわからない。』ということだった。
当時のボーイフレンドと姉に笑われたものだ。『考えることがない?』
姉はドストエフスキーとかボーヴォワールを読んでみたら?と言った。
少し読んでみたがますます混乱した。
その頃の私の生活はほぼ男子校のような大学キャンパスでの勉強(ほとんど注意を払ってなかった)、男子生徒たち(全員単純だった)との放課後のおしゃべり、アルバイト、一日中自分の所在を明確にするよう父から義務付けられていた電話(公衆電話から!)に終始していた。
こうして思想も文化も意見もない人間ができあがった。
そして、その人間が卒業後の就職先を探そうとする。
大阪にある企業に面接に行ったが、私にはアピールするものは何もなかった。
そもそも履歴書に書ける趣味や特徴など何もない人間だったのだ。
こんな私が次に考えたのは何か。
そうだ、京都に行こう!
じゃない。私は京都に住んでいたのだ。
私は単純に、そうだ、アメリカに行こう!と決めた。
1973年に固定相場から変動相場に移行した円相場は、当時200円前後をつけ留学ブームが始まりつつあった。
サンノゼ大学を選んだのは、カリフォルニアが日本から近くて暖かいというイメージがあったこと、カリフォルニア各地の大学の写真を見た時、なぜかサンノゼ大学の時計塔が気に入ったこと、それだけの理由で決めた私は本当に何も考えていない人間だった。
さて、Univacというコンピューターの会社で秘書として働いていた私に、Student-in-Training Visaが切れる日が来た。
が、実はその少し前に私をIndustrial Engineerとして雇用したい、というオファーが会社からあり、グリーンカード取得の準備を人事と進めていたのだ。
エンジニアとしてアメリカに永住する可能性が出てきた。
それも自分には破格と感じるお給料での正規雇用。
夢の中にいるような気分だった。
書類審査と面接も終わり、会社が私のためにグリーンカード申請をする段階になった時、会社は規則として社内に『エンジニア募集』のお知らせを出した。
私の上司の推薦で私を雇うことが決まった場合でも、社員にはxxxxポジションの募集がある、と公開しておかないと違法になる。
形だけのものだから心配はいらない、と言われた。
が、最終的に私の雇用は実現しなかった。
癌治療のため病気休暇を取っていた女性社員からクレームがついたのだ。
女性社員の言い分は、自分はこの仕事に就くためのの条件を満たしていて、しかも正社員である。
その自分を差し置いて、アメリカでの就労ビザを持たない者にグリーンカードを取得させてまで雇うことは、癌患者への差別であり、会社を相手取って訴訟を起こす、と正式に人事課に申し入れたのだ。
人事のマネージャーは私を個室に呼び "I'm so sorry."と言った。
人生初の大きな挫折だった。
今なら理解できる。知り合いであるY山さんは人事課マネージャーをしているが、こんなことを言っていた。
アメリカの会社ではxxx差別、という名目で訴訟を起こす社員が一番厄介なので、そういう訴訟問題に発達した場合に備えて企業はどこも顧問弁護士を雇っている、ということだ。
Y山さんは、60歳の時に前の会社をリストラされることになった。
赤字決算、業務縮小のため解雇された数人のうちの一人だったのだが、その際3ヶ月分の給料をseveranceと呼ばれる退職金と共に呈示された。
Y山さんはこのリストラはAge discriminationつまり、年齢による差別が理由で行われている、だから会社を訴えると人事課に伝えた。
彼女にとっては単なる交渉だった。会社からの返事は、退職金を6ヶ月分に増やします、というものだったそうだ。
この挫折のあと私は日本に帰国した。
今思う。
あの時エンジニアとしてアメリカで働き始めていたら・・・
どういう現在につながっていたのだろう・・・
もしかしたらネイティブではない英語で仕事をしないといけないことがつらくなり、仕事を辞めて帰国していたかもしれない。
少なくとも今の夫とは結婚せず、違う人生を送っていたような気もする。
となると、違った幸せと不幸を経験していたのかもしれない。
昨夜は今までの大人数での集まりではなく、長男家族と次男家族とだけサンクスギビングのテーブルを囲んだ。
最近自分は幸せなのか不幸なのかわからなくなってきた。
が、とりあえず食べる時だけは幸せだ。
今の私は英語に自信がない。
サキ母は清水市出身というラッキーな人だが、サキ母と日本語だけで話すことができる、ささやかな幸せを感じながらもりもり食べた。
これが英語しかしゃべれない人たちとだけの晩餐会だと、食べた気がしない。
やっぱり私にとって英語は母国語ではない、緊張をもたらす言語なのだ。
「人に歴史あり」
返信削除差別はいけないことですが、それを切り札にして渡り歩く社会ってどうなんでしょう?
はっきり言わないとわかってもらえない社会だからでしょうか。
当時は悔しかったことでしょう。でも、結果良ければすべてよし。
そうゆう風に道が敷かれていたのか、それとも運命のいたずらだったのかは、みきみぃさん次第ではないでしょうか?
息子さんたちご家族もお元気でとっても幸せだと羨ましくなります。
やはり、それはみきみぃさんが導いた生き方ではないかと思います。
お気に障るようなコメントであれば、申し訳ありません。
Michikoさん、
削除気に障るなんてとんでもないです!優しいお言葉ありがとうございます。
当時は本当に悔しかったですが、自分のような人間でも誰かに認められることがあったんだ、と今ではいい思い出の一つになりました。
夫だけが、あの時あの仕事が決まっていたら年金も増えていたのに・・・なんて言っています^^
アメリカの訴訟制度は本当にいやな面です。
1月に追突された時も、加害者の保険会社は私が訴訟を起こすのか、ということが一番の懸念になっていたようです。
訴訟を起こすなんて思ってもみませんでした。
お互いに来年は心穏やかに暮らせる年にしたいですね。