2015年6月25日木曜日

二つのニュース

レールパスを使って東京に行ってきた。



友人に会って楽しい時間を過ごして、やっぱり友だちっていいなあと思いながら京都に帰ってきたら2つの悪いニュースがあった。


小田原城

小田原城のあじさいがとてもきれいだった

これは自由が丘にあった神社
こじんまりとした感じが良い



まずは父のホームの園長さんが、今月いっぱいで辞めるというニュース。



この園長さんのおかげで、父は去年死の淵から復活したのだ。



父のことを理解して、適切な指示をスタッフに与えてくれる人だ。



この園長さんに対しては、私も姉も絶大なる信頼感を抱いている。



父の最近頻繁に起きている夜の混乱に関しては、リハビリ療法士の先生に毎日夕方父の様子を見にいくように指示を出した、と園長さんが今日おっしゃる。



感心した。



それこそが父に必要なことなのだ。



このリハビリ療法士さんは明るい性格で、父とよくおしゃべりしてくれる。


左耳用の補聴器を無理に右耳に入れる父



父を一日中放置しておくのではなく、時々声かけをする。



これは家族とホームのスタッフ、ケアマネ、相談員と幾度となく話し合い決めたことだ。



それなのに、数ヶ月たつとその話し合いはまるでなかったかのように、同じことが繰り返される。



父が不安になり混乱する。



家族がどうにかしろ、ということになる。




それはスタッフに学習能力がないことから起こる間違いです、と園長さんがおっしゃる。



うちのスタッフは優しいんですが、なかなか皆自分で考えるということができないんです、ということだ。



でも、スタッフは忙しいし父に対処する時間はないですよね、と私が言うと園長さんがきっぱりと否定する。



父が夕方混乱して騒ぐのは、一日中ベットで寝るだけの毎日で、誰からもほとんど声もかからないせいだ。



日中はリビングルームに行く、一日に何度かストレッチをスタッフとする、こういうことが必要なのだ。◯◯さん(父のこと)が混乱してしまってから必死で対処するのではなく、スタッフが声かけをすることで〇〇さんの一日にめりはりをつける。つまり予防策を講じることが、一番いいんです。



とおっしゃる。



園長さんは、父のことをよく理解してくださっているのだ。




とにかく次の園長さん次第では、父は今のホームにいられなくなる可能性もでてきたわけだ。



また青梅の慶友病院のことを姉と話し合った。



今のホームにいられなくなったら、次は青梅しかないような気がするが、お金がいつまで続くかと考えるとそれもむずかしい。



そして何よりも大事なのは、家族がすぐそばに住まないといけないということ。



そしてそれができるのは私しかいない。



もう一つの悪いニュースは夫からのメッセージで、長男の転職がうまくいかなかったということ。



最後の面接は5月28日だった。



面接の感触があまりによかった長男は『もう決まったも同然』と思っていたはずだ。



とにかく今の職場で不幸な長男が一刻も早く転職して、ハッピーになってほしい。




夫によると長男は2人の最終候補の一人だったらしいが、結局仕事はもう1人の候補者に決まった。



長男がさぞ落胆しているだろうと思うと、本当に残念だ。



面接から1ヶ月近くがたっているので、もうだめなのではないかとこのところ案じていたのだった。



次男にテキストメッセージを送る。



長男は失望した感じ?どんな様子?と聞いてみた。



次男のメッセージは、こうだ。

次男からはいつもすぐ返信がある



つまり、2人の最終候補者として残ったということはとても良いこと。



もう1人の方が部署のカルチャーに合っている、と会社が感じたのだろう。



でも、そこまで残ったということは、会社にとって良い人材という意味なのだから、同じ会社の他の仕事にもトライするべきだ、という返事。



最終候補に残ったのはすごいね、次の面接ではうまく行くんじゃない?というような下の写真にあるメッセージを長男に送ったが、返事は来ない。



なしのつぶてはいつものことだ。



だからと言って子供に対して負の感情は決してわいてこないが、なんというかスッキリとはしない。



しいて言えばこういう気持ちでございます。

上のような慰めるメッセージを送りつつも、
心の中では『オミャア〜はもう〜〜〜😤』

2015年6月22日月曜日

アプの変化

3月のアプは興奮して飛び回る、噛む、夜になると無駄吠えする、という状態だった。一歳半なのに一体これからどうなるのか、と心配したものだ。トレーナーは隔週家に来て2時間特訓してくれるのに、アプだけは訓練しても無駄?と思っていた。

なのに、来月2歳を前にこの変わりようはどうだ。




同じ部屋にいるとこうして穏やかに寝ている時間が増えて来た。







昼間一緒にいても以前のように『遊んで!遊んで!遊んでくれえええええ〜〜』というのがなくなってきた。ソファで一緒にくつろぐことができるようになったのだ。 これが成長したということ?



しかしアプのことを一言で表す場合の言葉は、仔犬の時から変わらない。

横着者

2015年6月19日金曜日

数々の選択

言い古されていることだが、人生は日々選択の繰り返しだ。



選択肢があるから迷う。



あっちの方を選択していたら・・・と思い続ける。



朝京都駅で用事があった。



家からJR駅まで歩く時でさえ、賑やかな道を通ろうかな、裏道を通ろうかなと迷う。



今日は最初の角を曲がるか、それとも2つ目を曲がろうか。

今日は裏道を選択

こけこっこでチキンの炭火焼を食べようか、アンデルセンのサンドイッチにするか。

アンデルセンのクラブハウスサンドイッチを選択


本屋さんに寄って一本次の電車に乗るか、それとも早めに父のところに行って早く帰るか。



電車を降りたところで、ミスドのコーヒーにするか、マクドナルドのアイスティーにするか。



1日になんども決断しないといけない。



選択肢があることはいいことなのだろう。



迷えるのは贅沢なことなのだ。

マックのアイスティーを選択した


父は落ち着いていた。



夜は興奮することもあるようだが、昼間は比較的穏やかなのでこちらも話していて体力を消耗しない。



だから、昼間行くことを選んでしまう。



夜行ってあげる方がスタッフも助かるだろうに、自分の体力を消耗することが怖い。



消耗し続けて病気になりそうだからだ。



今日の父は話がちゃんと通じる。



自分の生年月日、兄弟姉妹の名前、親のこと、小さい時ゴム草履を買ってもらえるのはお金持ちの子だけだったという話もする。



1時間ほど話したあと喉が乾いたからもう話はしない、と父は言う。



それなら、と自販機の飲み物を買ってきてあげることにした。



ここでも迷う。



ヤクルトにするか。



ポカリスウェットにするか。



やはり父が家にいた時いつも好んで飲んでいたヤクルトにしてあげよう。



おいしいおいしいと飲んだあと、父が歌う。

父が昔から好きだったヤクルトを選択

赤いそ〜て〜つ〜ううの〜、実も熟れ〜るう頃〜とご機嫌だ。



最後にタンタカタンのタンタン、も入る。



こうして父は少しずつ朽ちて行くのだろう。



家族以外にほとんど話す人もいず、妻にも先立たれ、もうすぐ記憶は消えてしまい、父は父でなくなってしまうのだ。



悲しいことだが、人は生まれてきて年をとり、そして死んでいくのだ。



父を見ていると、人間がどんな風に人生の終盤に向かっていくのかはっきりと感じられる。



1時50分の電車に乗るので、そろそろ帰るよ、と声をかけた私に父が言う。



「充分時間に余裕を持って行きなさいよ。焦ると転ぶよ。時間は充分ある?」と。



こういうことを言われると以前はイライラしたものだが、今は聞き流せる。



これが父なのだ。



しかし、最後に付け加えた父の言葉。



それは『なんぼトシでも気をつけなさいよ。』だった。



父のこの言葉・・・

他に選択肢はなかったんかい!!

2015年6月17日水曜日

ジェラート

ジャッキアップ工事で家の後ろ半分は持ち上がった。



しかしその影響で家のあちこちにヒビが入った。



和室の壁なんぞ、隅がボロボロ落ちて冬は隙間風が入って寒い。




昨日と今日は左官屋さんが入って、壁を塗り直してくれた。



和室だけにするつもりが、結局玄関と廊下も頼むことになった。



玄関の壁も傷が入っていたので仕方ない。

124、740円。出費は痛いがアメリカに比べると
ありえないほどの安さ



珪藻土は以前のと同じ色にする。



襖は少し暗めの色を注文したが、修理をするとやこの家も悪くないなあと思うようになり、二束三文で売るのは惜しくなってしまう。


乾くと少し薄い色になるらしい

襖も全部張り替え


果たしてこの家を売ってマンションに住むべきなのか。



それとも駅から遠いのが不便だけど、修理して少し住みやすくなった家を維持するか。



姉はマンションに住みたいらしいが、緑に囲まれた生活もいいのではないだろうか。

玄関も塗り直してもらった
壁にさわるな、とメモを置いておかないと
ついついまだ乾いてない壁に触ってしまう



職人さんに出す3時のお茶と和菓子を買いに近所のモールに行ったら、無性にアイスクリームが食べたくなった。


330円の幸せ


このところ甘いものを徐々に減らしていたのに、ジェラートの誘惑に負けてしまう。



おいしかったが、アイスクリームを食べてしまったなんて〜、と後悔しながら帰宅した。



やっと体重が減り始めたのに、何故?何故なんだ〜〜?

これだったのね

2015年6月16日火曜日

言葉が理解できない

毎日ひたすら父のゴミを片付けている。



古いタンスは大型ゴミに出し、冬物以外のタンスの中身はホームの父の部屋にほとんど移動した。

また出した大型ゴミ

庭にあった重い五重塔もゴミ


もう父は、自宅に帰って数時間過ごすということも全くできなくなっている。



一人でいると不安で仕方ない父は、ホームにいるのが一番安心と言っている。



それでも以前は時々「一晩家に帰ってみたい」という気持ちがあった。



だが、それももうない。



今や父は、自分の家がどこにあるかさえもわからないのだ。

清浄綿を目に当てる父
このあと頭にあるメガネのことは完全に忘れていた


最近の父は夜混乱することが多く、不穏になることが2度ほどあったらしい。



土曜日の夜もそうだった。



夕食後姉とホームに行くと、父の大声が聞こえてきた。



この時間帯はスタッフの数も少なく、入居者の寝る準備で一番忙しい時だ。



姉と私の姿を見て、スタッフがホッとした表情になる。



父は補聴器をどちらの耳に入れればいいのかわからないのだ。



父を助けようとするスタッフのことを、自分の補聴器を取り上げてしまう怖い人々、と勘違いして騒いでいる。



お茶を飲ませて一緒に歌を歌っておやつを食べさせるうちに、父はやっと落ち着き始めた。

まるで泥酔しているような父
混乱して大声を出し続ける



子供の時中耳炎になり難聴が始まった。



補聴器を使い始めたのがいつからなのかは知らないが、毎朝起きた時補聴器を夜用から昼用に替える父の儀式は何十年も続いた。



『あ〜、あ〜、本日は晴天なり。本日は晴天なり。』と昼用の補聴器に交換したあと、自分の耳の聞こえ具合を確かめる声がする。



それを聞いた母が『雨でも台風でも本日は晴天なりね。』と笑うのだ。



聞こえが悪いと、父は専用のエアーブラシで耳栓部分をシュッと吹く。

難聴は認知症の原因になる


朝起きると毎日するこの作業を、父が忘れる日が来るとは夢にも思わなかった。



だが、その日は来たのだ。



認知症はこのところかなり進行しているようだ。



ここ数ヶ月で、いろいろなことがわからなくなっている。

先週は父が混乱して補聴器のチューブを抜いてしまったので、
金曜日に補聴器センターに持って行って修理してもらった



今日父に和室の壁塗りが始まったという話をしても、全く理解できなかった。


わ・し・つと区切って言っても理解できない。



『壁』という言葉が理解できない。



自分の家が京都にあることさえ思い出せない。


父の部屋はいつも真っ暗にしてある
父は明るい部屋を好まない


30分ぐらい話しているうちに、少し理解力が戻ってきたようだが、時々混乱する。



業者という言葉がわからない。



修理する人、と言っても『修理』という言葉がスッと入らない。



それを説明したり言葉を変えたり、延々と繰り返しが続く。



湿度が高い京都の夏はそれだけでも消耗するのに、父のところで大声で同じことを何度も何度も繰り返すのはもっと消耗する。



小さな低い声で言うと聞き取れていた父も、今は全く聞き取れないのか理解できないようだ。



業者を家に残したまま来たので、もう帰らないといけないという私に、「そうかそうか、気をつけて帰りなさい。」と父は言う。



急いでバックを持って「また来るから。」と部屋を出ようとする私に、父は「もう帰るんか、と言う。



どうしてそんなに早く帰るんかなあ。」と泣き顔になる。



業者が・・・という話をすると、そうかそうか、と父は言う。



1分後にまた同じ会話を繰り返す。



果てしない繰り返しが続き、なかなか帰ることができない。

父が母を介護していた和室
今日は下塗りが終わった



ついこの前まで、デイサービスで友人たちとカラオケを歌って楽しんでいた父は、今や娘二人以外に会話をする人もいない。



そんな父をかわいそうに思う。



もっと父と会話してあげれば、認知症の進行を少しでもくい止めることができるかもしれないのに、と罪の意識にさいなまれる。



しかし、そんな気持ちはこれで吹っ飛ぶ。

10秒おきに口から出し『これは何かのぅ?』と言いながら
私の目の前に差し出される入れ歯

2015年6月13日土曜日

このところサードウェーブのコーヒーが流行っているそうだ。



豆や淹れ方にこだわりを持ったコーヒーのことで、ブルーボトルコーヒーなどのことを言うらしい。



ちなみにファーストウェーブは、コーヒーが大量生産され始めた19世紀後半、セカンドウェーブは、スターバックスなどのシアトルのコーヒーが出た1970年前後の時代のことらしい。




サードウェーブの代表的なコーヒー、サンフランシスコのブルーボトルは一度飲んだことがある。



が、そこまで大騒ぎするほどのもの?というのが正直な感想だった。



だから、コーヒーってそんなにおいしいもんか?とつぶやいた私に姉が言った。



「そやけど、あんた、makiのコーヒーはめちゃくちゃおいしい、言うてたやん。」と。

出町柳の古い街並みにあるmaki


そうか!コーヒーmaki。



去年初めて飲んで、もう〜、信じられないほどおいしいと思ったのだった。



思い出した途端飲みたくてたまらない。



翌朝車出勤する姉に出町柳で降ろしてもらった。


出町柳の橋から二つに別れた鴨川を見る


8時半開店のこのお店に着いたのは、8時35分。



なのにもう10人ほどの人がいた。

分煙だが煙はちょっとつらい
日曜日だけは全面禁煙


それでも初めて鴨川が見える窓際の席が空いていた。


鴨川を見ながら飲むコーヒーは
おいしかった〜〜


父が死んだら京都にはもう戻って来たくないと思っていた。



いや、このコーヒーを飲むためにいずれまた京都に来ることがあるかもしれない。



京都のどんな食べ物よりも、このために京都に帰ってきたい。



それほどおいしい。と思う。

以前にもこの写真を載せたけど、
モーニングセットは激安の650円



出町柳からだと京阪電鉄の出町柳駅や、烏丸今出川にある地下鉄の駅が近い。



が、運動のために歩いて地下鉄三条京阪駅まで行くことにした。



鴨川沿いを歩く。


豆餅で有名なふたばも朝9時は行列なし

出町柳の橋から鴨川の土手に降りる

いつもこの鳥 がここにいる

ジョギングをしている人も多い

橋の下にはちょっとしたアート
丸太に座って見られるようになっている

川床が始まっている

三条大橋横にあるスタバ川床

三条大橋から南方面(四条)を見る



出町柳から鴨川沿いを歩くのはなかなかいい運動だし、川というのは心が休まるなあ、と思う。



この飛び石に、小さな息子たちを連れて来たことを思い出す。



日本に連れて来ると一緒に遊ぶ子がいない、と退屈する息子たち。



彼らを楽しませるのは毎夏大変だった。



明日は何をして1日を過ごそうか、と考えるのがどんなにストレスだったか。



息子たちはもう、自分の子供を持つような年齢になってしまった。



川の流れを聞いているとしんみりとした気持ちになる。



それにしてもここまで鴨川鴨川と何度も書いたが、実際は鴨川?賀茂川?加茂川?



これは京都に住んでいてもはっきりとは知らないんです、という人が多いのではないだろうか。



個人的には加茂川という字が好みだが、と見回してみると・・・



あった!川の名前が出た看板がすぐ横にあるではないか!

わからんがな・・・

2015年6月11日木曜日

母の歌

また暑い夏が来る。



2010年の8月、母は脳出血を起こし9月に80歳で亡くなった。



酷暑の中介護をする姉は、この夏誰かが死ぬ、と思った。



その時のことはここに書いている。




あれから5年近くがたち、母のことを思い出す時、胸が締め付けられるほどの悲しみは伴わなくなった。



母は38歳の時薬害で下半身の神経と視神経を侵され、下半身付随になった上失明した。



ベットの上で42年間暮らしたが、とにかく明るい人だった。



屈託がなくいつも笑っている母は父とよくしゃべっていた。



父は母をいつも観音さまのように心のきれいな人だ、と言うのだった。

小学生の私は母にそっくりといつも言われていた
この後、母は寝たきりになる

母の介護を手伝ってくれたヘルパーさんはどの人も、母があまりにも明るくていつも笑っていることに驚くのだった。



あそこまでの障害を持っていながらあんなに明るい人見たことありません、と多くの人から言われた。



70歳ぐらいの時起こした脳梗塞で、母の障害は一層ひどくなり、手が麻痺したために編み物ができなくなった。



唇と舌にもしびれが残って、しゃべることもできなくなった。



それでも口を動かして息でコミュニケーションを取っていた。



編み物ができていた頃の母は幸せだった。



いつも頭の中で編み目を数えながら模様編みをするのが楽しくて仕方ない、と目が輝いていた。



今日も片付けていたら小さなメモ帳が出てきた。



父のメモ帳だろうと思って、捨てる前に開いてみた。



それは母のものだった。



時々メモ帳に鉛筆で短歌を作って書き付けていたのだ。



そのことはすっかり忘れていた。

母は目も見えないのによく鉛筆を握っていた


その頃の私は母の短歌を読むこともなかった。



父が母の短歌を見ては、大げさにほめていたのを思い出した。



そうだった。



母は目が見えないのに鉛筆を握り、何冊ものメモ帳に短歌を書いていたのだ。



ページをめくるにつれて母がすぐそばに感じられ、涙が止まらなくなった。



最初のページはこれだった。



水がめざ
異国のあこの
こんしゅうは
何とはなしに
心やすまる



私は水瓶座産まれなのだが、この歌は私の誕生日の週に詠んだのだろう。



おりょおりの
ほおそおをきき
しどおする
わがロボットの
つまにやさしく



母はいつもラジオのお料理番組が好きで、その頃毎日食事を作っていた父に、レシピを指導していたことを詠んだのだろう。



父は母の言うがままに作る、と母はいつも笑っていた。



父をロボットに例えた歌だ。



テープでの
どくしょは耳で
あみものは
手でする我は
しあわせものと



勿論これは母が編み物ができる幸せを歌ったものだ。



人はみな
外見よりも心こそ
八十くじゅうに
まさる若さを



世の中に
生れでしこのしあわせを
父母にかんしゃを
日びに思うて



カミサマに
母にささがんこの心
あむてをそして
そのあむわざを



母の最期の10年間は編み物ができなかったことが、今更ながら残念に思える。



よこはまの
市電横ぎり
うおかいに
母とゆきしと
今なつかしく



母は祖母ととても仲が良かった。



横浜出身の母は、祖母と暮らした街を懐かしく思うことが多かったのだと思う。



うめばらの
地ちゅうにうめし
皿たちは
戦後のつきひ
たてるお知るや


うめばらで
茄子のしおづけ
たるにつけ
父はうまいと
戦中もくう



戦争中母は秦野に疎開していた。



お皿をなぜ地中に埋めたのか、その辺のことを聞けばよかった。




なんらかの
なぐさめになれ
母のため
誰にもまさる
はなやかなりしお



これは娘がきれいに育ってほしい、という母の希望を詠んだ歌なのではないかと思う。



母に意味を聞いてみたかった。



この手帳の歌はこれで全てだが、なんで母が生きていた頃に、母の作った歌についていろいろと会話してあげなかったのか、と悔やまれる。



他にも何冊か母のメモ帳があるはずなのに、どうしても見つからない。



どのメモ帳も一応目を通して捨てたので、母のは捨ててないはずだ。



母の書いたものは宝物だ。



父の物は・・・

全てゴミ