そして姉からメールが届き、母は意識が戻ったと書いてある。
良かった。
また母に会えるのだ。
翌朝出発し、9月1日の夕方母が入院しているT病院に着いた。
母は別人になっていた。
脳幹出血を起こした母は、右目が開かなくなっていた。
脳幹出血を起こした母は、右目が開かなくなっていた。
表情がなくなってしまい、私の声に少し反応を示すが以前の母ではない。
家族の声に反応した母は頬を少し動かす。
母が何かを考えているのか、そもそも家族がそばにいるとわかっているのか。
私たちの声が聞こえてはいるようだが、理解しているのかどうかもわからない。
この年の2月に、父の物忘れが尋常ではないと気がついた。
父自身不安に感じていたようだ。
一日中何かがないと探している。
5月にO病院の物忘れ外来に行き、認知症だろうと診断されたが、O病院の医者に不信感を持った姉と私はR病院の森先生に診察してほしいと思っていた。
そしてちょうどこの頃R病院から連絡があり、父の初診予約が取れたところだった。
父も母も壊れ始めているようだ。
これから一体どうなるのだろう。
父は母が脳幹出血を起こしたその日まで、その年直木賞を受賞した『小さなおうち』を毎日読み聞かせていた。
父も母もこの小説の時代設定に共感することが多かったらしく、母も毎日父が読んでくれるのを楽しみにしていた。
母が入院してからも父は毎日タクシーでT病院に行き、ベッドの横に座って続きを読んだ。
が、もう母はこの本に何の反応も示さなかった。
脳幹出血により大脳基底核の細胞に後遺症が残り、ドーパミンが減ってしまった状態で、脳からの指令が伝わらなかくなってしまったということだ。
ということはドーパミンがないから、身体に障害が残っただけではなく、感情面でも母は変化してしまったのか。
少しずつ回復する可能性はあるとは言われたが、そう思えないほど母は違う人になってしまっていた。
母の心の中では何かを考えているのか、それとも家族に対して記憶も興味も失ってしまったのか、それさえもわからない。
それが悲しかった。
母が脳出血を起こした前日頭痛を訴えていたのに、酷暑の介護で疲れ切っていた姉は母の血圧を測らなかった。
そのことを姉が後悔し続けたように、私も父や姉を助けずに帰国してしまったことを後悔し続けた。
Mieさんのお母様のこと、お父様のこと。
返信削除胸が詰まるような思いです。
うちだって決して他人事ではありません。
いつかこのような状態を迎えることになるでしょう。
それもかなり遠い未来でなく、すぐそこに。
私は必死に現実から目をそむけようとしている親不孝者なんですよ。
本当に親の介護問題って難しいですね。特に日本とアメリカの距離が間に入ることさら複雑になりますね。
にゃごさん、
削除最近友人の誰に会っても親の話になるんですよ。そろそろ親の介護が始まりそう、という状態の友人たちが頻繁に日米往復をし始めています。介護がある日突然降りかかってきた、という人は介護をしている人全体の3割だそうです。
私も父が亡くなってもうすぐ2年。そろそろちゃんと介護や病院での出来事などを記録しておきたいなあ、と思っています。
実際に始まらない限り介護って現実的な問題として考えられないのは当たり前だと思います。にゃごさんは決して親不孝者じゃないですよ!私は父と姉がずっと母の介護をしていたのにもかかわらず、日本にはバケーション気分でずっと帰っていました。親不孝で姉不孝でしたね〜。