2015年6月11日木曜日

母の歌

また暑い夏が来る。



2010年の8月、母は脳出血を起こし9月に80歳で亡くなった。



酷暑の中介護をする姉は、この夏誰かが死ぬ、と思った。



その時のことはここに書いている。




あれから5年近くがたち、母のことを思い出す時、胸が締め付けられるほどの悲しみは伴わなくなった。



母は38歳の時薬害で下半身の神経と視神経を侵され、下半身付随になった上失明した。



ベットの上で42年間暮らしたが、とにかく明るい人だった。



屈託がなくいつも笑っている母は父とよくしゃべっていた。



父は母をいつも観音さまのように心のきれいな人だ、と言うのだった。

小学生の私は母にそっくりといつも言われていた
この後、母は寝たきりになる

母の介護を手伝ってくれたヘルパーさんはどの人も、母があまりにも明るくていつも笑っていることに驚くのだった。



あそこまでの障害を持っていながらあんなに明るい人見たことありません、と多くの人から言われた。



70歳ぐらいの時起こした脳梗塞で、母の障害は一層ひどくなり、手が麻痺したために編み物ができなくなった。



唇と舌にもしびれが残って、しゃべることもできなくなった。



それでも口を動かして息でコミュニケーションを取っていた。



編み物ができていた頃の母は幸せだった。



いつも頭の中で編み目を数えながら模様編みをするのが楽しくて仕方ない、と目が輝いていた。



今日も片付けていたら小さなメモ帳が出てきた。



父のメモ帳だろうと思って、捨てる前に開いてみた。



それは母のものだった。



時々メモ帳に鉛筆で短歌を作って書き付けていたのだ。



そのことはすっかり忘れていた。

母は目も見えないのによく鉛筆を握っていた


その頃の私は母の短歌を読むこともなかった。



父が母の短歌を見ては、大げさにほめていたのを思い出した。



そうだった。



母は目が見えないのに鉛筆を握り、何冊ものメモ帳に短歌を書いていたのだ。



ページをめくるにつれて母がすぐそばに感じられ、涙が止まらなくなった。



最初のページはこれだった。



水がめざ
異国のあこの
こんしゅうは
何とはなしに
心やすまる



私は水瓶座産まれなのだが、この歌は私の誕生日の週に詠んだのだろう。



おりょおりの
ほおそおをきき
しどおする
わがロボットの
つまにやさしく



母はいつもラジオのお料理番組が好きで、その頃毎日食事を作っていた父に、レシピを指導していたことを詠んだのだろう。



父は母の言うがままに作る、と母はいつも笑っていた。



父をロボットに例えた歌だ。



テープでの
どくしょは耳で
あみものは
手でする我は
しあわせものと



勿論これは母が編み物ができる幸せを歌ったものだ。



人はみな
外見よりも心こそ
八十くじゅうに
まさる若さを



世の中に
生れでしこのしあわせを
父母にかんしゃを
日びに思うて



カミサマに
母にささがんこの心
あむてをそして
そのあむわざを



母の最期の10年間は編み物ができなかったことが、今更ながら残念に思える。



よこはまの
市電横ぎり
うおかいに
母とゆきしと
今なつかしく



母は祖母ととても仲が良かった。



横浜出身の母は、祖母と暮らした街を懐かしく思うことが多かったのだと思う。



うめばらの
地ちゅうにうめし
皿たちは
戦後のつきひ
たてるお知るや


うめばらで
茄子のしおづけ
たるにつけ
父はうまいと
戦中もくう



戦争中母は秦野に疎開していた。



お皿をなぜ地中に埋めたのか、その辺のことを聞けばよかった。




なんらかの
なぐさめになれ
母のため
誰にもまさる
はなやかなりしお



これは娘がきれいに育ってほしい、という母の希望を詠んだ歌なのではないかと思う。



母に意味を聞いてみたかった。



この手帳の歌はこれで全てだが、なんで母が生きていた頃に、母の作った歌についていろいろと会話してあげなかったのか、と悔やまれる。



他にも何冊か母のメモ帳があるはずなのに、どうしても見つからない。



どのメモ帳も一応目を通して捨てたので、母のは捨ててないはずだ。



母の書いたものは宝物だ。



父の物は・・・

全てゴミ