2017年2月13日月曜日

29日前 ホームのスタッフ

夕方6時半に父を訪問。



姉が父のホームを訪問するのはこの頃毎週日曜日のみ。



ホームのスタッフは父に優しく接してくれたが、中でも心の底から父のことを思ってくれていることがわかる二人がいた。



40代前半ぐらいの女性スタッフ村田さんと、25歳ぐらいの男性牧野君。



牧野君の方は父の棟のリーダーだ。



このどちらかが夜勤の日は家族も安心できた。

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5月22日。



この日は村田さんが午後の勤務だったのだろう、父は穏やかに食堂で座っていた。



他のスタッフも優しいし、父のように手のかかる人をよく世話してくれたものだ、と感謝でいっぱいだが、村田さんと牧野君は少し違う。



認知症患者に言い含めようとしない、楽しそうに話を合わせてくれて、大丈夫やで〜と父を不安にさせないコツを知っている。



村田さんの報告によると、この日の父の食事内容はご飯がゼリー状で、おかずは形の残っている柔らかい状態のもの。



夕食は口に入れても出してしまう。



精神状態は興奮気味で、口の中に異常があるか調べたが特に問題はなさそうだった。



栄養ゼリーを少し食べただけだったので、栄養が足りないとミキサー食を少し出したら、スムーズに食べて落ち着いてきたらしい。



姉がホームに着いたのがちょうどその頃だったわけだ。



姉が持参したバナナを3口、ソフトクリームを5口、水ようかんを2口食べたあとお茶を飲むことができた。



その後足を痒がるのでオリーブオイルを塗ったが、おさまらない。



その時村田さんが部屋に入ってきて、タオルで足を拭いてかゆみ止めの薬を塗ってくれる。



父は手を合わせて喜んでいた。



姉が顔を拭いてあげて、外耳に垢が詰まっていたので濡れタオルで拭いたが、耳鼻科検診が必要だと感じたようだ。



カレーなどのレトルトを預けていたが、固形物は口から出してしまうようになったので、介護食のもっと固形のない物をたくさん買ってホームに預けることを決める。


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姉のこの報告を読んで、夏に帰ったら父を耳鼻科に連れて行ってあげようと決める。



前回行ったのは2015年の夏だった。



認知症患者は自分の身体のどこかに不具合があっても、何がどう具合が悪いのか自分では認識できなくなってくる。



そして、それがストレスになって不安やストレスの原因になっていたのかもしれない。



これ⇩なんかも、ストレスがあるものの原因がはっきりしない図、かも。


かわいそうなアイドル

2017年2月12日日曜日

36日前 ゼリー食

5月15日、父の死の36日前。



この週から姉は父のところに日曜日のみの訪問にした。



姉のメールから、父の最後の36日間を最初は1週間おきだが記録しておこうと思う。

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午後6時半に姉が父を訪問する。



食事はまだ。



スタッフによると、寝ている時に起こしてすぐ食事というと混乱しやすいため、タイミングを見ているとのこと。



部屋に入ると起きていたので食堂へ。



椅子に座らせると冷たい食事がそのまま出てきたので、温めてくれと頼んだ。



その際、ゼリー状ご飯と茶色っぽい皿一つなのでこれだけかと尋ねると、スタッフが急に調べ始めてメインの料理がないことに気づく。



配膳忘れとのこと。



茶色っぽいものは大根の煮物。遅い時間なので調理室にもメインの料理は残っていない。



味噌汁の温めはなし。



預けているカレー(レトルト介護食)を温めてもらい食べさせたが、固形物が入っている、普段と違うと言いほとんど食べない。



栄養ゼリーだけ食べさせる。



部屋でソフトクリームを食べさせるとおいしいと喜ぶ。



その他の会話はほとんど成立しない。



ノートに書かせようとすると面倒がる。



家に年寄りはいるか、と父が聞く。



母は5年前に死んだと言うと残念がるが、姉が順番だと言うと笑う。

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何度か書いたがホームの食事はとてもまずかった。



それがゼリー状になっているのだから、食感も良くないし父の楽しみはもうなくなっていたと思う。



数年前からテレビも楽しまないようになっていた。



理解できなくなっていたのだろう。



その分一日中暇を持て余し、色々と心配ばかりしては不安になっていたようだ。



だから、とにかく娘にそばにいてほしい、という依存心が余計に強くなっていた。



父のことを考えると自分も老後子供に依存心を持たないようにしたい、とよく思う。



いまだに子離れできない私だが、父のようにだけはなりたくない。



子供たちが何歳になっても私は子離れできないのではなかろうか。



長男と次男が相次いでこの家を出た時は本当に寂しかった。



長男は部屋をいつも散らかしていて、ティーンエイジャーの頃から大学を卒業して我が家から通勤していた頃まで、ぐちゃぐちゃの部屋で暮らしていた。



家を出てからもずっと散らかったままだったので、ずっと存在感があったと言えばあった。



ところが去年の秋私が日本から帰ってきたらきれいに片付いていた。

それはそれで寂しいものなのね

2017年2月10日金曜日

雨のサンフランシスコ

今週はサンフランシスコの次男とマリーのマンションに滞在している。



大体サンノゼの家で2週間過ごし、サンフランシスコに火曜日辺りに来て金曜日にまた帰宅するというパターンが多い。



普段次男とマリーはレストランから夕食を宅配してもらうことが多いので、私が時々来て夕食を作る。

この大量の野菜はある日の夕食に全部使った
夫と私二人の家では決してここまでしない


サンフランシスコでは徒歩圏内で色々と遊べるので、運動不足を解消するべくてくてくと歩く。

今日は右端に見えるフェリービルを目指して雨の中をひたすら歩く

こんなに雨の多かった冬も記憶にないほど今年はよく降った

突風で傘を持っているのも大変なほどの今日のサンフランシスコ


こうして歩いている時は必ず日米を往復していた頃のことを思い出す。



どうして去年の5月にこちらに帰ってしまったのか。



私が帰国した数日後5月8日の姉からのメールには、不快な感情を訴え続ける父に腹が立つとあった。



父に憐れみよりも怒りを感じるということだ。




私のようにたまに日本に行くのであれば、姉だって父に怒りの感情は持たなかったかもしれない。



その頃の私は介護往復をしていても、100%の悲壮感はなかった。



カリフォルニアに帰れば友人とご飯を食べに行ったり家族で集まってパーティをしたり、と楽しい毎日だったのだ。



そんな時でも父のことは頭の片隅にあるし、いつ日本から突然父が危篤だという電話があるかもしれないと考えてはいた。



が、やはりこちらにいる時はリラックス感が違う。



姉は完全にリラックスできる時がもう何年もなかった。



ホームでもスタッフは父に一番手がかかっていたはずだ。



父の棟の入居者の中では父の認知症が一番軽かった。



なのに、不安をいつも抱える父は事あるごとにスタッフを呼びつけていた。

こういうカフェでぼーっと一人で座って完全にリラックスできる状態が姉にはなかった
いつ何時ホームや病院から電話がかかってくるかわからない状態が15年以上続いたのだ



この日の父は姉が何を話しかけても楽しそうにするわけでもなく、ひたすら不快感を訴え続ける。



貴重な週末の時間を、自分を長年苦しめてきた親のために潰さないといけないのか、とやりきれない気持ちになった姉。



姉からのメールの最後には、もうこれからはあまり(ホームに)行かないと思う、とあった。



このことは姉も父の死後何度も思い出しては苦しんだらしい。



姉には、それは当たり前の感情だから仕方ないし、そんな風に考えなくてもいいと思う、と言えるけど、自分には同じことが言えない。



なんでもう少し父のそばにいてあげられなかったのか。



一日も早くカリフォルニアの自分の家に帰りたくて仕方なかった。



なんて自分勝手だったことか。



責められるべきは私なのだ。

ラジオ体操を三日坊主でやめたことを責めている猫ズの顔

2017年2月7日火曜日

エクササイズ

還暦を前にちょっと血液検査でもしておこうと思ったら、まあ〜なんと成人病まっしぐらの結果。

総コレステロール値273
LDL159
HDL91
血糖値116
HbA1cは5.9%
という驚異的なメタボ結果。



そりゃそうだろう。



サンフランシスコで過ごす時間が増えて、歩いてトレーダージョーズやデパートに行けるようになったので、運動はしていると油断したのが間違い。



トレーダージョーズの帰り道にピーツに寄って、カプチーノを飲みながら甘いパンを食べるわ、デパートのカフェでハンバーガーは食べるわ。



運動量は歩数にしてみると多くて7千歩ぐらいのものなのに。

サンノゼにいる時の運動はせいぜい裏庭の草むしりぐらい


最近自分の老後のことをよく考えてしまう。



もう子育ても終わり息子たちは自立している、両親とも見送ったし、あとは先細りの人生。



そう思うと、明日死ぬと言われても抵抗があまりないような気がする。



義務感や達成感がなくなったせいで、こんな厭世的な気持ちになっているんだろうなとは思う。


が、とにかく子供に迷惑かけたくないから早いうちに死んでしまってもいいかな、これって下手するとうつ病とかにつながる?と思ったりするのも事実。



父が亡くなったのは92歳の時、母は80歳の時だった。



病院での人間の価値は年齢とともに反比例することもわかった。



父が最期の時間を病院ではなく、住み慣れたホームで私や姉に囲まれて過ごしたのは良かったと思う。



思うのだがそれはそれで後悔も多く、いまだに心の中で整理できない。



そのことを少しずつ書いていきたいと思う。



とりあえず、子供たちに迷惑をかけなくていいように健康でいたいことだし、今日からラジオ体操をすることにしましょう。



とエクササイズを始めたが・・・

そこまで驚くこと?

2017年2月3日金曜日

長女たち 3/3 父の愛

父との確執が姉の中では消化せずに、複雑な感情を作ったのは当たり前だろう。



父への恨みはあって当然なのに、姉は父を介護するようになってからは私にはとてもできないような介護をしていた。



父に対しても母に対しても、私のは自分勝手な介護だったのに、姉は父や母のことをちゃんと考えて介護していた。



やはりこれが長女の性なのだろうか。



だから親は長女にもっと頼り、長女は親の重さに苦しみながらも親に優しくありたい、という葛藤と戦いながら責任を果たそうとするのだろうか。




もちろんこの長女論に当てはまるのは全員ではないし、長女と次女、あるいは長男と次男がまるで反対の役割を持つ兄弟や姉妹も多いだろう。



ここで書いているのはあくまで次女である私と、第一子であり長女である姉が親の介護に関してどういう役割を果たしていたか、ということだ。



私自身は両親の介護をよくやったと思う部分と、なんていい加減な介護だったなろうと思う部分の両方がある。



私は父のことがかわいそうとは思いながらも、ホームの訪問は面倒だといつも感じていた。



自分が父にちゃんと会いに行った、という事実さえ作ればそれで良かったのかもしれない。



どうしてもっと父と長い時間を過ごして父に優しくしてあげられなかったのか、と今は毎日後悔する。



日本での3週間の介護滞在は段々と伸びて行き、4週間、5週間、時には2ヶ月になっていった。



高校生の子供がいなくなったからだ。



我が家には去年の夏まで、息子たちのどちらかが入れ替わり立ち替わり住んでいた。



が、高校生の送迎もなく二人が車を持った途端、母親の役割は飛躍的に減る。



だから、仕事をしていなかった私は介護で日本に長く滞在できるようになったのだ。



父が特別養護老人ホームに入居してからは、やっと手が離れたと思ったがそうではなかった。



毎日ホームの相談員さんから何度も電話がある。



父が後ろで『来てくださいよ。すぐ来てよ!』と怒鳴っている。



ホームでも持て余された父。



相談員さんからは『ホームでは対処できません、退所していただくかもしれません。』と言われる。



家族が毎日面会に行かないといけない状況は3年続いた。



その後私が日本にいる間は、週に3度から4度ぐらい行けば良いぐらい父は落ち着いてきた。



私が日本にいない時、姉は毎週水曜日と週末父を訪ねるようになった。

2016年の1月に父は友人たちに年賀状を数枚書いた
数々の思い出をありがとうございます、色々な思い出、あたたかい思い出、と
自分で3バージョンの文面を考えることもできたのだった



父が亡くなったのは6月20日。



5月2日に私がアメリカに帰ったあと、姉は週1の訪問に減らしていた。



気になりながらも、気候、自分の体調、仕事とアプの世話で忙しかったのも理由だった。



そしてこのことが父の死後姉をずっと苦しめることになる。



もっと行ってあげればよかった、かわいそうなことをした、と姉は後悔し続けた。



父には散々辛酸を舐めさせられた姉だが、やはり父への愛情があったのだ。



父は亡くなる数時間前ホームのスタッフに礼を言い、姉にはちょっとした冗談を言いながら、ありがとうと手を合わせた。



父は私のことはもうわからなくなっていたが、姉は近しい人とわかっていたようだ。



今あの時のことを思い出すと、父が姉のことだけを認識できたから、色々とありがとうと言っていていたのだな、と思う。



父が私をえこひいきしていたように見えた数十年分の愛と同じものが、姉へのその数秒間に凝縮されていたのかもしれない。



子供に対する親の愛情は上の子にだろうが下の子にだろうが、表現する形が違ってもその深さは同じなのだと思う。



私にとって長男と次男は同じようにかわいい。



30歳と27歳でも子供は子供。



出かけると彼らの猫のためのベッドをちょっと買ってプレゼントしたくなったりする。



そんな時も平等に同じものを買う。



違いと言えば・・・

可愛い色の方を幼い方(次男)にあげること

2017年2月2日木曜日

長女たち 2/3 逃避

ピーツに座っていると日本語が聞こえてきた。



40代ぐらいの二人の女性が話している。



『去年父が脳梗塞を起こして入院、そしてまた脳梗塞を起こし今度は右半身が麻痺してまた今入院中。』というような内容だ。



とにかく最近あちこちで介護という言葉が耳に入ってくる。




アメリカに住んでいると日本に住む親を助けてあげたくても、子育て中、あるいは仕事をしているなどの理由から帰れないことも多い。



私自身も子供がいるんだから、という大義名分を掲げて母が入院した時も、父と姉に任せていた。



38歳の時に薬害で下半身不随になり失明した母が、脳梗塞を起こして深刻な介護を必要とし始めてからも、私は自分の生活のことしか考えてなかった。



ケアマネに電話して介護計画を一緒に考える、個人的にヘルパーさんを頼んでその費用を払う、などなどアメリカからでもできることはいくらでもあったのに。



姉はアパートで一人暮らしをしていたが、父の要請で家に戻った。



これが間違いだった。



昨日の友人の話ではないが、おんぶお化けの父は姉に依存し自分の不安を全て押し付ける。



仕事から帰っても姉は休まる場所がない。



夜中は母の介護で眠れない日々が続く。



日中は基本的には父が介護をしていたが、姉が定期的に母の部屋に布団を敷いて夜の介護を代わっていた。



親子の間だろうとボーダーラインというものが存在し、それを超えてはいけないというルールが父にはわからない。



だから、姉のした何かが自分の意に沿わないと言葉で追い詰める。



それを目撃しても、私には『姉を傷つけている』という情報として頭の中に登録されていなかった。



親は何を言っても子供たちのことを愛しているのだから、まあちょっとやそっとの父の暴言は気にしなくてもいいではないか、と無意識に処理していたのだと思う。



それは無条件に愛されている子供が、知らない間に持つ安心感から来ていたものなのかもしれない。



だから、愛されていると感じていない姉の苦しさに、無頓着だったのかもしれない。



その意識のない傲慢さに姉はイラついただろう。



ある日姉が私に対して爆発した。



その頃私は日本に『遊びに』帰っていたのだ。



日本にいる親に孫を会わせてあげる、それで充分と思っていたのだから恥ずかしい。



爆発してくれてよかった。



私は自分の能天気ぶりに気がつかず、姉が父に時折冷たい態度で接しているのを見て、父をかわいそうだと思っていたのだから。



母も父から逃げるところがなかったが、姉もまた逃げ場のない生活だったのだ。



職場にいると電話がかかってくる。



会議が終わり自分の机に帰ってくると、着信履歴が13回と出ている。



父からだ。



母が熱を出した、38度もある。すぐ医者に電話してくれ、という。



すぐかけ直さないと父がわめく。



私には決してしないことを、父は姉にはするのだ。



長女が親を世話するのは当たり前、と父は自分の行動を正当化する。



それでも姉は父に従わないといけない。



なぜなら母が人質として父の支配下にいる、と感じるからだ。



だから、仕事中でも姉はすぐ対処せざるをえなかった。



母が入院した時も、父の言いつけ通り京都の南の端にある家から北の端の病院まで車で2往復して、父の要求を満たさないといけない。



それは父にとっては当たり前のことで、何もしなくてもかわいがる対象は次女の私だった。



姉の長女としての大変さを、そして父の理不尽さをやっと理解した私は、それから日米介護往復するようになった。



日本に帰れば介護は全面的に交代し、昼も夜も母の介護をした。



夜は何度も何度も母が起きるので、そのたびに階下に降りて世話をする。



時には階段を踏み外してしまうこともあったが、40代の私には大したことではなかった。



それは多分、ここでしっかり介護をしておけばアメリカに帰った時楽な生活が待っている、という逃げ道があったからだろう。



3週間ぐらい昼夜関係なく介護をしても大丈夫。



どんなに大変な介護でも、3週間たてば介護は終わる。



姉の場合終わりがなかった。



まとまった期間介護から完全に離れることができる状態は、介護の本質から離れてしまっていたのだろう。



介護のつらさは終わりが見えないことだ。



3週間の期限付き介護が終われば、私は好きな場所(ほとんどの場所は食べ物が関わっているが)に逃げて行ってしまい、介護とは関係のない世界でぬくぬくと過ごすことができるのだ。

逃避場所・丸の内と東京駅のお弁当

逃避場所・サンフランシスコで一人カフェ

逃避場所・Whole Foodsの餅アイスクリーム売り場



そう。誰にも邪魔されずに心からくつろげる場所がない限り、介護は続かない。



親の面倒を見ている兄弟姉妹がいたら、時々完全に逃避できる場所とまとまった時間を提供してあげるのが、親と離れて住む私たちの義務なのかもしれない。


逃避場所・・・

2017年2月1日水曜日

長女たち 1/3 重い親

日本から帰ってきた友人Sさんが言う。



『母の繰り言を毎日聞かされて苦しかった、母があまりにも重い』と。



年老いた母に優しくしてあげたいけど、愚痴を聞かされていると頭がおかしくなってしまいそう。



まるで甘ったれのおんぶお化けを常時背負っているような息苦しさ、ということだ。




これは多くの長女から聞く言葉だ。



『母が重い』




我が家の場合は父が重かった。



そんな父に介護される母は本当に辛いことも多かったと思う。



母が『窓を開けてほしい』と言っても、父は外から車の煤煙が入る、と開けさせない。



排便の折に肉の薄いお尻の下に入れた便器が痛くなっても、父は母に我慢させる。



排便がうまくいかなかったら病気になるかもしれないから、と母の横で延々と言い続ける。



足を自分で立てることもできない母が泣く。



呪文のように母を叱り続ける父から逃れられないと言って泣く。



普段明るい母でも、父の不安障害から来る自分勝手な束縛から逃げ場がないのは、本当に苦しかったと思う。



そんな母がかわいそうで、父に意見しようものなら、『親のことだと思って無責任だ。いい加減なことを言うな。いざという時責任を持てるんか。』と延々と責め立ててくる。



それでも、こういう父の『重さ』に気がついたのは、私が40代半ばを過ぎてからだった。

特に最後の4年間はすさまじい重さだった


姉は違った。



姉にとって父は小さい頃から重かったのだ。



長女(なおかつ第一子)として期待され、良い成績をとるのは当たり前で、いわゆる『良い友人』と遊ぶことだけが許された。



つまり、成績が良く姉にいい影響を与える友人だ。



姉は小さい頃から自分の部屋で、いつも辛い気持ちを紙に書き付けていたという。



方や私はといえば学校の帰りに川に行き、夜遅くなるまで家に帰らない。



友人たちと毎日洞窟探検に行き、とんぼを取りに行き、幼少時はひたすら遊んだ。



親は私に何も期待していなかった。



ただただ可愛がられた私は、姉の苦しみなんぞ全くわからないまま大人になった。



父は私を愛してくれる優しい人で、どんなわがままも聞いてくれる。



そして母を毎日介護するとてもいい人だった。

自分が末っ子としてえこひいきされている、
ということを知る由もなく


姉が時々父に冷たい態度を取るのを見るのはつらかった。



あんなに優しい父なのに、姉はどうして父に対して不満を持つのだ。



今から思えばなんという大きな勘違いをしていたことやら、と姉に申し訳なく思う。



姉も母と同じく逃げ場がなかったのだ。

ムカつくよね、やっぱ
下の子のこういう天衣無縫なところ