2013年8月16日金曜日

母の編み針

送り火の今日、母の事を少しだけ書きたい。



今まで母のことはブログに一度も書いていない。



書き始めるとつらくて、中断せざるをえなくなる。

母(左)と母の妹(右)

今でも見ると涙が止まらなくなるものがある。



38歳の時に薬害で視力を失い寝たっきりになったのに、母はいつもいつも笑っていた。



母のところに来る人は必ず『こんなに障害を持っているのに、本当に明るい人』と驚きを持って母のことを表現していた。



目が見えないのに編み物が好きだった。



いつも何かを編んでいた母は、編み物のことを考えるだけで、わくわくして毎日が楽しいと言っていた。



千鳥格子のカーディガンなどを編む母は、頭の中で製図をしていたからよく指を折って考えていた。

複雑な模様編みや編み込みもできた


『あたしは七赤金星だから、今までこんなにラッキーだったのよ。』とびっくりするようなことを母は言うのだ。



父は母と結婚した時、『箸より重いものは一生持たせません。』と言ったらしい。



『いみじくもそうなったわねえ。』と編み針を持って母は笑うのだった。




38歳から80歳まで、何一つ所有することさえできなかった母。



その母の唯一の持ち物は編み針だった。



全ての号数を揃えていて、父がいつも管理していた。



母が目を落とすと父が根気よく拾っていたものだ。




編み針は母の形見となった。



ある日その編み針を見て涙が止まらなかった。



何年も何年も手になじんだ編み針を使っていたのだろう、どれも先がすり減っていたのだ。



この編み針を持つと、母がすぐそばにいるように感じる。

この冬はこれで父の腹巻きを編んであげよう