2025年4月10日木曜日

スマホ機種変更

 この1週間スマホをアップグレードするのに奔走していた。


関税によりiPhoneが値上がりする可能性を考えて、今のうちに大好きだったiPhone 13 mini(あのサイズがもうない)を諦めて、iPhone 16を買うことにした。


一番安いのでいいと思い、16eを購入。


家に持ち帰り新しいiPhoneと古いiPhoneを並べて同期する。


古いiPhoneはサンノゼに帰ってからトレードに出そうと思って、そのまま初期化せずに置いていた。


ところが、16eには広角レンズがついていないことに気づき、16に替えることにした。


買った16eを初期化して、返品。


iPhoneを返品するなんて初めてだったが、簡単にできた。


そしてiPhone 16を購入。

色はブルーにした


帰宅して、今度は古い13 miniから新しいiPhone 16にデータを移行した。


今回はiCloudからの移行。


が、どうしても電話番号が移行できない。


以前使ったeSIMの番号が現れて、
本来の電話番号が移行されていない


データは全て移動できたのに、何故電話番号だけが新しいiPhoneに移行できない?


アップルヘルプデスクと1時間近くチャットするも、解決できない。


すぐアップルストアに予約をして、今度は実際に店員さん(アソシエイト?)に電話番号移行を頼むことにした。


が、この人も解決できない。


1時間半ほど二人で色々と試したが、わからない。


最終的には他の女性店員さんに交代したあと、彼女がもしかしたら番号は返品した16eに紐づけられているのではないか、と思いつく。


最初に1時間半電話番号移行を試したけどできなかった店員さんと違って、この人は頭がやわらかいのかも?


しかも古い13 miniをトレードして、$215その場でもらうことができた。


が、昨日はアップルウォッチに同期するのに時間がかかった。


どうしてもApple Payが同期できない。


調べてみると、アップルウォッチは初期化した上で、新しいiPhoneと紐づける必要があることがわかる。


こうして、過去1週間はスマホ3台とアップルウォッチに振り回された。


が、日本にもうすぐ行くので、その前にできて良かった。


姉からは、新しいパン屋さんでランチしてきた、とメールが入る。


長蛇の列だが、スマホで予約して食べることができることを知り、早速試してきたようだ。


これで1300円ぐらいのランチ


姉の友人たちにはそういうことを、スマホで試してみようとする人がほとんどいないらしい。


そうかあ、私もいずれパソコンやスマホを使いこなす、とまでは行かなくても、レストランの予約ぐらいはできるようにしておきたい、と考える。


東京から京都に移動する予定を早めてこのパンも食べに行くか?


数日早めて京都で美味いモン探しする?


そのために、新幹線の予約を変更する?


EXスマートというJRサービスを、古いスマホから新しいのに移すのも大変だったのに?


EXスマートは(アメリカからは)パスワード自体なかなか変更できない上、パスワードもシンプル過ぎて脆弱である。


変更自体は簡単だが、そのためにまたEXスマートを使えなくなったら、苦労するぞ、と自分に言い聞かせる。


が、やはり変更して、京都の美味しいものを色々食べに行こうではないか。


しかし、新幹線の予約、ホテルの予約まで変更する?


そこまで食べモンに執着する?


まず自分の頭を初期化しないとな

2025年3月27日木曜日

ラテアート

姉の友人Yさん(80歳)がお正月、息子家族が泊まりに来た直後脳出血を起こし入院。


2人の息子たちが相次いで来たので、連続6日間布団や食事の支度で疲れ切った。


来年は貸布団と外食にする、と姉にぼやいていたところだったそうだ。



それから3ヶ月、それまでは精力的に色々なクラスを取り友人たちと会食を楽しむYさんは、介護度3の身体障害者になり施設を探しているということ。


子供の世話どころか、突然子供に世話をしてもらうことになった。



子供家族が帰省すると張り切ってしまう気持ち、よくわかる。


私も同じだ。


台風が来たような怒涛の数日を過ごしたあと、あっという間に帰っていく彼らに合わせる体力はもうなくなりつつある。



と言いながら昨日コロラドに着いた。


デンバー上空から高速道路の車の行列を見て
映画Field of Dreamsを思い出した



夜到着すると、孫ズが待ち構えている。

私の部屋の床で寝る二人


サンノゼでほとんど喋らない生活をしているのに、コロラドに来た途端7歳児と4歳児と喋り、走り回る。


寝る前に本を読んでくれとせがむ孫ズに読んでいたら、少し貧血気味になった。



なので、もっともっととせがむ孫ズだったが、半分でやめた。



無理をしてはいけない。



朝もキッチンを片付けたいが、まずはゆっくりカフェでラテを飲む。


朝9時台はまだカフェの客も少ない



私は多分このカフェで唯一(少なくとも朝の時間帯では)スマホで注文するらしく、全店員に顔を覚えられてしまった。



なじみの客になると、足が遠のいてしまう私である。



常連さん、という顔でフレンドリーに接してくれる店員さんとの交流が面倒になるからである。



2週間前このカフェでカフェインレスラテをスマホ注文した時、間違えてカフェイン入りを作られてしまい、朝の4時まで眠れなかった。



今日は間違えられてはならない。



なので、対面で注文した。



カフェのスタッフは、いつもありがとう◯◯◯、と私の名前を正確に発音してくれるではないか。



日本でも聞いたことのない、アメリカ人には発音の難しい名前なのに・・・



その名前を覚えてくれていて、Have a nice day! OK?と満面の微笑み。



4人のスタッフが全員私を見てニコッと微笑む。



注文したものを見ると、初めてラテアートが描かれている。



スリーブには私の名前+!、とスマイルマークまで・・・

早急に新しいカフェを探さないと・・・😭

2025年3月19日水曜日

マイレージプーリング

いしだあゆみさんが甲状腺機能低下症で亡くなったと知って驚いた。


私も同じ病気を持っている。


もう何十年もチラージンを服薬しているが、ここ数年はそれでも血液検査を受けるとボーダーラインでぎりぎり正常値にぶら下がっている感じ。


いしだあゆみさんは私より年上だが、自分も何が原因で突然死ぬかわからないんだろうなあ、と思うようになった。


なら、お金のことでクヨクヨ悩むことはやめた方がいいのだろう。


とはいえ、もしかしたらあと30年生きるかもしれない。

連日の雨で緑がきれいな季節になった


その場合最期までお金は続くのか?


先月から夫がSocial Security、つまり老齢(厚生)年金を受け取るようになった。


私は自分の年金を65歳から受け取っていたが、夫は68歳からの繰下げ受給を選んだ。


その時点で配偶者(私)は自分自身の年金か、配偶者(夫)の年金の半分を選ぶことができる。


なので私は、夫の年金額(夫が65歳の時点で受け取れたはずの額)の半分を受け取ることに変更した。


夫は70歳まで待つつもりだったが、周囲の意見もあり68歳から開始したのだ。


アメリカの物価を考えると雀の涙であるとはいえ、毎月の健康保険料や今後かかるだろう歯の治療費、吸入薬代、航空運賃などの助けにはなる。


次男の怪我のあと、コロラドにも毎月のように飛んでいる。


下の写真は孫#1(7歳6ヶ月2年生)そして5ヶ月後には孫#2(4歳5ヶ月)が幼稚園生として通う小学校だ。


孫#1のイベントのある日、クラスを次男夫婦と訪問した


コロンバイン高校銃乱射事件があったからなのか、コロラドの(あるいは彼らの学校区?)のセキュリティはとても厳しい。


サンノゼの小学校に通っていた時は、千客万来という形の門扉も何もない造りで、いつも心配だった。


が、今通っている小学校は厳重なシステムを通過しないと教室には行けない。


警官も常駐している。



そんなこんなで、胃カメラ検査を受けるように言われているのだが、検査を受ける暇がなかなかない。


が、今日は朝6時半に病院にチェックインして検査を受ける予定だった。


なのに、昨日ドタキャンの電話があった。


そしてその時、スタッフと色々話した結果、ドタキャンされて幸いだったことがわかった。


なぜなら胃カメラ検査のあと2週間は、飛行機に乗ってはいけないのだそうだ。


1週間後にはコロラドに飛ぶ予定だった。


今年前半だけで、日本往復を含めて12回飛ぶ予定だ。


日本には年2回は行きたい。


そのために、ユナイテッド航空のマイルもせっせと貯めている。


5人までのメンバーがグループを作り、全員のマイルを合わせて、マイレージプーリング(Mileage Pooling)というものを作ることができる。


私がリーダーとなりプール(共同の蓄え)を作り、メンバーの誰でもが、そのマイルを使うことができる(私のグループでは使うのは私のみ)。


私は、姉、長男夫婦との4人でグループを作った。


なので、私は買い物では全てユナイテッド航空のクレジットカードを使う。


しかも、2枚のカードを使い分けないといけない。


カード1️⃣は外食、ホテル、年末の買い物、2️⃣は他の全て、というように。

4人あわせて現在68万マイル貯まった
日本までの片道プレエコは6.5万マイル必要
(エコノミーは5.5万マイル)


グループにはあと1人分空席がある。


が、何故かこんな時夫は使えない。


なぜか。


新しいルールというものを決して学習することができない

2025年3月4日火曜日

番外編 <初めての渡米 by 姑>

1954年、私は広島の高校卒業後、銀行で仕事をしたかった。


が、タイプライターの学校を卒業していたにもかかわらず、両親がいないことで就職できなかった。


近所の叔母の家に行っては、泣いていた。


叔母は親戚に、「あの子は日本にいる限り幸せになれない。」と言っていたようだ。



その頃、夫が私の写真を見て一目惚れした。


当時夫は婚約していた女性が自分を捨てて逃げたことで、失意のどん底にいた。


しばらく文通を続けたあと夫が来日し、私達は初めて会った。


文通しているうちにお互いに好きになり、1954年10月日本で結婚した。


そして、私は一人で渡米することになった。


が、アメリカまでは長い道のりだった。



渡米するにはパスポート、ビザ、胸部レントゲン写真が必要だった。


アメリカに移民として入国するためクラスを取り勉強し、テストを受けた。


1955年1月初めに広島を出て、アメリカに飛ぶことになった。


当時広島から東京までは汽車で16時間、その後羽田空港に行きアメリカ行きの飛行機に乗った。


JALは週に1便ぐらいしか飛んでなかった時代である。


私は1月最初の飛行機で日本を発った。


東京からサンフランシスコまではプロペラ機32時間の長旅である。


はっきりした時刻を覚えていないが、確か夕方羽田を出発した。


飛行機から見る東京の街がとてもきれいだったことを覚えている。


勿論初めての飛行機旅行だった。


ウェーキ島(Wake Island)に着いたのは朝6時。


当時は機内食というものがなかったので、朝ご飯はバスで食べに行くことになった。


おいしい朝ご飯のあと、飛行機に戻った。


ホノルルにお昼ごろ着いて、そこでコーラというものを初めて飲んだ。


が、まずくて吐き出した。


ホノルルの空港でランチを食べたあと、同じ飛行機に戻り出発。


機内で一晩過ごし、サンフランシスコ空港に翌朝6時に到着した。


航空会社が資生堂の大きな化粧品セット、立派な漆の盃2つ、などなどたくさんのお土産をくれた。


サンフランシスコではタクシーであちこち観光に連れて行ってもらったが、初めて食べたハンバーガーとフレンチフライが、あまりに美味しかったのが忘れられない。


サンフランシスコからデンバーまでは8時間かかった。

現在はサンノゼ空港から2時間半


ネヴァダ上空

コロラド上空


機内食がないので、ランチを買うための休憩をユタでとることになった。


お腹がすいていなかったから、私は何も食べなかった。


デンバー空港には、朝2時に着いたのだが、親戚全員が迎えに来てくれていた。


アメリカで初めて目が覚めた時、コーヒーの香りがあまりにすばらしかったことが、一生忘れられない。




7年後の6月23日、夫が亡くなった。



見通しの悪い線路には当時踏切もなく、トラックを運転していた夫は汽車に轢かれたのだった。



長男5歳、次男4歳、長女3歳、次女1歳半だった。


終わり良ければ全て良し・・・
いや、まだあと10年いけるかも?

2025年2月24日月曜日

ヤギ

コロラドでは3月4月、ドカ雪が降るらしい。

コロラドの雪はpowder snowと呼ばれる


降ると休校になることも多いので、コロラドに住む親たちは結構大変そうだ。



私は3日後にコロラドにUターンする。


2月20日から日本に行く予定だったが、次男の仕事復帰に合わせて私もコロラドに行き手伝うことにした。


転倒したあとというのは、必ず心臓の状態も専門医により調べられるそうだ。


そして、そこで次男の場合不整脈が見つかった。


現在1週間モニターをつけて生活しているらしい。


1月11日に転倒し額骨折、術後2週間半ワイヤーで歯を固定。

全身麻酔で歯茎から6本のピンを抜いた時の写真が
3日前マリーから送られてきた


30代の若者に不整脈はよくあることらしいが、次男の場合一応専門医により今後も要観察のようだ。


元々少し血圧が高いので(130/80)食事も今までの塩分の多い食事を見直しているところ。


まあ、これらは本人に任せればいいのだが、どうも私自身このところ気分が滅入って仕方ない。


カイザー病院の保険から、新しい保険システムに加入した途端、次々と検査を受けている。

待合室では20人ほどが待っていた


カイザーは保険が安い代わりに検査は年に1度の血液検査のみだった。


が、保険を変えたら、ガン検診ばかり受けているような気がする。


次は胃カメラである。


その前にピロリ菌検査も受けた。

紙のパウチに息を吹き込む検査


陰性ではあったが、こうして病院にばかり通うことで気分がどうも暗〜くなっていく。


いや、原因はそれではない。


何だかわからないのだが、気分が落ち込み、やっと上がり始めたところだ。



そんな時Mよさんから、近所で撮影した写真を見せてもらった。


去年は雨で小さな川が決壊し、被害が出たMよさんの隣町。


今年その地域では水害に備えて、川岸の草を始末することになった。


そんな時駆り出されるのは、なんとヤギ‼️


業者がトラックでヤギを運んで来るそうだ


毎日ヤギが草を食べていたらしい。

そして、2週間後にはすっかりきれいになった


ボーっと写真を見ながら、もうストレスのある生活はイヤだ、と考える。


ヤギ飼いになって、1日中ヤギを見ていたい

2025年2月15日土曜日

睡眠時間

もうホトホトいやになった。


冷蔵庫がサンクスギビング前日(11月27日、購入13ヶ月後)に壊れ、まだ直っていない。


Bosch(ボッシュ)というドイツのメーカーのものなのだが、1ヶ月後の12月23日に修理班がまず来た。

3つのネジ?の1つが足りないからまた来ます、と2つだけ新しいものに交換し、$280ボッタクって帰った。


1月3日に戻って来るはずがドタキャン。


1月24日ドタキャン。


2月7日ドタキャン。


いずれもその日は予定を入れずに準備していたのに、朝ドタキャンメールが来る。


2月12日にやっと来てくれたらしい(私はコロラドにいた)が、5つのパーツを新しいものに変えた。


が、直らない。


冷蔵庫はキッチンの中で存在感のあるものだ。


なのに機能していない。


こんな時、アメリカが嫌になる。


日本ではまずこんなことはありえない。


とはいえ、今後日本でも働き手の不足で起きる可能性はある。


サンクスギビングの前日壊れたのだから、もうすぐ3ヶ月になる。


いつか将来直る日があるのだろうか、という気持ちである。



さて、昨日コロラドから帰宅した。

コロラド明日からの気温


サンノゼ気温


次男の転倒による後遺症は色々とまだまだ問題が残っていて、そのことに関して少しずつ書きたい。

次男も孫1とキャッチボールができるほど回復しつつあるが・・・


コロラドにいる間は孫ズが私につきまとう。


7歳孫1はとにかくアクティブ。

ポゴというバネのついたスティックで
1000回以上ジャンプするほどの体力


4歳孫2は1日中お絵かき。

来る日も来る日もゴーストバスターズの絵を
描き続けている


夜は二人とも私の部屋で寝たがる。

私のベッドの横にマットレスを敷いて寝る二人


私が昨日サンノゼに帰ってしまった、と孫1が昨夜大泣きしたらしい。


私が孫のレベルで遊んだり話したりするので、楽しかったのだろう。


まあ、長くてあと2,3年のことだ。


私も祖母が我が家に遊びに来て、帰ってしまった日は大泣きしていたものだ。


が、私が夜あまり寝ていないのは、i-phoneの睡眠の質を見ると明白である。



このグラフは上が自宅にいる時の、下は次男宅で孫ズと寝ている時の覚醒時間を表している。



昨夜久しぶりに安眠



ばーちゃん寝させてくれや〜〜‼️

2025年2月7日金曜日

満州からの帰還 4/4

佐世保に着いた時は本当に嬉しかった。


私は叔父さん(母の弟松XX之)とその娘陽子さんの家に行こうと思い、広島県にある八本松駅まで汽車で行くことにした。


川本のおばさんたちは、八本松駅の一つ後の駅で降りる。


私は八本松駅から竹仁という小さな街までバスに乗るつもりだった。


竹仁に叔父さんの家があったので、バス停から歩こうと思ったのだ。


私がバス停を探していた頃、一つ後の駅(志和駅と記憶している)で降りた川本のおばさんたちは私の父にばったり会った。


父はその志和駅から広島駅に行くところだったのだ。


広島駅に行き、私を探すための新聞広告を出すつもりだった。


NHKラジオの人探しコーナーでも、私を探していると毎日放送されていたようだ。


駅でバッタリ父に会った川本のおばさんは、父に私が八本松駅で降りた、と話した。


父は駅員さんに、自分の娘が今八本松駅にいる、そこに自分が行くまで動かず待つように伝えてください!と頼んだ。


八本松駅では駅員さんが私のバッグに書いてある名前を見て、「今お父さんが来るからここにいてください!ここから動かないで!」と言った。



しばらくすると父の乗った汽車がホームに入ってきた。


顔を真っ赤にしたお父ちゃんが、私に向かって走って来る。 「完」



これではこのドラマの感動はなかったかも

2025年2月5日水曜日

満州からの帰還 3/4

姑に戦時中の話を聞き始めたのは、半年ほど前になるだろうか。


姑は次女家族と住んでいるが、私がコロラドで滞在する次男の家からは車で30分ほど離れている。


なので、何度かに分けてインタビューしたのだが、こうしてまとめているうちに食い違いが出てくる。


で、電話をして掘り下げて聞くのだが、話すことで姑の記憶がだんだん蘇ってくるそうで、「長いこと忘れてたことを今になって思い出した!」となる。


最初に聞いた話と少し違ってくる。


なので、最初は「母と妹と3人で日本に帰ってきた」と聞いていたものが、実際はもう母妹は亡くなっていた、と何度か話しているうちにわかった。


これは姑が忘れていたというよりも、話しているうちにどこかで食い違いが発生したのだろう。


二人が死んだ年も思い出した、ということ。


なので、このシリーズの第一回と第二回は、少し書き換えた部分もある。


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京城に着いた私たちは、港にあるアメリカ軍の施設の中に入り、全員が裸になってシャワーを浴びさせられた。


シラミがついている人はシラミ退治をされたが、幸いにも私にはシラミはいなかった。


シャワーというものを浴びるのは初めての経験だった。


着ていた洋服が洗濯され、乾燥までしてある。


暖かい清潔な洋服に着替えた私は気持ちが良くて、ハンサムな若いアメリカ兵士たちはなんて親切で優しいんだろう、と感謝した。


それから日本の大きな船に載せられて(100人以上乗っていた)日本に向かった。


船長や船員が皆真っ白な制服を着ている。


「赤いリンゴ」の歌を船の中で聞きながら、これもまた真っ白な日本の船はなんてすばらしいんだろう、としみじみ思った。


日本の船員たちも皆親切で、私達にとても良くしてくれた。


満州からは一緒に帰った人たちが同じ船に乗っている。


川本のおばさん(と私は呼んでいた)、おばさんの娘二人(一人は私と同じ年齢)と、お嫁さんも一緒だ。


あとで知ったことだが、父、兄たち、姉は、この頃にはもう風の便りで母と妹が死んでしまったことを聞いていたらしい。


船は佐世保に向かっている。


80年後にここまで日本が復興するとは、
誰が想像したことだろう

2025年2月3日月曜日

満州からの帰還 2/4

終戦から4ヶ月後、12月26日に妹が亡くなった。


妹は奉天でもよく入院していた。


昔から病気ばかりしていた、身体の弱い妹だった。


薬もなく、医者を見つけるのも大変な世の中だったのだ。


その悲しみのせいもあったのだろう、母が翌年1月18日早朝眠るようにして亡くなった。


寒いからお母ちゃんのへり(そば)に寄って寝なさい、と私に言ったのが最後の母の言葉だった。


母が死んだのは悲しかったが、周りは親を失った子も多く、皆で暮らす楽しさもあった。


中の一人の笑い方がおもしろいので、その子が笑うと伝染したように周りが笑うのだ。


朝鮮の年配の男性が、約100人の日本人たちに家や学校を確保してくれていた。



皆でそうやって暮らしているうちに、1947年になった。


私は日本に帰りたかったが、朝鮮を出る手段がない。


が、ある日その年配男性の計らいで船を雇い、夜中にこっそり沖に出ることになった。


家を出る前に、同じグループの皆で家を掃除した。


どこからともなく、「松XX之」という名前と住所を書いたクシャクシャになった紙が出てきた。


母の弟、つまり私の叔父の名前である。


私はとっさにその紙を自分のポケットに入れた。



航海中、私は隠れながらも時々デッキに出た。


1週間ほどたった頃だったろうか、小さな漁船が来た。


漁師が魚を買ってくれないか、と言っている。


誰かがお金を出した。


が、漁師は「ここは韓国だから朝鮮のお金は使えないよ。」と言った。


(朝鮮が北朝鮮と韓国に分割されたのは1948年なので、この時点ではどういう通貨が使われていたかは定かではない。)


漁師の言葉で、ここは南だ!とどよめいた。


遂に韓国に着いたのだ。


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つくづく思う。


なんでいがみ合うのだろう。


なんで戦争するのだろう。


なんで殺し合うのだろう。


ここで縄張り争いをしているのは、アイドルだけ

2025年1月31日金曜日

満州からの帰還 1/4

今日から何度かに分けて、姑が戦後満州にいた時の話、そしてその後日本に帰ってきた話を書こうと思っている。


書き進めていくうちに、いくつか辻褄の合わないところがあるので、インタビューを重ねつつ記録している。


例えば最初は姑が一人で帰ってきた、と聞いていたが、よくよく聞いてみると違うようだ。


とにかく、この話を普段の生活に関してのみのブログの日も交えながら、しばらく書いていきたい。


このブログにコメントをいただいたお二人の体験談、あるいはお二人のファミリーヒストリーとしてのお話も、改めて紹介させていただこうと思う。


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第二次世界大戦時、私は父の仕事の関係で家族と満州の奉天市に住んでいた。


終戦(1945年8月15日)の1週間前、ロシア軍が攻めて来た。


ロシア兵から避難するため、女子供100人ぐらいがそこに来た日本軍の2,3台のトラックに分かれて載せられた。


荷台に乗った私たちが着いたのは奉天駅。


奉天駅から平壌まで汽車に乗ったのだが、汽車の中で一夜を過ごす長時間の旅だ。


その時私は12歳、5歳下の妹と母と一緒だった。




当時18歳の長兄は奉天の日本軍にいた。


15歳だった次兄(現在東京在住)は、避難したくないと言って奉天に残り学校に行った。


次兄は未だにそのことを後悔している。


戦後腎臓を悪くして亡くなった母を守るために、一緒に行くべきだったと思ったのだ。


父は属官(官司に所属する官人。次官以下の職員)としての仕事、22歳の姉も仕事があるので、奉天に残った。



平壌に到着して、ある日本人の所有する大きなお屋敷に住むようになった。


朝鮮人の女中が何人もいた。


日本人は朝鮮人を丁寧に扱わなかった。


何人がそのお屋敷に住んでいたかは覚えてないが、1週間後終戦になった。


私は13歳で、周囲の人々が泣いていたが意味がわからなかった。


誰かが「日本は戦争に負けた」と言った。



父と姉からあとで聞いた話によると、その頃ロシア軍が家に来て、「娘(姉)を出せ」と言った。


2番目の兄が「姉はいない」と言った。


父、姉、二人の兄は当時、軍の官舎に住んでいたのだが、隣の家と彼らが住んでいた家の、屋根裏部分の間にあった壁を取り払い、お互いが行き来できるようにしていた。


ロシア軍が来た時、姉は屋根裏経由で隣の家に隠れていたのだ。


こうして、姉は事なきを得たが、父は足を撃たれたこともあった。



日本が負けたことで、朝鮮半島は日本の植民地支配から開放された。


そして、朝鮮人の中には態度が変わり始めた人もいた。


年配の人は良くしてくれたが、若い人たちは横柄な態度を取り始めたのだ。


多くの日本人たちは、朝鮮人をバカにしていたが、私の母は決してそんなことをしてはいけない、と厳しく言った。



その頃、父、姉、兄二人は葫芦島から船で日本に帰国した。



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こうして姑から聞いた話をブログでまとめているうちに、いくつかの食い違いに気づいたので、食事をしながら質問する。



が、姑も忘れていることも多いし、なかなか進まないが、時間をかけてインタビューしながら進めていきたい。




鍋焼きうどんと天ぷらを注文する姑の生命力はすごいなあ、と毎回思う。



それに比べて私が食べたのは、サーモン、サラダ、オレンジのみ
が、パンとお菓子で補填する

2025年1月27日月曜日

シリコンバレーのお葬式事情

友人の友人(69歳)のご主人(71歳)が、朝起きたら亡くなっていたそうだ。


パーキンソン病はあるが、前日まで普通に暮らしていらしたということ。


お葬式の準備を始めたら、サンノゼ(シリコンバレー全体?)の驚愕の現状がわかった。


火葬のウェイトリストはとんでもなく長く、1ヶ月先まで順番が回って来ない。


両親の死の際に思ったが、火葬する時の悲しみは大変なものだ。


とはいえ、そうすることで気持ちを整理し始めることができる。


その日が来るのが遅ければ遅いほど、その分悲しみを引きずるような気がする。


それが、1ヶ月!


その間実際に遺体に会いたいと言う弔問客もあることだろう。


その場合、冷凍庫(と友人は言った)の引き出しを開けて遺体に実際に対面するには、毎回$100かかるということ。


誰かの弔問が10回あったとしたら、それだけで$1000。


死を悼むどころか、そろばん計算機をパチパチしそうだ。


調べてみると、サンノゼでの火葬費用は$1195から$2350、お葬式は$1575ドルから$9280ドルということ。



今回姑と義妹2人が我が家に滞在していた時、3人は本当に元気だなあ、とつくづく思った。


食べるものを見てもそう感じる。


例えば以下の写真は、近所のレストランに朝食に行った時のもの。

義妹1はチーズたっぷりのハム、ポテトにトースト



義妹2はハッシュドポテト、オムレツ、トースト

夫はハッシュドポテトとスパニッシュオムレツ


私はパンケーキ普通サイズ1枚


とこんなところでも、生命力の違いを感じる。


92歳の姑が食べたものはこれ⬇️


あと20年はいけるでしょうな

2025年1月25日土曜日

義妹たちとコロラド移動

コロラドに来て3日目。

義妹たちは雪でサンノゼに来る時2時間遅れたので
$100金券を受け取ったらしい!



こちらに来るフライトは姑、義妹2人と一緒だった。

機内はガラガラ


姑に腹を立てながらも、世話をする義妹たち。


どうしているのか、と電話で様子を聞いてくる義兄。


姑は幸せだなあ、とつくづく思う。

髪がフサフサなので、抜け毛があるかどうか聞いたら、
「1日に3,4本は抜けるよ」ということ


今回はコロラドで初めて雪道を運転したが、路上の雪はすぐ溶けるので思ったよりは怖くない。

車庫から出たところ


次男は怪我のあと、最初の数日で4㌔ぐらい体重が減ったそうで、痛みもまだある。


前歯2本を含めて3本の歯が折れたので、それを直すまで日本には行けない。


もちろんまだ口に入れられるものは、ストローで飲めるものだけ。

ベビーフードの他に買った出来合いのスープ


写真のような出来合いのスープを買ってきて、ブレンダーで液状にし、こし網で粒が残らないようにヘラで濾し、ストローで飲む。


これが三種の神器


MRIによると脳震盪はなかったそうだが、近いうちに心臓内科の専門医の診察を受けるようだ。


これは転倒したあと、受けるべき検査らしい。



さて、姑が満州から日本に帰還して来た時のことを、近いうちに何度かに分けて書きたい。


この記録は、私が一番好きな夫側の親戚R叔父さんさんに最初に送るつもりだった。


が、義妹たちが「R叔父さんはコントロールフリーク(状況や人々を支配したい人)だから、送ってはダメ!」と口を揃えて言う(この発言こそちょっとコントロール・・・?)。


知的でユーモアのセンスもあるR 叔父さんがコントロールフリークとは思えないが、そこまで言われると送ることはできない。


約束を反故にしたようで気になるが、少し時間を置いて送ろうと思う。


フサフサ真っ黒髪の義妹には絶対勝てない‼️