2025年3月27日木曜日

ラテアート

姉の友人Yさん(80歳)がお正月、息子家族が泊まりに来た直後脳出血を起こし入院。


2人の息子たちが相次いで来たので、連続6日間布団や食事の支度で疲れ切った。


来年は貸布団と外食にする、と姉にぼやいていたところだったそうだ。



それから3ヶ月、それまでは精力的に色々なクラスを取り友人たちと会食を楽しむYさんは、介護度3の身体障害者になり施設を探しているということ。


子供の世話どころか、突然子供に世話をしてもらうことになった。



子供家族が帰省すると張り切ってしまう気持ち、よくわかる。


私も同じだ。


台風が来たような怒涛の数日を過ごしたあと、あっという間に帰っていく彼らに合わせる体力はもうなくなりつつある。



と言いながら昨日コロラドに着いた。


デンバー上空から高速道路の車の行列を見て
映画Field of Dreamsを思い出した



夜到着すると、孫ズが待ち構えている。

私の部屋の床で寝る二人


サンノゼでほとんど喋らない生活をしているのに、コロラドに来た途端7歳児と4歳児と喋り、走り回る。


寝る前に本を読んでくれとせがむ孫ズに読んでいたら、少し貧血気味になった。



なので、もっともっととせがむ孫ズだったが、半分でやめた。



無理をしてはいけない。



朝もキッチンを片付けたいが、まずはゆっくりカフェでラテを飲む。


朝9時台はまだカフェの客も少ない



私は多分このカフェで唯一(少なくとも朝の時間帯では)スマホで注文するらしく、全店員に顔を覚えられてしまった。



なじみの客になると、足が遠のいてしまう私である。



常連さん、という顔でフレンドリーに接してくれる店員さんとの交流が面倒になるからである。



2週間前このカフェでカフェインレスラテをスマホ注文した時、間違えてカフェイン入りを作られてしまい、朝の4時まで眠れなかった。



今日は間違えられてはならない。



なので、対面で注文した。



カフェのスタッフは、いつもありがとう◯◯◯、と私の名前を正確に発音してくれるではないか。



日本でも聞いたことのない、アメリカ人には発音の難しい名前なのに・・・



その名前を覚えてくれていて、Have a nice day! OK?と満面の微笑み。



4人のスタッフが全員私を見てニコッと微笑む。



注文したものを見ると、初めてラテアートが描かれている。



スリーブには私の名前+!、とスマイルマークまで・・・

早急に新しいカフェを探さないと・・・😭

2025年3月19日水曜日

マイレージプーリング

いしだあゆみさんが甲状腺機能低下症で亡くなったと知って驚いた。


私も同じ病気を持っている。


もう何十年もチラージンを服薬しているが、ここ数年はそれでも血液検査を受けるとボーダーラインでぎりぎり正常値にぶら下がっている感じ。


いしだあゆみさんは私より年上だが、自分も何が原因で突然死ぬかわからないんだろうなあ、と思うようになった。


なら、お金のことでクヨクヨ悩むことはやめた方がいいのだろう。


とはいえ、もしかしたらあと30年生きるかもしれない。

連日の雨で緑がきれいな季節になった


その場合最期までお金は続くのか?


先月から夫がSocial Security、つまり老齢(厚生)年金を受け取るようになった。


私は自分の年金を65歳から受け取っていたが、夫は68歳からの繰下げ受給を選んだ。


その時点で配偶者(私)は自分自身の年金か、配偶者(夫)の年金の半分を選ぶことができる。


なので私は、夫の年金額(夫が65歳の時点で受け取れたはずの額)の半分を受け取ることに変更した。


夫は70歳まで待つつもりだったが、周囲の意見もあり68歳から開始したのだ。


アメリカの物価を考えると雀の涙であるとはいえ、毎月の健康保険料や今後かかるだろう歯の治療費、吸入薬代、航空運賃などの助けにはなる。


次男の怪我のあと、コロラドにも毎月のように飛んでいる。


下の写真は孫#1(7歳6ヶ月2年生)そして5ヶ月後には孫#2(4歳5ヶ月)が幼稚園生として通う小学校だ。


孫#1のイベントのある日、クラスを次男夫婦と訪問した


コロンバイン高校銃乱射事件があったからなのか、コロラドの(あるいは彼らの学校区?)のセキュリティはとても厳しい。


サンノゼの小学校に通っていた時は、千客万来という形の門扉も何もない造りで、いつも心配だった。


が、今通っている小学校は厳重なシステムを通過しないと教室には行けない。


警官も常駐している。



そんなこんなで、胃カメラ検査を受けるように言われているのだが、検査を受ける暇がなかなかない。


が、今日は朝6時半に病院にチェックインして検査を受ける予定だった。


なのに、昨日ドタキャンの電話があった。


そしてその時、スタッフと色々話した結果、ドタキャンされて幸いだったことがわかった。


なぜなら胃カメラ検査のあと2週間は、飛行機に乗ってはいけないのだそうだ。


1週間後にはコロラドに飛ぶ予定だった。


今年前半だけで、日本往復を含めて12回飛ぶ予定だ。


日本には年2回は行きたい。


そのために、ユナイテッド航空のマイルもせっせと貯めている。


5人までのメンバーがグループを作り、全員のマイルを合わせて、マイレージプーリング(Mileage Pooling)というものを作ることができる。


私がリーダーとなりプール(共同の蓄え)を作り、メンバーの誰でもが、そのマイルを使うことができる(私のグループでは使うのは私のみ)。


私は、姉、長男夫婦との4人でグループを作った。


なので、私は買い物では全てユナイテッド航空のクレジットカードを使う。


しかも、2枚のカードを使い分けないといけない。


カード1️⃣は外食、ホテル、年末の買い物、2️⃣は他の全て、というように。

4人あわせて現在68万マイル貯まった
日本までの片道プレエコは6.5万マイル必要
(エコノミーは5.5万マイル)


グループにはあと1人分空席がある。


が、何故かこんな時夫は使えない。


なぜか。


新しいルールというものを決して学習することができない

2025年3月4日火曜日

番外編 <初めての渡米 by 姑>

1954年、私は広島の高校卒業後、銀行で仕事をしたかった。


が、タイプライターの学校を卒業していたにもかかわらず、両親がいないことで就職できなかった。


近所の叔母の家に行っては、泣いていた。


叔母は親戚に、「あの子は日本にいる限り幸せになれない。」と言っていたようだ。



その頃、夫が私の写真を見て一目惚れした。


当時夫は婚約していた女性が自分を捨てて逃げたことで、失意のどん底にいた。


しばらく文通を続けたあと夫が来日し、私達は初めて会った。


文通しているうちにお互いに好きになり、1954年10月日本で結婚した。


そして、私は一人で渡米することになった。


が、アメリカまでは長い道のりだった。



渡米するにはパスポート、ビザ、胸部レントゲン写真が必要だった。


アメリカに移民として入国するためクラスを取り勉強し、テストを受けた。


1955年1月初めに広島を出て、アメリカに飛ぶことになった。


当時広島から東京までは汽車で16時間、その後羽田空港に行きアメリカ行きの飛行機に乗った。


JALは週に1便ぐらいしか飛んでなかった時代である。


私は1月最初の飛行機で日本を発った。


東京からサンフランシスコまではプロペラ機32時間の長旅である。


はっきりした時刻を覚えていないが、確か夕方羽田を出発した。


飛行機から見る東京の街がとてもきれいだったことを覚えている。


勿論初めての飛行機旅行だった。


ウェーキ島(Wake Island)に着いたのは朝6時。


当時は機内食というものがなかったので、朝ご飯はバスで食べに行くことになった。


おいしい朝ご飯のあと、飛行機に戻った。


ホノルルにお昼ごろ着いて、そこでコーラというものを初めて飲んだ。


が、まずくて吐き出した。


ホノルルの空港でランチを食べたあと、同じ飛行機に戻り出発。


機内で一晩過ごし、サンフランシスコ空港に翌朝6時に到着した。


航空会社が資生堂の大きな化粧品セット、立派な漆の盃2つ、などなどたくさんのお土産をくれた。


サンフランシスコではタクシーであちこち観光に連れて行ってもらったが、初めて食べたハンバーガーとフレンチフライが、あまりに美味しかったのが忘れられない。


サンフランシスコからデンバーまでは8時間かかった。

現在はサンノゼ空港から2時間半


ネヴァダ上空

コロラド上空


機内食がないので、ランチを買うための休憩をユタでとることになった。


お腹がすいていなかったから、私は何も食べなかった。


デンバー空港には、朝2時に着いたのだが、親戚全員が迎えに来てくれていた。


アメリカで初めて目が覚めた時、コーヒーの香りがあまりにすばらしかったことが、一生忘れられない。




7年後の6月23日、夫が亡くなった。



見通しの悪い線路には当時踏切もなく、トラックを運転していた夫は汽車に轢かれたのだった。



長男5歳、次男4歳、長女3歳、次女1歳半だった。


終わり良ければ全て良し・・・
いや、まだあと10年いけるかも?