2017年3月7日火曜日

一人暮らし

民泊の生活にもちょっと慣れてきた。なにしろ大学卒業までは親と住み、すぐサンノゼに移り、その後結婚して、と一人暮らしをしたことがない。だから民泊で一人暮らしデビューをしたわけだ。

不便な点は多い。高い民泊となると設備は揃っているのだろうが、ここは安い。この市ヶ谷、飯田橋、江戸川橋辺りには民泊が結構多く値段競争もあるし、大体1日50ドルから60ドルぐらいで泊まれる。

でもその価格帯だとかなり古くて色んな部分で我慢を強いられる。例えば今の民泊には洗濯機がない。

コインランドリーデビュー

調理台がないのでお料理ができない。バスルームは狭く使いにくい。トイレを流すのも5秒間満身の力を込めて小さなボタンを押す必要がある。駅近でコンビニはたくさんあるが、好みのタイプの食べ物があるレストランがない。

調理台がないので、買ってきたお惣菜しか食べられない
お皿も平皿が3枚あるだけ

日曜日から京都に移動したが、実家では久しぶりにゆったりとお風呂に入れるのが嬉しい。悪いが誰が入ったかわからない民泊の古いユニットバスに入る気がしない。

ブログを読んでくれた友人から『ソファがないの?つらいね〜。』とメールが来た。そう、ソファがないのでパソコンもちゃぶ台に置いて使っている。とはいえ、京都に帰ってもソファがない。膝蓋骨の手術をしたアプがソファに飛び乗ってこれ以上膝を傷めないように、と姉がソファを捨ててしまったからだ。

京都に帰ってまでソファのない生活

ないない尽くしに我慢できるのは、カリフォルニアの家に帰れば便利な生活と家族が待っているのがわかっているから?結局家族や友人などの親しい人々なしで、楽しく暮らすのはむずかしいのだろうか。


グルテンなしも

2017年3月3日金曜日

今日の哲学

小さい頃隣に『河合のおばさん』と呼ばれる女性が住んでいた。河合のおばさんの家は、我が家の裏庭のようなところに立った掘っ建て小屋のような所だった。どういう区画整理がされていたのか、うちの裏庭の一角に建てたとしか思えないような場所にある、トイレもお風呂もない6畳一間ぐらいの家なのだ。

一応裏通りに面しているので我が家とは関係なかったのだろうが、なんだか暗くて狭いこの家が私は少し怖かった。

通りから見える河合のおばさんの家にはちゃぶ台が鎮座していて、他には何もないように見えた。そのちゃぶ台の上にはテレビまで置いてあって、テレビを見ながら食事をする河合のおばさんの背中がいつも見えるのだった。

その背中は寂しく侘しく見えて、子供心にも『ああいう生活はしたくない。』とちょっとした恐怖を感じていた。多分河合のおばさんは、夜、通りから見えない部分にお布団を敷いて寝ていたのだろう。時々顔を見たことはあるものの、普段は古びた割烹着を着たごま塩の後頭部が見えるだけだった。今から考えるとその頃の河合のおばさんは60歳ぐらいだったのかもしれない。

今私は『河合のおばさん』生活をしている。おととい東京に到着して住んでいるのは民泊で、古い小さなマンションにちゃぶ台が一個置いてあるだけだからだ。面積は河合のおばさんが住んでいた家の2倍以上はあるとは思う。トイレやお風呂やキッチンももちろんついている。

キッチンとバスルームのついた民泊の部屋

実は去年の秋日本に帰った時初めて民泊を利用した。その時2週間半ほど東京に住んだのだが、楽しかった。日本に初めて介護のない帰国をして、自由を謳歌した。本当は京都に行くのがつらい気持ちもあり、東京でまず数日過ごしてから京都に移動する、というクッションを置いたわけだ。それでも、東京にいる間に介護帰国している友人たち2人に会い、二子玉川や川崎で何の心配もなく遊ぶのは楽しかった。父がいなくなった寂しさを感じながらも、長い間なかった後ろめたさのない自由な時間は嬉しかったのだ。

だから今回も民泊を2週間半取った。民泊のあとはまた京都に帰り実家で3週間過ごす予定だ。

ところが、今回は早くもくじけつつある。民泊で一人過ごすのがつらい。友人と会う約束は少しずつし始めたが、それでもその残りの時間は無限大に感じる。昨日なんか四谷アトレにランチに行き、歩いて帰り百均で必需品を買って来たが、それでもまだ午後の1時半だ。

四谷アトレのPaulはおしゃれなカフェ

チキンとマッシュルームのサラダと食べ放題のパンの
ランチを食べていたころはまだ気力が充実していた

テレビをつけてNHKで美保純と船越さんというアナウンサーがしゃべっているのをぼーっと見る。近所のコンビニで買ってきていたサラダ、ひじきと大豆の煮物、温泉卵、りんご半分の夕食を、夕方6時にテレビを見ながらわびしく食べる。その後はすることもないし、もう寝るかとクローゼットからお布団を出して敷く。

ハッと気がついた。これ、河合のおばさんだ!と。

人生とは、ちゃぶ台一つでどうやって充実した生活を
一人でも送ることができるか、を模索するところなのね

2017年2月28日火曜日

次男からの知らせ

さて、日本行きは明日に迫った。



リタイヤする姉を祝うことと、送別会などに出たいだろうに、アプにお留守番させるのを心配する姉を助けるのが理由の半分。



あとの半分は日本でおいしく健康的なものを食べながら運動をして体質改善をする、というのが大義名分。



実際この前の血液検査でもコレステロール値は273だったし、病気になる可能性もあるわけだから、どうにかしないといけない。



で、まず最初は東京に2週間ちょっと滞在し、3月後半から4月は京都に滞在し桜を愛でてくる予定だ。



ところが、突然姉がやめるのをやめる、と言う。



職場でもうあと1年、それが無理なら半年でもいいから仕事を続けてくれませんか、と打診されたらしい。



条件は良いし突然仕事を辞めるよりは少しでも収入があるのは嬉しいし、と姉はもう半年は続けることにした。



父の心配をしなくてよくなった姉は、去年何度も体調を崩した。



精神的なストレスがすさまじかったので、父がいなくなると寂しい反面張り詰めていたものがなくなって、病気になり始めたのだろう。



私だって父がいないのは悲しいながらも、先の見えない介護という大きな精神的負担がなくなり半分はホッとしている。



いつ日本に駆けつけないといけないかもしれない状態というのは、常に心の奥底に重い石を抱えているようなものだ。



やっと両親を見送り、子供たちも自立し、もう私は自由なのだ。



足かせなど何もない(はずだ)。



サンフランシスコの次男とマリーのマンションに滞在すると、ついつい翌日の食事まで作り置きしてあげたくなるのだが。

これは明日の夕食
揚げない酢豚
ちなみに今日はマリー姉も招待して天ぷら


猫の世話だってとことんしてしまう。

なんか態度悪いな

両親にも子供にも猫にも、どこかで線引きをして放っておく、ということがなかなかできない。



だからこんなお知らせがあると、言いたいのはこの一言。

オーマイガッ!!

2017年2月27日月曜日

父とのお別れ

母とお別れした時と同じように、父との別れの日は姉と二人で斎場に行った。



その日斎場は混み合っていて、父の順番が来るまで少し待たされた。



斎場に行く車に乗る前に、父とは玄関でお別れをした。



お棺の中には父には似合わない蘭やバラをたくさん入れ、一番お気に入りだったシャツを着せて蓋を閉めた。



その時のことを思い出すと今でも涙が止まらないが、その1時間後の悲しみはそんなものではなかった。




火葬炉に入る前の父とのお別れ。



もう一度父のお棺の蓋を開けてさようならを言う。



本当に父は死んでいるのだろうか。



もう何も感じないのだろうか。



頬を撫でてみた。



父は氷のように冷たい。



でも父の頬が濡れているような気がする。



父は泣いているのだろうか。



まだ生きている、炉に入れないでくれ、と叫んでいるのではないだろうか。





炉に消えていく父のあとを追って行きたかった。



父を行かせてはいけない。



こんな理不尽なことをしていいわけがない。



どうにかこのまま父をここに置いておけないのだろうか。



もう父を見ることは一生ないのだ。




身の引きちぎられるような悲しみというのはこういうことを言うのだろう。



悲鳴をあげながら泣くのは初めてだった。

父が亡くなったあとのホームの部屋
この部屋の整理は本当に苦しい作業だった



父の骨は驚くほど大きかった。



特に骨盤や足、そして膝蓋骨は本当にあのやせ細った父のものなのだろうか、と信じられないほど立派だ。



どうやってこんなに大きな骨があの小さな体に入っていたのだろうか。



姉と二人で感嘆しながら少しだけ明るい気持ちになった。



母の時と同じで、子供にちょっとしたサプライズを残してくれる親。



それは私たちにほんの少しの慰みを与えてくれる。




悲しかったのは、そのことを伝えて一緒に驚き笑い合いたかった人がもういないことだった。



それは勿論父なのだった。



2017年2月26日日曜日

6日前 日本に出発

介護が大変なのはやはり仕事との両立だろう。



育児があるとさらに大変だ。仕事、介護、育児ともっと追い詰められるだろうが、ほとんどの人には育児が終わったあと介護が始まると思う。



姉が大変だったのは、母が生きている頃は母の介護だけではなく、仕事も大事だということを父に理解させることだった。



父はいつも言っていた。



自分がいつまで介護できるかわからない、それに自分が病気になったら途端に母の世話ができなくなるのが怖い。



だから、姉に仕事を辞めて母の介護に専念してほしい、と。



姉が仕事をしながら病院に泊まり込んだり、父の精神 的ケアをするのは大変だった。



でも辞めなくて良かったと思う。


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6月14日。姉は出勤前に訪問した。



抗生物質が効いて熱が少しだけ下がり、父は熟睡していた。



抗生物質は一日一回で3日間の予定。



看護師さんから病院で受診するとしたら、どこの病院がいいですか、と聞かれる。



姉の答えは『苦しい、痛いなどの症状があれば考える必要があるが、まずは主治医の森先生に相談したい。』というもの。



父は体力がなくなってきているので、感染しやすくなっている。



夕方行くと、スタッフのSさんが食事を部屋で食べさせてくれているところだった。



栄養ゼリーだけは結構食べる。熱は37度。

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この日私はサンフランシスコ空港から飛んだ。



ここからは日本に着いたあとの6月16日の記事に戻る。



姉はこの3月31日で退職する。



本当に大変だったと思う。



長い間睡眠時間を削って介護をしながら、仕事をしてきた。



やっと早起きもしなくてよくなるのだ。



だから、私は姉の退職を祝うために日本に行くことにした。



3月は送別会とかもあるだろう。



帰りが遅くなるとアプのことが心配だろうから、3月後半はその世話役も買って出ることにした。

日本に行く前に血尿の原因を調べるために、超音波、
レントゲン、膀胱内視鏡検査としたが問題なし
写真を撮ったのは、実は足の毛が気になったからなんです


日本に行く前に友人とおいしいものを食べておく
これは中近東料理 Chicken Shish Wrap



2月末にサンフランシスコ空港から出発する。



なのに、今回は準備が全く進まない。



原因はわかっている。

毛玉とりがやめられない

2017年2月23日木曜日

7日前 選択肢

久しぶりに朝から晴れた。



近隣のフリーウェイはあちこち洪水で閉鎖されたり、停電が4時間続いたり、とここ数年の水不足とは打って変わった今年の大雨災害。


AT&T Parkを南から見たところ
左に見えるのは地下鉄工事

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6月13日。



姉は職場で父にどういう最後を迎えさせてあげるべきか、とリサーチしているらしい。



私は私で食べなくなった場合はどうしたらいいのか、胃瘻はさせたくない、最期はどういう形で来るのかと調べ続ける。



点滴はせず脱水で朦朧として意識がなくなったら、脳内麻薬のβエンドルフィンが出て心地よいまどろみの中で穏やかな死が迎えられるのだ、と知り二人で入院はさせないという結論を改めて確認し合った。



この日姉が夕方訪問し一日の様子を聞くと、父は発熱したということ。



口の中が赤くなっている。



痩せたせいで入れ歯が合わなくなったせいか、脱水のせいか。



抗生物質が処方されるが父は飲まない。



だからそれだけは点滴で入れたということ。

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ベストセラーになったこんな本もあるようだ。



カスタマーレビューを読むと色々な体験談があり、やはり父が枯れるように亡くなったことは改めて良かった、と思う。



母は脳出血のあと入院し、点滴で生命維持されていたので身体中がむくみ 痰の吸引が続いた。



吸引の時はとても苦しそうにしていたばかりか、最終的には吸引の失敗で窒息し3日後に亡くなった。



その時のことを思い出すと、母への申し訳なさで苦しくなる。



が、母はまだ80歳で身体には生命力が残っていた。



不本意ながらお医者さんには胃瘻を勧められていたろころだったし、少しずつ枯れていくような年齢ではなかった。



だから他に選択肢はなかったように思える。

朝からカフェに行きパンを5つ買ってきた
私にもグルテンフリーダイエットという選択肢はないだろう

2017年2月21日火曜日

8日前 『引き出し』結論

今年の北カリフォルニアの雨は『日本の梅雨x7=うんざり』という感じ。



そもそも私が初めて渡米した1979年4月はもう雨季が終わったあとだったのに、まあ毎日雨が降ること、降ること。



『カリフォルニアの青い空』というイメージはあっという間に崩れ去った。

猫たちもくっついて丸まっている


6月13日の早朝、眠れなかったのだろう、姉から5時台にメールが来る。



万が一のために、母のお葬式を頼んだ業者はここ、とリンクが貼ってあった。



でも、この時は姉も私も父が数日後に死んでしまうとは思わなかったし、猛暑の京都で父をどういう形で訪問するかとそればかりを考えていた。



夏に父を訪問するには体力を残しておかないといけない。

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6月12日、夕方行くと村田さんとSさんが勤務していた。



このSさんは20代の女性だが頼りになる。



父が朝も昼も食べなかったという報告。



夕食はちょっとだけ食べた。



痩せてきているが肌のツヤは良い。



水分は一旦飲み込むがほとんど吐き出す。



Sさんが、『うがいと間違えてはるんやろか。』と言う。



姉は父の性格の問題だと思う、詰まるのが怖いのだろうと答えた。



特筆すべきは、村田さんがご飯を食べようと布団をはがしズボンを直してくれた時、父はくねくねして「恥ずかしい」と言った。



部屋に戻った時村田さんが布団をかけてくれたら、今度は足を高くあげて布団を蹴ってみせる。



父は足を高く上げる事ができるのが自慢なのだ。



きれいな人にはいまだ反応するのか、と姉は感心する。

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父はおしゃべりな人だった。



父が認知症になるずっと前から私は毎週1度は父に電話して話していたものだが、30分ぐらいはあっという間に過ぎる。



父とはいくらでも話せるのだった。



父は引き出しの多い人だったのかもしれない。



でも、夫に引き出しが多いのもどうだろうか、と思い始めたのも事実。



イギリスのYさん『サプライズばかりの引き出し男は疲れそうで、私にはもう(対処する)エネルギーがない。』というご意見。ごもっとも。



シリコンバレーのSさん『女性と同じような引き出し数を持ち、繊細で頭も良い芸術家と付き合ったことがあるけど、それはそれでめんどくさかった。繊細過ぎてわがままで。』というご意見。ごもっとも。



シカゴのMさん『うちにも引き出し持ってないのが一人いるけど、私のする事にな〜んにも文句言わないのでなんとか結婚生活を維持できる。』ごもっともごもっとも。



結論。



男は気が利かなくてボーッとしているくらいが良い。

究極のメンドイ引き出し男