父は順調にボケて来ている。昨日はお茶をいれたコップを渡すと、しばらくコップを見つめたあと飲み方を聞いた。認知症はどんどん進行しているが、性格は変わらない。
父は元々のわがままで自己中心的な性格がボケてもっとひどくなった。穏やかな時もあるが、突然変わるので油断できない。スタッフも父のような性格の人の世話はさぞかしいやだろうなあ、と同情する。
夜行きたいのはやまやまだが、今日はわいわい広場なので朝一緒に行くことにした。夕方また行くのは疲れる、というよりも一日2回というパターンを作りたくない。だから夜は来ませんがお願いします、何かあったら来ますとスタッフに頼んで、この前サンノゼを出る前に作ったアルバムも置いて帰ることにした。
今紙のアルバムは 探すのがむずかしい |
わいわい広場でも父は一番でありたい、と思っているのがわかる。今日は玉入れだったがこんなゲームですら『負けたくない』と思っているのが手に取るようにわかるのだ。玉入れのあとは、玉を天井に向けて投げるという運動だった。女性の中には『このホームにいるのは何故?』というような入居者もいる。天井に玉が軽々と届く。
投げ上げるのは これが限度 |
どうしてこんな性格になったのだろう。親がどんな育て方をしたのだろう、と考えていたら、ちょうどダライ・ラマのインタビュー記事が目に入った。幸せになるにはどうしたらいいか、と質問者が聞く。ダライ・ラマが微笑みながら言う。
『幸せになるためには心の平安と充足感を持つこと。それは愛と思いやりから生まれる。小さい時のことを思い出してください。お母さんからあふれんばかりの愛情を受けましたね。その時幸せだったでしょう。それは自分と人との関係に心が平安になっているからです。人に対して優しい心を持つ事が、自分の充足につながるのです。』というようなものだった。
父はもしかして、親からあふれんばかりの愛情を受けていなかったのかもしれない。祖母は淡々とした人だった。一人息子である父に対して愛情はあったのだろうが、それを表現することもなかったのだろう。父の人生に心の平安や充足感で幸せだった時というのはあったのだろうか。
などと考えながら、自分の心の平安と充足感について考えたりした。今は息子たちが家にいるので、まあそれなりの充足感がある。ショッピングも楽しい。インテリアデザインに関しては小さい頃からの趣味だったので、考えたりリサーチをしたり写真を見るだけで幸せ感がある。
が、近いうちに息子たちも家を出る。年齢を重ねてショッピングも楽しめない時が来るだろう。インテリアに注ぐエネルギーも枯渇してくるだろう。そんな時充足感をもたらしてくれるのは、友人との楽しい時間ではないだろうか。つまり、人に対して優しい心を持ち友人を大切にして、ひいては自分の充足につなげないといけないのだろう。
しかし本日の充足感は ドーナッツによりもたらされたのでした |