2013年8月31日土曜日

父は天才である

最後に怒髪天級の怒りを感じたのはいつだろう、と考えた。そうそう、あの時だ。

ピーツで買ったばかりのお気に入りのマグカップに、姑がはずした入れ歯を入れているのを発見した時だった。毎回我が家に滞在すると、キッチンのマグカップを勝手に持って行って入れ歯を入れる姑。何度頼んでも姑は自分がしたいようにする。だからマグカップを使う。毎回それは姑がコロラドに帰ったあと捨てるしかない。

だから、その時は使い捨てのプラスチックカップを渡しておいた。なのに、だ。


たったそれだけのことで怒る私は優しくない?

かもしれないかが、しかしその時は全身の血が逆流し髪が逆立った。それまで姑に何を言われても我慢していたのに、こんなに爆発したのはこの時が初めてだった。マグカップをつかんで姑の目の前に差し出して、「どうしてこんなことをするんですか!」と怒り狂った。買ったばかりの7つのマグカップセット、この1つはもう捨てるしかない。

姑は少し動揺した様子ではあったが、「だって使い捨てのカップは透明だから、入れ歯が外から見えるもん。」と言う。その『どこが悪いの?』という態度にもっと頭に来て、一生忘れられない怒りの瞬間として記憶に刻まれてしまったのだ。

以前読んだ本に、自分の怒りを表現すると威嚇になる、威嚇された方は取りあえず謝るが、『この人の怒りは正しいんだ』とは決して思わないのだそうだ。威嚇されているからそこまで頭が廻らない。怒りを爆発させるべき時に、寛容を身にまとったふりをしてさらりとかわす技術を持つ人は、必ず勝つそうだ。

とにかく、姑は傍若無人ではあるが、私はそんな姑が何を言おうとさらりとかわす技術を培ってきたと思う。私の悪口を陰で息子たちに言うし、私のすること全てに口出しをする姑。私のお箸で食後歯をせせりながら、『私は世が世ならお姫様だったのよ、皇族に近い家系の出身だからね』と姑は言いたい放題だ(一世二世にこれと同じことを言う人はとても多い)。私は長年のうちにそれも笑ってやり過ごすことができるようになっていた。が、この時は血圧が上がるほど頭に来た。怒髪天級の怒りはしばらくなかった。

この真性怒髪天マグカップ事件ほどの怒り、私の人生でここまでの怒りは他にあっただろうか、と考える。

プチ怒髪天事件は毎日のようにある。日本にいる時だ。そしてそれは父に対してだ。

父は娘を怒らせる天才だ。

ホームの朝食
短時間の間に父の用事をすませておかないといけない。だから必死で父のために格闘しているのに、イライラした声で『もう〜〜、早くやってよぉ。』と言われると目の前が真っ暗になるほど腹が立つ。あまりの怒りに鼻の奥がツーンとする。

アメリカにいる時に父の世話の大変さを思い出すと不安になる。次回日本に行って数週間の滞在中に自分が病気になるのではないか、という不安だ。肉体的なストレスと精神的なストレス。いつホームから呼び出されるかわからない。相談員から電話がかかる。父が暑いと言っている。『余りに暑いので不安だ。娘を呼んでほしい』と父が訴えている。

去年の夏祭り

一人でいるのは不安だからホームに入りたい、と自分から希望して入所したホーム。しかし、そのホームに預けていても私と姉に心の平安はない。父がいつ『娘に電話してください』とスタッフに頼むかわからない。父を持て余しているスタッフは、私や姉に「すぐ来てください」と電話をかけてくる。

「父は厚着をしていませんか。薄着にさせて腰ベルトをはずしてみてください。夜の薬でおさまるはずだ、と伝えてください。」と相談員/スタッフに言う。それでやっと父の不安はおさまるのだが、こういう電話が相談員から四六時中かかってくる。たまの外食をしていると電話がかかってくる。

いつ携帯電話が鳴るか、と思うと胃が痛くなる。全身の倦怠感が襲って来る。繰り返すがいっときも心の平安はない。姉はこれを24時間365日耐えている。特に今は40度近い猛暑の中で、『自分が先か、父が先か』と思っていることだろう。父に長生きしてほしい、とは簡単に言えない。

なのに今日はホームの夏祭りだと姉から聞くと、父は来年夏祭りに参加できないどころか、もしかしたらこれが最後の夏祭りなのではないだろうか、と思い涙が出る。

今日の夏祭り
俯いているのが父
去年いた老人保健施設では、父はリーダーになって夏祭りを盛り上げた。誰も踊らない所に率先して出て行って踊る。そのあと数人が父にならって踊り始めた。去年はあんなに足腰もしっかりしていたのに、今は週末姉がお店に連れて行っても、車椅子に載せて移動するそうだ。あっという間に弱って来た父を思うと悲しい。


手にはうちわ
膝にアイスノン
老炭坑節を歌う父

父は私の心をかき乱す天才なのだ。

2013年8月27日火曜日

青梅線河辺駅

毎朝必ずチェックするのが、京都の気温だ。今年はまるで赤道直下の国のように猛暑が続いた。こちらでは、7月15日に帰って以来、殆ど暑い日がなく夏が終わろうとしている。サンノゼの8月の最高気温は24度ぐらいで、京都の10月中旬頃の温度だ。『ゴメン、姉』と思いながらも日本の暑さをどうしても忘れてしまう。不思議なもので、こういう感覚はすぐ記憶から抹消されてしまうようだ。

この写真は今年の8月8日から1週間の、サンノゼと京都市の最高気温と最低気温のチャートだ。今調べてみるとその1週間の京都の最高気温は、連日38度か低い日で37度。一度は39度を記録している。



この暑さの中で、父の施設から呼び出されては駆けつける姉のストレスは大変なものだ。母の介護をしている時、よくストレスをためないようにしなさい、と人から言われた。親のことも大切だけど、自分の身体をまず一番に考えて、できないことはできないと割り切りなさいと言われたものだ。

しかしそれはむずかしい。真夏にどんなに暑くても、父のことで施設から呼び出しがあれば駆けつけなければならない。夜中に電話があるかもしれない、と落ち着かない思いで寝る。朝起きても疲れている。それでも父が夏の上履きがほしい、と言えばお店に連れて行かないといけない。父に付き合って走り回ると『自分の方が先に死ぬんじゃないか。』といつも思う。5月の気候の中でもそう思う。38度になる夏の京都で、その思いは切実だろう。

再来週の日本行きの準備を始めた。まずは根津で漢方薬局に行く予約をした。漢方やマッサージなどいつもならお金を惜しんで我慢することも、今回は我慢しないことに決めた。父の世話の日々を、少しでもストレスを軽減しながら乗り切るためだ。

この3日間ほど青梅慶友病院のことを何度も考えた。父がいずれ今のホームにいられなくなりこの病院に入るとしたら、個室しかダメだろうから毎月62万円。我が家のキッチンのリフォームは多分全部で6万㌦ぐらいになりそうだ。まだ見積もりは出ていないが、これは電化製品を全て含む金額だ。そもそも、ここまでのお金を使う価値はあるのか、そんなお金を使ったら生活は大変になるのではないか、と最近考え直し始めている。

リフォームの代わりに父を慶友に入れる、と想定してみる。

そのためには自分のためのアパートも近所に探さないといけない。病院はJR青梅線の河辺駅のそばにあるらしい。一体それがどこなのか見当もつかない。調べてみた。どうも東京の西らしい。河辺駅から徒歩25分、あるいは西東京バスあるいは都営バスで12分、病院の送迎バスもある。よし、河辺駅近辺にアパートを借りよう。

Yahoo不動産で検索すると、あるわあるわ、河辺駅近辺にはものすごい数のアパートがある。駅から徒歩7分以内、築10年以内に絞る。それでも数が多い上安い。これが月額5万6千円。3階建ての最上階。南向き。一気に気分が盛り上がる。
これで5万6千円

東京までは立川経由で79分。これって通勤圏内とも言えるのではないか。片道890円。京都からだと片道それプラス12000円なのだから、ずっと安く遊びに行ける。毎週末東京駅や銀座に遊びに行こう。

なんだか嬉しくなってきた。

しかしお金のことをもっと具体的に考えてみる。(62万+6万)x12=864万円。2年で1728万円。3年2592万円。4年3456万円。5年4320万円。肺炎で人工呼吸器の相談までしたあと復活した父だから、あと10年生きることもありうる。となると8640万円。勿論病院も値上がりしていくだろうし、色々な経費を考えると1億円は突破するだろう。


段々気分は盛り下がる。

それでも入居待ちの長いリストがある慶友病院。


一体皆なんでそんなにカネモチなんだ!

2013年8月24日土曜日

こだわる

階段部分のフローリングが完成した。次は手すり部分を濃い色の木とアイアンに変える予定。別に今の色のままでもそうおかしくはないが、やはり色調をとことん完成させたい。



書斎には白い椅子を置く。この椅子にはフリンジがついていてインテリアに合わないので、今までは寝室に置いていた。が、ふと思いついてフリンジを取れば書斎に合うのではないか、と気がつく。引っ張ったら意外と簡単に取れた。思った通り書斎にピッタリだ。満足。 

うちの犬ではありません
自分でも『こだわる人』だということはよくわかっている。犬を飼っていた時は、犬のいるインテリアの写真を見つけては、食い入るように見つめていた。犬のベットは気に入るものが見つかると、何度も買い替えたものだ。それともこれは犬を飼っている人なら、誰でもすることなのか。

旅行に関してもこだわるから、旅行バックや旅行ファッションを研究しつくす。このこだわりは特にインテリアに関して強い。小さい頃は人形で遊ぶ時も、洋服の着せ替えには余り興味がなかった。それよりも人形の家の方に興味があった。濃い茶色の棚の一段に人形のベットもどきを置き、自分で刺繍した布でお布団もどきを作ったりして喜んでいた。

だからキッチンのプロジェクトも、これが完成した時点で、自分の好みのインテリアになっているのだろうか、と不安になる。こだわるくせに、私には美をまとめる才能がないからだ。全てに関して中途半端なのだ。だから、ファッションデザイナーにも、インテリアデザイナーにもなれない。この写真が昔から好きな色合いだ。



小さい頃はインテリアデザイナーか漫画家になりたいと思っていた。小学校6年生の時、お金持ちの友人、慶子ちゃんのうちに遊びに行った。慶子ちゃんの部屋には赤いカーペットが敷いてあった。ベットカバーはピンクだ。その色の組み合わせはさておき、ベットカバーというものを実際に見たのは初めてだった。衝撃だった。

それ以降数年間、オブセッション(何かに取り憑かれていること、自分を惹き付けるもの)はベットとその周りのインテリアになった。ベットを美しく飾ること。まずは家に帰って慶子ちゃんの部屋のベットを絵に描いてみた。その上に真っ白の枕カバーに包まれた大きな枕を載せる。当時大きな枕というものは、私の周囲の世界には存在しなかった。しかし、週刊マーガレットに連載されていた、わたなべまさこの漫画には存在した。

絵の中では慶子ちゃんのピンクのベットカバーの上に、わたなべまさこの漫画で見た、フリルがついた真っ白い大きな枕を載せる。全体に色を塗る。それを見てため息をついていた。

それから10年以上たって、ラルフ・ローレンが独自のインテリアを発表した。それまでアメリカではベットメイキングというのは、ホテルのようにベットにカバーと枕がキチンと置かれている状態のことを意味していた。ラルフ・ローレンがそれを変えた。

従来のベットメイキング

ラルフ・ローレンがベットメイキングの世界を変えた

とにかく、私の中のこういうこだわりは、今でも続いているのに気がついた。好きな色合いのインテリア写真があると切り取って保存する。切り取ったものは劣化するから、写真を撮ってパソコンにも保存する。それを見つめる。特に好きなものは10年以上たっても、時々取り出しては見つめる。どの色がどういう風に重ねてあるから、こんなにステキなものになるんだろう、と延々と見つめる。


余りにこの写真が好きなので、絵の具を使って描いてみる。描いているうちに使われている色のメリハリがわかってくる。そうか、ここにこういう素材のこういう色を置いているから、こんなにステキな雰囲気になるんだ、と理解する。

つまり、6年生の時に慶子ちゃんの部屋に憧れて、絵に描いて塗り絵をしたのと同じ感覚だ。


しかし、この『こだわる』性格は誰かに似ている。そう。父だ。

怖い。

2013年8月23日金曜日

床工事

朝9時からやっとフローリング工事の第2期が始まった。3人の男たちが午後3時まで休みなく働く。

2階廊下から玄関と書斎を見たところ

書斎の家具を運び出す


バスルームはタイルを残すので、ドアの下部分までフローリングを入れる
ドアをはずしたところ


書斎と玄関の家具をリビングルームに運び込む
玄関タイルをはがすと、ものすごい埃が飛ぶので家具をカバーした

書斎のカーペットをはがした状態
手前部分が玄関タイル

タイルをはがす前の状態

埃がファミリールームに飛んで来ないようにクッションでブロック

埃が飛び散らないように、薄いナイロンでテントを作る


一応開口部はカバーしたが・・・

玄関のフローリング工事が半分終わったところ

玄関終了

書斎も終了



玄関から書斎を見たところ

書斎から玄関を見る

カバーしたにもかかわらず、リビングは埃だらけ
次は階段手すり部分を、濃い色の木にしないといけない
自分たちでこの作業をしたら多分数日かかっただろう。明日は玄関から2階までの階段の工事。やはり人が家に入っていると落ち着かない上、一日ファミリールームから出られないので、冷蔵庫に何度も往復してしまった。

全粒粉で作った巨大タイヤキ風パンケーキ
皿に入りきらん

2013年8月20日火曜日

ショールーム

家作りは余り進んでいないが、日々何かの連絡、見積もり、計測は続いている。木曜日には遂にフローリングの業者が、残り半分をすませてくれることになった。前回はファミリールーム、キッチン、リビングルームだった。今回は玄関、書斎、階段の残り10段の工事だ。しかし、この工事の間1階と2階はどうやって上り下りすればいいのだろうか。

先週の土曜日にはサンフランシスコ空港のそばにある、SUB-ZERO/WOLFという家電の卸業者のショールームに行った。豪華なキッチンがいくつかあり、そこにはWOLF製品がいくつも使われている。アメリカではWOLFのオーブンや調理台は、シェフが選択するブランドとして有名なものだ。販売店では決して値引きがされないことになっている。

国内にいくつかショールームもあるが、そこでは月に2度調理のデモンストレーションがある。

シェフが作ってくれたメキシカン料理や海老料理を食べる。おいしい。このオーブンを買えば同じものができるのだろうか。












メキシカンもカラッとおいしい。今までは庭にあるグリルで肉料理は作っていたが、この調理台を買うとキッチンで作ることができる。特に気に入ったのがスチームコンベクションオーブン、日本でスチコンと呼ばれるオーブン。

毎日のお料理が面倒でたまらないけど、こういうスチコンやグリルを買えば少しはモチベーションも上がるのだろうか。


チキン、海老、そして野菜料理を食べたあとは、焼きたてのクッキーをたくさんお土産にもらって帰る。すごく得した気分。

しかし、無料と言って喜んでいてはいけない。この経費は全て製品に反映されているんだよなあ。

2013年8月16日金曜日

編み針

送り火の今日、母の事を少しだけ書きたい。

今まで母のことはブログに一度も書いていない。書き始めるとつらくて、続けることができないからだ。

母(左)と母の妹(右)

今でも見ると涙が止まらなくなるものがある。

38歳の時に薬害で視力を失い寝たっきりになったのに、母はいつもいつも笑っていた。母のところに来る人は必ず『こんなに障害を持っているのに、本当に明るい人』と驚きを持って母のことを表現していた。

目が見えないのに編み物が好きだった。いつも何かを編んでいた母は、編み物のことを考えるだけで、わくわくして毎日が楽しいと言っていた。千鳥格子のカーディガンなどを編む母は、頭の中で製図をしていたからよく指を折って考えていた。

複雑な模様編みや編み込みもできた

『あたしは七赤金星だから、今までこんなにラッキーだったのよ。』とびっくりするようなことを母は言うのだ。父は母と結婚した時、『箸より重いものは一生持たせません。』と言ったらしい。『いみじくもそうなったわねえ。』と編み針を持って母は笑うのだった。

38歳から80歳まで、何も所有しなかった母。その母の唯一の持ち物は編み針だった。全ての号数を揃えていて、父がいつも管理していた。母が目を落とすと父が根気よく拾っていたものだ。


編み針は母の形見となった。ある日その編み針を見て涙が止まらなかった。何年も何年も手になじんだ編み針を使っていたのだろう、どれも先がすり減っていたのだ。

この編み針を持つと、母をすぐそばに感じる。


この冬はこれで父の腹巻きを編んであげようと思う。

2013年8月13日火曜日

ユーミン

宮崎駿の映画『風立ちぬ』は、ゼロ戦の設計者・堀越二郎と作家の堀辰雄をモデルに、1930年代の日本で飛行機作りに情熱を傾けた青年の姿を描くアニメらしい。劇場予告を見たらその映画を見たくなった、と長男が言うのでYouTubeで見てみた。




宮崎駿の映画を見るとどれも胸がキュンとする。片想いをしていた頃を思い出すからだ。そして、この映画の音楽は松任谷由実の『ひこうき雲』だ。久しぶりにユーミンの音楽を聴いて、他の曲も聴きたくなった。アマゾンを見るとデビュー40周年記念CDが出ていた。試聴してみる。

もう胸がキュンキュン。70年代80年代を思い出してしまった。あの頃の恋心がよみがえって来る。音楽ほどその時代をまるごとよみがえらせるものはないと思う。その頃出会った人、片想いした人へのやるせない気持ち、学校のあとのアルバイト、アルバイト先の人たち、全部思い出した。



父は最近思い出話をよくする。老人ホームに入る前は、思い出話をじっくり聞いてあげる事も余りなかった。ホームに入ってからは、父と一緒にソファに座って話を聞く機会が以前に比べてずっと増えた。ホームに行くと、父に100%注意を向けてあげることになるからだ。

行くと2時間ぐらいホームにいるので、みっちり話す。母と初めて会った時の話も、最近になって聞いた。父は戦後英文タイプの学校を3つ開校した。その3つ目の学校でのアシスタントを募集する新聞広告を出した際、応募してきたのが母だった。父が死ぬ前に聞いておいて良かった、とつくづく思ったものだ。



以前は聞いたことのない話が次々と出て来る。その中にゼロ戦に乗る兵士の出撃前夜の話も出た。ところが父は思い出して泣き始める。もう話したくない、と言う。余りにもつらい思い出らしい。

この映画がDVDになった時に、父と一緒に観たいと思った。最近父は理解力が落ちているので、横で説明しながら一緒に観てあげる方がいいだろう。果たしてその頃父は映画を理解することができるのだろうか。

2013年8月11日日曜日

キャビネットの穴

市役所に行って、この家が建てられた時の青写真をもらって来た。キッチンのソフィット部分のことを詳しく知りたかったからだ。これは1階部分だが、結局ソフィットの中に何が隠れているかは、全くわからなかった。



コントラクターのトミーに来てもらう。トミーはタイ人だが60歳前後ぐらいだろう。ものすごく明るい性格でおもしろい。そして有能であることもわかる。この前キッチンのキャビネットに小さな穴を開けてiPhoneで写真を撮った。その写真を見せた。う〜ん、とうなるトミー。
電気の配線だけでなく、銅製のパイプ、水道管などなどパイプが通っている、パイプの移動は大工事になる。そこまでの大工事はやめておいた方がいい、ということ。

ソフィットは30㌢の高さがあるのだが、ソフィットの下部分10㌢だけを壊して、そこにある配線を20㌢の上部分に移動することは可能。が、とにかくソフィット全部をなくすことはとても無理だということになった。下部分10㌢を取り除いた所までキャビネットを取り付けて、上の20㌢は帯状の飾りで隠すというオプションしかなさそうだ。

キャビネット上がソフィット

まずはそれが可能かどうか、頭が入るぐらいの大きな穴をキャビネットに開けてくれ。それができたら、もう一度来て見るということ。開けた。最初は簡単な工事と思っていたのが、どんどん規模が拡大していく。費用も最初の予定の13倍になった。キッチンがない期間は1ヶ月半から2ヶ月。その間はシンクすら使えない。

本当にこの改装、進めて行くべきなのか。
進めて行かない場合どうする、この穴・・・