2013年9月30日月曜日

戦友

来週末の父の90歳のお誕生日には、外泊をさせてあげたい。家に帰れるのはこれが最後になるのか、あるいはお正月も可能なのか。

家で父を介護するのは無理、と自分を納得させようとしながらも日々思い悩む。『本当にそうなのか。家でもう少しがんばって世話してあげることができたのではないか。』こうした罪悪感は決して払拭することができない。

物を捨てることのできない父
使い捨てマスクを洗面台で洗う
経験してみないとわからない、という感情にはいくつか種類があると思う。介護の苦しみもその一つだ。例えばこういう話を聞く。親の介護に関しての兄弟間での認識の違いだ。兄夫婦が親と同居して介護をしている。弟夫婦は『お兄さんは親と同居していることで恩恵を受けている。家は親のものだし親の年金があるのだから。兄夫婦は介護をしているとは言っても、実は経済的に得をしているのではないか。』と考える。

弟夫婦は口を出す。『施設に入れるなんて親がかわいそう。親はあんなに元気そうだし、家で世話ぐらいできるだろうに。』そして口は出すがお金は出さない。介護をしていないから、兄夫婦の大変さはわからない。とまあ、これに似た話はしょっちゅう耳に入る。

また、こうも言う人がいる。「介護は赤ちゃんを育てる苦労と似ていますね。」

違う。全く違うものだ。

赤ちゃんを育てる時は将来に光がある。ものが育つ時は先に喜びがあるのだ。果実が実るのを楽しみにするのと同じだ。が、介護は先が見えない。あと2年後には幼稚園に入る、あと10年後には高校を卒業する、と将来を計画したり設計することができない。見えない先にあるのは悲しみだけだ。

父がこんなに早く車椅子を
必要とするようになるとは
夢にも思わなかった
親はどんどん年老いて、脳、身体、感情の全ての機能が低下していく。しかし、明日はそのうちのどれがどういう形で現れるのか予測できない。親のそうした姿を見るのは胸がしめつけられる。自分を慈しみ、学校に連れて行ってくれて、いつも守っていてくれたのが親なのだ。その親がどんどん壊れて行くのを見るのは、筆舌に尽くしがたい悲しみだ。

例えば今日の父はぼんやりどんよりしていて、やはり体温を測っている。35.9度だ。なのに熱がある、と言いながらアイスノンを枕にしている。昨日した『哀愁』の話は全く覚えていない。昨日より一層認知症が進んだように見える。

『親の介護が大変なのはわかるけど、まずは自分の身体を優先しなさい。』と周囲の人たちは言う。自分を気遣ってくれているのはわかる。が、自分を優先できない事柄がある、ということを理解するのはむずかしい。

『先のことを心配しても仕方ないんだから、今からクヨクヨしなさんな。自分が損するだけよ。』と言われる。心配しても仕方ないことはあるが、予測し心配し、準備しておかないといけないこともあるのだ。

日に日に俯きがひどくなる
背中が痛いと言う父を
マッサージする姉

こういうことを言われた時反論してはいけない。わかってもらおうと、納得させようとしてはいけない。未知の感情を想像し思いやることはできても、脳内で体験したり完全に理解・共感することは土台無理なのだ。

一人で介護している人は孤独だろうなあ、と思う。兄弟や姉妹で同じ認識を持ちながら介護できることは幸運だ。同じ敵に向かって団結して向かうことができる。小さな何かを達成した時、同じ喜びを共有できる。夫婦は良く『戦友』と表現されるが、今まで夫に対してそういう感情を持ったことはない。今姉に対しては『戦友』という感情を持つ。

そして夕食には
戦友とさんまを食べるのであった

2013年9月29日日曜日

哀愁

久しぶりに楽しいことをしよう、と朝から四条河原町の高島屋に行った。とにかく京都は小さな街で、デパートは3軒しかない。京都駅にある伊勢丹、四条河原町にある高島屋、そして四条烏丸にある大丸。一番人気は伊勢丹。次が高島屋。大丸は比較的閑散としている。

四条に行く途中で
秋祭りをしていた
靴売り場で父の上履きを探した。が、サイズがない。仕方ないので他の所で探すことにして洋服を見に行く。日本に来るとコートを見に行きたくなる。カリフォルニアではコートを着る機会というのは余りない。だから、コートやブーツは日本の方が充実している。Max Maraでコートを試着したあと、7階に上がり『田ごと』で昼食。

田ごとのランチ
食べ過ぎか?
その後帰宅して1時間休憩したあとホームに行く。父は暑くてどうにもならん、とソックスを脱いでアイスノンの上に足を置き、うちわであおいでいた。エアコンは25度に設定してある。が、分厚いシャツを着ている。

とにかくすることがないので、暑い、寒い、鼻水が出る、風邪ではないか、熱はないか、と不安をどんどんつのらせていく。しかもそれは認知症のために日々エスカレートしていく。他の話題で父の注意をそらせるしかない。デパートで買っておいた穴子巻きなどを食べながら、孫たちの話をしているうちに表情が穏やかになっていく。

穴子寿司などの夕食
その間姉は近所の商店街で上履きを探していた。姉が父のサイズと思って買って来た上履きを持って部屋に入って来る。が、小さい。また、上履きを持って商店街に引き返す。30分後に少し大きなサイズに交換したものを持って戻って来た時、ちょうど看護師のUさんが入って来た。

父の隣に座る。「お好きな映画でしたけど、題名は何でしたっけ?」と聞くが父は覚えていない。昨日のカンファレンスでこれからのホームの取り組みの一つとして、父の好きな映画やテレビ番組をリビングルームで観るようにする、というのがあった。そのための質問だろう。

ではあらすじは?と聞くと父が語りだす。『結婚を約束している恋人同士がいる。男の方がある日戦争に招集される。女はある日恋人が戦死したと聞く。絶望と貧しさのために女は身をやつす(どうも娼婦になったということらしいが、父ははっきりと娼婦という言葉が言えない)。実は男は戦死していなかった。二人は再会するが女の方は自分を恥じて橋から身投げして自殺する。』

父はあらすじを話しながら泣く。ティッシュで涙を拭きながら、「余りにも悲しい映画なんです。もう思い出すだけで苦しいです。」と言う。男の方の名前は思い出せないが、女はヴィヴィアン・リーだと父が言う。「しかし、アメリカ映画は本当に演技がうまいですね。いやあ、洋画は当時よく観ましたが演技に圧倒されました。」と繰り返す。

その場で調べるとこの映画の題名は『哀愁』だった。そういえば、母がこの映画を父と一緒に観たとよく言っていた。

つまり、この映画を見せるのは余りにも酷ということだ。結局水戸黄門などの、あらすじが簡単で父の好きなテレビ番組見せましょう、と言うことになった。それをリビングルームで観ることができれば、少しは夜の時間が寂しくないのではないだろうか。

父が思い出せなかった男優の名は
ロバート・テイラーでした

次のプロジェクトは、当時の洋画のあらすじや俳優の名前を調べて、父にそのことを思い出させること。確か母と観た映画の題名に、『キリマンジャロの雪』というのがあった。エンパイア・ステート・ビルディングで再会を約束する恋人たちの映画『めぐり逢い』は観たのだろうか。母と観たのか。両親の好きな俳優や女優は誰だったのか。

父がこのホームに入ってからは、こうして毎日数時間話すことで父、そして母のことを日々学習している。

2013年9月28日土曜日

カンファレンス

午後2時からホームとの会合が始まった。ホームから渡された話し合う項目リストの紙には、父の名前と『カンファレンス』と書いてあった。そうか、日本でも会合のことはカンファレンスと英語で呼んでもいいのか、と感心しながら見ていたら次々にスタッフが入って来る。

驚いた。父のフロアのスタッフが2人、相談員が2人、栄養士1人、看護師1人、そしてケアマネの計7人の参加だ。

項目は私と姉が話し合いたいと思っていたものとほぼ同じだった。体調面と生活の中で、楽しみを増やせるような取り組みについてが大きな項目だ。私と姉が話しておきたかったことは、まずホームにはとても感謝していること。家で父の神経症とも言えるほどの不安に対処するのはむずかしい。父自身家に一人でいる時間は不安で仕方ない、病院に入院したいと望んでいた。そして今のホームに入ることができた。


ホームイベント会場

ホームでは大勢のスタッフ、看護師や医者による補助、リハビリ療法士との運動などなど、安全に生活させてもらっている。だが、普段は姉が父の様子を見るために、毎日仕事からの帰り道にホームに行っている。姉の不安は、これからどうしても体調が悪い時ホームから呼び出しがあったらどうしよう、ということだ。これが大きなストレスになっている。

そのためにホームに学んでほしかったのは父に対処するためのパターンを知ること。夕方5時頃から疲れが出て来て、その時間帯がうまく過ごせないと夕食を食べない、薬を服用しない、と悪循環に陥る可能性が大きい。そして夜不安になり家族に来てくれるように電話してください、とスタッフに頼む。どうにかホームの職員が穏やかに話すことで、父の不安を取り除いてほしい。そして姉が仕事のあと、家にそのまま帰って休むことができる日ができると嬉しい。


足腰の弱った父

ホームから提案された楽しみを増やすための取り組みは、次の3つだ。リビングで好きな英語を見てもらう、ユニットで塗り絵などを楽しむ、スタッフと昔の話・新聞の話題・バイクや大型トラックなどの乗り物・カメラ等の話・歌の話をする。

これも家族の希望通り。付け加えれば、父は脳トレのようなものが好きなので、例えば魚偏の漢字を書いてくださいとか、四文字熟語を言ってくださいというような遊びを楽しむ。カラオケが好きなので、スタッフや他の入居者とカラオケで遊ぶことができるかどうか聞いた。それも可能ということ。

7人も揃って父のために皆で力を合わせて生活を改善していこうと努力してくれる。これは本当に嬉しかった。父はどんどん機能が低下して行っている。それはホームのスタッフと家族が協力し合ってこそ対処していけるものだろう。

一日の最後は龍馬の銅像の見えるカフェ
和菓子とお茶
114円也

2013年9月26日木曜日

認知症コース

父がアルツハイマーにかかったことで、認知症という病気のことをかなり研究した。父の中で進行する認知症を見続けることで、学習したとも言える。が、日々予期しなかったことが起きる。

父は決して物を捨てない
古いティッシュの箱さえ
廃品利用して何か作る
父は今ほぼ普通に会話ができる。今日も、戦争中爆弾を抱えて敵の船に撃墜しないといけなかった戦友の話をしながら涙ぐむ。その戦友が飛び立つ時手を2度振った、その姿が忘れられないと言う。そして戦争というものは実際に体験したものにしかわからない、絶対にわからないと涙を拭く。

明日は金曜日だからホームではふれあいコンサートがある。父に行くかどうか聞くと、あんなもん、絶対行かない。人が歌いたい時に歌わせてくれない、人をコケにする、とまで言う。父は自分中心にしか考えないので、皆で歌うことなど面白くも何ともないのだ。自分の歌を皆に聞いてほしいのだ。そういう憎たらしい姿は以前のままだ。

そんな父も新しいパジャマをパジャマと認識することができない。何セットも新しいパジャマを買って持って行ったのに、古いぼろぼろになったパジャマを選んで着ている。この新しいのを着たら?と言っても、「それがパジャマ?」と不思議そうに言う。新しく買ったパジャマを椅子に置いて帰る。が、翌日にはそれがパジャマだと認識できず、シャツとしてパジャマの上だけを着ている。


そんなことは予想だにしなかった。どれがパジャマなのかわからない、教えてもすぐ忘れる。そんなことが起きるなんて。認知症とはわかっていても、次にどんなことができなくなるのか家族には予想できない。認知症のコースがどんなものなのか知らないのだ。

エアコンのスイッチさえ覚えることができない、と書いた。3年前にはテレビやDVDプレイヤーなどを複雑に配線していたのだ。デジカメをプリンターにつないで、撮った写真を印刷していたのだ。証券会社に行って国債を買ったりしていたのだ。なのに今は何もできない。が、そういうことをしていたことは覚えている。

ユーロがいくらまで値上がりしたか、ということは覚えているのだ。でも、タンスの引き出しに入れた10円玉のことを覚えていない。毎日のように10円玉をいくつか置いておいてほしい、と繰り返す。ここにあるよ、と見せると納得するが5分後には同じことを言う。

今父がいるホームはいくつかのグループに分かれていて、それぞれ町の名前がついている。父のいる町は横町一丁目だ。横町一丁目には自分で食事ができる人は2人しかいない。父ともう一人は103歳の女性だ。父は毎食全て完食する。食べ物はとても質素だ。


おやつに和菓子やプリンは出るが、果物はない。だから今日は梨をむいて持って行った。夕食と梨のおやつがすんだあと、いつものように7時15分に父に別れを告げる。寂しそうな父に「本でも読んだら?」と言うと、「めんどくさい、明日読む」と毎晩同じことを言う。が、決して読むことはない。


家にいると色々とすることを見つけてくつろぐ父。が、何かしら不安材料を見つけては『ちょっと来てくれえ〜。』と言い始める。夜中にお医者さんや看護師さんに連絡してくれ、と騒ぎ始める。決して家に安心して住むことはできない。

補聴器を調整する父
かろうじてこれは自分でできる
しかしいつまでできるのだろう
が、7時15分に『することがないから寝る』と言う父の声を聞くと、今日も罪悪感にさいなまれながらホームをあとにする。

2013年9月25日水曜日

未来

アプリとの生活が始まった。とはいえ、ブリーダーさんには犬をケージから出すのを、最初の1週間は一日に5分まで、とアドバイスされている。これを絶対守ってください、じゃないと問題犬になる可能性があります、ということだ。特に最初の3日間は安静にしておいてください、ということ。

翌週はケージから出す時間を毎日5分ずつ増やして、2週間だったかが過ぎた時点で、部屋で遊ばせてもいいと言われた。ような気がする。なにしろ色々なアドバイスを受けて忘れてしまった。とにかく最初の週が肝心らしい。

これがアプリの全世界
部屋のエアコンを28度に設定して一人(一匹)にしておく。おとなしく一人遊びをしている。が、そばに行くとキャインキャイン鳴くので、部屋に入って行くのがはばかられる。いくらなんでもかわいそうと思うからだ。が、我慢我慢。来月の中旬以降は姉が一人で育てるのだ。日中姉が留守の間、アプリはケージでおとなしくお留守番しないといけないのだから。

だが、そばに行かない限りアプリはおもちゃで遊ぶか眠っている。隣の部屋からは様子がうかがえない。生きているのか心配になる。夜も全く鳴かないので、心配になってしまうほどだ。トイプードルは飼いやすいと聞いていたが、本当にそうらしい。

それにしても犬を飼うということはお金がかかる。シャンプーやリンスは1本2100円。足の裏用のスプレーは1600円。えさ、オシッコシート、おもちゃ。医療保険は毎月2500円。トリミングが5000円。

人間のシャンプーより
ずっとずっと高い
それに部屋が一気に臭くなった。ドッグフードが顔についたまま乾いた臭い、オシッコシート。シャンプーは2回目ワクチンがすむまでできない。

1日2回14㌘ずつ

でも、でも・・・
暗い将来に突き進んで行く父のことで、毎日悲壮感しかなかったのに、やはり今は気分が明るい。


未来がやってきたのだ。

2013年9月24日火曜日

アプリ

朝から暑かった。が、父をどうしてもわいわい広場に連れて行かないといけない。10時前にホームに行くと、父はフリースのベストを着てぼんやりとリビングルームに座っている。半袖のシャツに着替えさせて、アイスノン持参で広場に連れて行った。

今日は秋の運動会ということで、また玉入れで遊ぶそうだ。が、父は前回ほど楽しそうではない。つい3ヶ月前にはあんなに喜んでいた父なのに。紅白の玉を投げる時はしっかりその気になっていたが、それでも終わるとつまらなそうにしている。



それにしても100歳を超えた女性入居者もいるが、しっかりしていること。それに他の入居者は穏やかな顔をしている。こういう人たちはホームで問題を起こすこともなく、人間関係もうまくいっているんだろうなあ、とうらやましい。

広場から帰ったあとの父は「幼稚園みたいなことばっかりしたなあ。」と言う。それもそうだ。父はもう少し脳トレのようなことをしたいらしい。確かに老人だからと言って童謡を歌ったり、お子様扱いをされるのは楽しくないだろう。

父の新たな不安
風邪薬を禁止されたこと
そのことをメモる
11時に父の部屋の隣にあるリビングにまた戻り、iPhoneで写真を撮ってみせたり、他のアプリを色々説明する。父はテクノロジーの発達にびっくりしていたが、やはり「携帯がほしいなあ、でもこういうところでは持つのはダメらしいなあ。」残念そうに言う。

父に携帯を持たせてあげたい。それで安心感があるならいくらでも持たせてあげる。でも、父に携帯での会話は聞こえない。携帯は家族の声を聞いて安心感をもたらすものではなく、父が一方的に『来てください!』と大きな声で家族に要求するだけのツールになってしまう。

父がエアコンのつけ方を
覚えられないのは
想定外だった
結局午後2時にホームをあとにして帰った。夕方姉がホームにもう一度寄る。今や父は娘二人が交代しながら一日に2度寄ることを期待しているらしい。どんどんエスカレートしていって、もっともっとと要求されるのは困る。

これから父の認知症が進んで行くと、娘を呼べと夜中にわめくようになるかもしれない。それが怖い。

母の命日の今日、我が家に来たトイプードル
名前はアプリ
アプちゃんです

2013年9月23日月曜日

子犬

昨日の夕方猫を見にペットショップにちょっと立ち寄った姉が、ものすごくかわいいトイプードルがいた、とほしそうに言う。仕事、介護、そしてペットの世話と無理なのではないか。それともそんな大変な生活だからペットに癒されるのか。

ペットショップのトイプ
ブリーダーの所に見に行ってみようか、と夕べ連絡してみた。家に来てくださいと言われて今日行ってみる。月齢2ヶ月のトイプードル、3ヶ月のヨークシャテリア、まだ乳離れしていない1ヶ月半のマルチーズと見せてもらった。まあ、3匹ともかわいいこと。特にヨークシャテリアとトイプードルは2匹一緒にゴムまりのように遊ぶ。

介護との両立に悩んでいた姉も、プードルの明るさと体毛の色に癒しを感じたらしい。かなりその気になる。ブリーダーさんには、しつけのために、犬はケージから1日5分だけ出してください。それを1週間続けて、翌週は1日10分だけ出してください、と言われる。そんなことができるのか。

取りあえず明日まで考えることにした。

その後父のホームに行く。

ホームへの道
こういう細い道に
何故か心惹かれる
父の表情は余り明るくない。なんとなくすすけた感じ。鼻水が出ている。父は風邪をひいたと言っては薬を飲もうとする。森先生には風邪薬は飲まないでください、と言われている。抗不安剤を服用しているので、風邪薬を飲むことでまた幻覚症状が現れる可能性があるからだ。それを父に納得させるのは至難の業だ。


悩む。父に手がかかる時、ペットを飼ってもいいものか。でもホームに行く道々、犬がうちに来るかもしれない、と思うと気分が明るくなった。
ブリーダーのトイプードル
さて、どうするか

2013年9月21日土曜日

ヘルパーさん

一昨日のブログで書いた以前ヘルパーさんとして来てくれていたMさんから電話があり、夕方父に会いに来ます、ということ。ホームの前で待ち合わせた。このMさんは母のヘルパーさんとしてお世話になり、母亡き後は父のヘルパーさんとして毎週来てくれていた。

なにしろ気さくな人で何でも相談に乗ってくれる。ホームには外部のヘルパーさんは入ってもらえないので、友人としてこれから父の所に時々来てもらいたいと頼んでいたのだ。

父の部屋はいつも散らかっている
父の部屋の前でリハビリ療法士に会う。父が夕方になると疲れているようなので、3階スタッフに毎日4時に運動を一緒にしてくれるように頼んでくれた、とのこと。この療法士さんは本当に父のことを考えてくれる。父も療法士さんを友人と呼ぶ。

さて、父がMさんに会うのは1年4ヶ月ぶり。でもMさんののことは覚えていた。母の世話をしてくれていたことを思い出し、父は感激して少し涙する。Mさんに歌を披露し、思い出話を披露し1時間があっという間にたった。



これからもMさんは時間がある時に来てくれるということ。これは心強い。普段は姉が一人で父の世話をしているのだが、Mさんのような人がいてくれると、いざとなった時に助けてもらえるかもしれない。

少し光りが見えて来た。ほんの少しだが。

ア◯◯◯◯ンで食べた京野菜とプロシュートサンドイッチ
はっきり言ってまずかった
車で移動の日
万歩計はたったの2688歩
やばい

2013年9月20日金曜日

ネコヒタ

京都の父の家は築23年。20年近く前まで両親は3軒隣にある家に住んでいた。この家の建築中から父は地下室があるのを見て(実際は崖に建っているので半地下)、いつかこんな家に住んでみたいと思っていたらしい。

持ち主のNさんに売ることがあったら是非声をかけてください、と頼んでいた。そしてその日が来た。バブル時ありえないような金額でこの家を買ったNさんは、その半額で売りますと言った。それは査定金額よりもずっと高かった。が、この家に恋していた父は即決した。

住んでみると家が傾いているのがわかった。家の前半分のふすま、障子、ドア全てに問題がある。ふすまを閉めると上の方は2㌢ぐらい隙間があく。調べてみると家の後ろ半分、つまり崖に建っている部分は鉄筋で土台が作ってあるので大丈夫だが、前部分は木材の土台でその前後つなぎ目部分が沈下してきている。

前半分は1階2階ともドアは閉まらない、トイレが詰まる、などの問題を抱えながら生活している。大変な負担でもあるが、父が生きている間はどうにか維持していこうと思っている。が、この家には楽しい部分もある。ネコヒタ庭だ。つまり猫の額の庭。

彼岸花


Nさんがこの狭い庭にこれでもか、これでもか、と言うほどの木やお花を植えたのだ。それがいつ咲くかわからない。ふと見るとある日バラが咲いている。ある日はさくらんぼが実っている。いちじく、葡萄。真っ白な百合、白い彼岸花などもある日突然気がつくとひっそりと咲いている。

昨日の朝は、濃いピンクの百合と赤い彼岸花が咲いているのに気がついた。ああ、母の命日が近づいて来たな、と百合を見ると思い出す。去年は白い百合だった。ピンクの百合は20年住んでいて初めて咲いた。

ピンクの百合
これは今年初めて

さて、今日の父は穏やかだった。が、思い出話も同じものばかりではおもしろくないので、父が以前所用で東京にいつも行っていた頃の話をした。東大でよく会合があったらしく、東大構内の話を好んでする。

ホームへの道
今日は『外人さん』が3人
前を歩いていた


だから、山手線の話をすることにした。山手線はこんなんじゃなかった?と路線図を紙に描いてみた。父はそうそう、神田がこの辺で東大がこの辺で、と嬉しそうに話す。そうか、明日は東京路線図を持って来て話すことにしようと思いつく。



いい加減路線図


このところ父の夕食時に行き7時から7時半頃までホームで過ごすので、帰宅するともう8時を過ぎている。



夕食は8時半頃だ。姉が伊勢丹で買って来たお弁当を食べる。



伊勢丹豆藤弁当


ふと思い出した。



ネコヒタには蛇も出るんだった。

2013年9月19日木曜日

モナリザ

昨日は午後2時にホームを出て帰宅した。父に夜来なくていいかと聞いた時、勿論来なくていい、気をつけて帰りなさいと明るく穏やかな表情だったので安心していた。が、やはり日課になっている夕食時の訪問をしないと、父は不安になるようだ。夜7時姉が夕食を食べている時電話がかかってきた。スタッフからだ。父が不安になっているので来てくださいということ。

隣の空き地の雑草が浸食してきている
どうしたもんか
こうしていっときも完全にくつろぐ時間がない。いつもいつも駆けつける準備をしていないといけない。やはり夜は7時頃までホームで父と過ごして、穏やかな気分になったら帰宅する、というのが一番いいパターンなのだろう。

取りあえずは孤独な父がかわいそうで、以前ヘルパーさんとして父の世話をしてくれていたMさんに連絡してみた。個人的に協会を通さずに父の話し相手として来てもらいたいということを言うと、一度父に会いに来てくれるということ。

もう一人のヘルパーさんにも連絡してみた。Sさんは今ケアマネになっている。Sさんが言うには、特別養護老人ホームは言ってみればゾンビーのような人が殆どで、父のようにまだ認知症も進んでいない人はグループホームがいいということ。

父のホームには元気に歩いている人、認知症状が全く見られない人もいる。が、近いうちにSさんの知り合いがケアマネをしているグループホームを見学に行くことにする。唯一の不安はグループホームのような少人数で運営しているところで、父が人間関係でトラブルを起こさないかどうかだ。

さて、午後は大津にある皮膚科に行って来た。とにかく毎回毎回父のことで右往左往して、自分のケアをする時間が全くない。いや、時間はあるがその気力体力がない。が、それでは自分が病気になるので、リラックスする時間を必ずとることにしたのだ。

京都駅で乗り換え
地下鉄は浸水のため運行休止

大津駅


皮膚科のあと父のホームに行った時はもう暗かった。満月がすばらしくきれいだ。父は機嫌が良く、昔東京によく行っていた頃の話をする。東大構内の中に湯島天神があり、それを見に行った。そのあとモナリザを見に行ったが、ものすごい混雑で4列に並んで右手に見ながら立ち止まってはいけない、歩き続けなさいと言われたなどと思い出す。

モナリザを見に行った時の様子を手ぶり身ぶりで説明する父
とにかく毎晩毎晩思い出話のオンパレードだ。

2013年9月18日水曜日

父の涙

父がはらはらと大粒の涙をこぼすのを初めて見た。

父が数年通っていた眼科は近所のモールの中にある。K院長は平日しか診察しないのだが、院長のことが好きな父は毎月歩いて通っていた。眼圧が高い、緑内障の恐れがあると何年も前に言われた父は、この院長に会うと安心していたらしい。

ホームに入所してからは、ホームに近い眼科にスタッフが連れて行ってくれた。それが先週の金曜日だ。7月には姉が週末このお気に入りの眼科に連れて行ったが、やはり他の医者の代診だった。

前を歩くお年寄り
日本の高齢者は歩くのが速い

夕べから眼がゴロゴロすると不安になっていた父を、今朝はホームのスタッフと一緒にK院長のいる眼科に連れて行った。やっと院長に会えると安心した父は長い待ち時間もじっと我慢していた。順番が来て視力検査をする。裸眼は同じだが矯正視力は7月よりも少し良くなっています、と言われて父は『そうですか。』と破顔する。



さて、いよいよ院長の診察だ。カーテンを開けて薄暗い部屋に入った父は、院長の顔を見た途端に「先生、ずっとお会いしたかったんです。でも今ホームにいますから、なかなか来ることができませんでした。」と大粒の涙をこぼす。その涙がはらはらとシャツの胸元に落ちて、シミになる。余りにも感極まっている父を見て院長も眼に涙を浮かべる。

父はホームに入ってからは新しいスタッフ、新しい生活環境にやはりかなりの我慢を強いられているのだろう。月に2度往診してくれていたN医師、泌尿器科の医師など昔からなじんだ顔から突然引き離されて、新しい住まいで新しい医者から診察を受ける。

母の介護を40年以上続けていた父にとって世界は狭かった。父にとって外の世界との唯一のつながりは医者だったのだ。そして中でもK院長のその気さくな人柄に、父は圧倒的な信頼感を持っていたのだろう。いわばこの院長は、父の故郷にいる友人のような存在だったのかもしれない。

モール入り口から車椅子
院長は父の白内障は進行していない、眼の傷も完治している、と太鼓判を押してくれた。ただ新しい眼鏡の度があってないようなので、新しく処方箋を出します、ということだった。

帰り道の父は心の底から安心したようで、穏やかだった。これからもこの院長の所に父を連れて行ってあげたい。新しい環境の中で必死に適応しようとしている父の、癒しの場所に。

父をホームに送り届けてから、昼食を食べるのを見守ったあと電車で帰った。午後2時半。駅を出ると余りの暑さにびっくり。お腹もすいていることだし、このまま家まで歩くのは無理と判断して、取りあえず何か飲み物を飲むためにスーパーに入った。この界隈にスターバックスやドトールなどはない。あるのはフードコートのマクドナルドぐらいだ。アイスコーヒーを買った。


上の写真の1分後
その後本屋さんで平積みしてある本に目が留まる。全米・カナダで130万部のベストセラーになっている『小麦は食べるな』という本だ。全粒粉信仰への警鐘でもあるらしい。おもしろそうなので買ってみた。

しかし、ランチに買ったのはサンドイッチなのでした

2013年9月17日火曜日

目の傷

毎週火曜日の朝は10時からわいわい広場が始まる。ホームに行くと今日はわいわいに使われる部屋で検診が行われていた。ということは、いつもの部屋が使えないから2階の廊下であるのだろう。2階の廊下は狭い所に大勢の入居者が集まるから、ものすごく暑くなる。父には暑過ぎるだろう。

毎日1個収穫
でも、7月に比べてものすごく認知症が進んでいる父に、こういうイベントに参加することは大切だ。父は歩行機能も低下して始めてヨチヨチと歩くようになった。自分の足が一番高く上がる、と自慢していたのはつい2ヶ月前だ。どんな状態なのか見てみたい。

ついこの前まで
早足で歩いていたのに
9時45分に3階に上がると父はリビングでうつむいて座っていた。わいわい広場に行こうかと誘ったが、険しい顔で「今日は絶対行かん。暑いのがわかっとるのに、行ったら具合が悪くなる。先週も暑かった。気分が悪いと言ったのに誰も聞いてくれんかった。その後ずっと調子が悪かった。」と取りつく島もない。

アイスノンを持って行こう、薄着をして行こうと誘っても今日は頑固に動かない。自分が体温を調節できない時、スタッフがすぐに自分のために動いてくれないことを責める。こういう父を見るとホッとする。余りに弱々しい父を見るのは、家で面倒みてあげないことへの罪悪感が高まるからだ。憎たらしい父を見るとかえって安心する。

ホームまでの道も
やっと涼しくなってきた
とにかく一人で家にいることが不安な父は、ホームに住んで家族が毎日通うという方法しかない。医療機関、介護施設、家族がお互いにサポートし合っていくしかない、と自分を納得させる。

わいわい広場に行かないのなら、一度家に帰って夕方また出直そうと決めた。なにしろ父が寂しそうに時間を持て余しているのは夕方だ。重症認知症のグループの中で、話す人もいない父はリビングで頭を落としてただただボーッとしている。毎回その姿を見ると胸が痛む。

途中スーパーに寄って鰻を買ったあと、家で本を読んでゆっくりする。そして4時半になったのでまたホームに行くことにした。涼しくなったとはいえまだ最高気温は30度を超す京都は暑い。でも、昨日届いたタニタの万歩計の数字を伸ばしたいのでホームまで歩く。



鰻を黙々と食べる父の横で、また昨日の続きを話すことにした。父は何か食べても「おいしい」と余り言わなくなって来た。何に対しても感動の度合いが低くなって来ているように感じる。しかし今日は食後に楽しみが待っている。母の写真だ。

食べ終わってベットに入って座っている父に、母の写真のコピーを渡した。果たしてコピーを見た父は「こんなコピーでは役に立たない。」と言うのか。

母の写真を見た父は「あったんか。」と呆然と写真を見ている。本物ではない、コピーだと言うと「そうか、コピーか。」と言いながらもじっと見つめている。そして「あったんか。」と繰り返す。どうも写真とコピーの区別も余りついていないようだ。

が、その頃から目の中がゴロゴロする、と言い始めた。何度も洗面台で目を洗う。そのあとティッシュペーパーを濡らして目を拭く。それでも気になるようで何度も何度も洗う。

父は目がおかしい、と言い続ける。このまま父を残して帰宅したくない。目に異物感を持つ父は夜電話してくるかもしれない。スタッフに声をかけた。父が夜、目の事で不安になるかもしれないが、目は大丈夫、明日には眼科医に連れて行くから、と声かけお願いします、と頼んだ。

ティッシュを濡らして
拭いてみる
明日は父が長年なじんでいる眼科医の所に行けるかどうか、ホーム看護師さんと話してみないといけない。そこなら父も安心して検査を受けることができるだろう。


今日の歩数