今まで母のことはブログに一度も書いていない。書き始めるとつらくて、続けることができないからだ。
母(左)と母の妹(右) |
今でも見ると涙が止まらなくなるものがある。
38歳の時に薬害で視力を失い寝たっきりになったのに、母はいつもいつも笑っていた。母のところに来る人は必ず『こんなに障害を持っているのに、本当に明るい人』と驚きを持って母のことを表現していた。
目が見えないのに編み物が好きだった。いつも何かを編んでいた母は、編み物のことを考えるだけで、わくわくして毎日が楽しいと言っていた。千鳥格子のカーディガンなどを編む母は、頭の中で製図をしていたからよく指を折って考えていた。
複雑な模様編みや編み込みもできた |
『あたしは七赤金星だから、今までこんなにラッキーだったのよ。』とびっくりするようなことを母は言うのだ。父は母と結婚した時、『箸より重いものは一生持たせません。』と言ったらしい。『いみじくもそうなったわねえ。』と編み針を持って母は笑うのだった。
38歳から80歳まで、何も所有しなかった母。その母の唯一の持ち物は編み針だった。全ての号数を揃えていて、父がいつも管理していた。母が目を落とすと父が根気よく拾っていたものだ。
この編み針を持つと、母をすぐそばに感じる。
この冬はこれで父の腹巻きを編んであげようと思う。