検診のあとまた自分の部屋に行って歯磨き指導を受ける。父は早くわいわいに戻りたいので、シャツの前をビショビショにして歯磨きをしている。「まだ時間ある?もう終わった?」と気にしている父をすぐまた広場に連れて帰った。広場ではちょうどひらがな一字を見せては、その文字で始まる言葉を言いましょうという遊びが始まっていた。集まっているのは25人ぐらいだ。
先生が『ぬ』という文字のカードを掲げた途端、父が「ぬり絵!」と大きく声を出す。すると他の人たちから「ぬすっと」「ぬかみそ」という声が上がる。父はそこで「言いにくいけどぬすっと」と言う。次に何を言うか、と自分の世界に没頭して考えている父には、他の人の声が全く聞こえていないのだ。
次は『ほ』の札だ。また父が間髪入れず「奉仕、ほうき、保母、包丁」と4つ言う。すると他の人から「ほうれん草」や「干し柿」という言葉が出る。父は聞いていない。続けて「星、ほたる、ほうき、あ、さっき言ったか。星空、包丁」と言う。言葉はよく出るがやはりすぐ前のことを忘れてしまうのだ。
『お』という札では誰も言葉が出ない。先生が「『お』から始まる言葉はないですか〜。」と聞くが皆静かだ。そこで父が「おしめ」と言う。先生が「おしめ?」と確認すると、「はい、私が使っています。」と笑いを取ろうとした父は自分のズボンを指差す。『お』で始まる言葉はむずかしいのだろう。やっと他の人から「お土産」と言う言葉が出た時、父は「おお」と驚きの声をあげる。その直後父は流れるように「音楽、乙女、横領、音楽」と繰り返す。横領という言葉にスタッフの数人から笑いが起きる。どうして盗人と横領なのか。
最後は『も』だ。父がすぐ「桃、もず」と言う。他の人が「森」と言ったあとはしばらくシーンとするが、父がまた「モンキー、文句、モンキー、餅、森、毛布」と立て続けに言葉を並べる。他の人が「もしもし」と言った所で終わった。
こういう場面を見るたびに、自分が一番というところを見せたい父は集団生活に向かないなあ、とつくづく思う。先生にとってもこういう性格の人間はいやだろうなあ、と気持ちがわかる。謙虚という言葉は父の辞書にはないのだ。近くに座っている衣笠さんは温厚な笑顔を見せながら、手を挙げたり下げたりしている。うらやましくなる。ホームでもこういう人は問題を起こさないだろう。父のように自分が一番、と思っている傲慢な人間はバカにされた、と感じた途端にその人間を排除し始める。
中にはリーダー格の女性もいる。楽しそうに先生との受け答えを楽しんでいる。意地悪そうな女性もいる。この光景はどこかで見たことがある。
帰り道、御陵が手入れされていた |
しかし、この行事を見ていてちょっと心配になった。自分が80歳を超えてこういうホームに住んでいたら、と想像したからだ。他の入居者とうまくやっていけるだろうか。野菜の汁で染めたラグだの、籐の家具だのこだわるのは良くないのかもしれない。
野菜染めラグ |
ま、今から心配するのはやめよう。