2025年2月24日月曜日

ヤギ

コロラドでは3月4月、ドカ雪が降るらしい。

コロラドの雪はpowder snowと呼ばれる


降ると休校になることも多いので、コロラドに住む親たちは結構大変そうだ。



私は3日後にコロラドにUターンする。


2月20日から日本に行く予定だったが、次男の仕事復帰に合わせて私もコロラドに行き手伝うことにした。


転倒したあとというのは、必ず心臓の状態も専門医により調べられるそうだ。


そして、そこで次男の場合不整脈が見つかった。


現在1週間モニターをつけて生活しているらしい。


1月11日に転倒し額骨折、術後2週間半ワイヤーで歯を固定。

全身麻酔で歯茎から6本のピンを抜いた時の写真が
3日前マリーから送られてきた


30代の若者に不整脈はよくあることらしいが、次男の場合一応専門医により今後も要観察のようだ。


元々少し血圧が高いので(130/80)食事も今までの塩分の多い食事を見直しているところ。


まあ、これらは本人に任せればいいのだが、どうも私自身このところ気分が滅入って仕方ない。


カイザー病院の保険から、新しい保険システムに加入した途端、次々と検査を受けている。

待合室では20人ほどが待っていた


カイザーは保険が安い代わりに検査は年に1度の血液検査のみだった。


が、保険を変えたら、ガン検診ばかり受けているような気がする。


次は胃カメラである。


その前にピロリ菌検査も受けた。

紙のパウチに息を吹き込む検査


陰性ではあったが、こうして病院にばかり通うことで気分がどうも暗〜くなっていく。


いや、原因はそれではない。


何だかわからないのだが、気分が落ち込み、やっと上がり始めたところだ。



そんな時Mよさんから、近所で撮影した写真を見せてもらった。


去年は雨で小さな川が決壊し、被害が出たMよさんの隣町。


今年その地域では水害に備えて、川岸の草を始末することになった。


そんな時駆り出されるのは、なんとヤギ‼️


業者がトラックでヤギを運んで来るそうだ


毎日ヤギが草を食べていたらしい。

そして、2週間後にはすっかりきれいになった


ボーっと写真を見ながら、もうストレスのある生活はイヤだ、と考える。


ヤギ飼いになって、1日中ヤギを見ていたい

2025年2月15日土曜日

睡眠時間

もうホトホトいやになった。


冷蔵庫がサンクスギビング前日(11月27日、購入13ヶ月後)に壊れ、まだ直っていない。


Bosch(ボッシュ)というドイツのメーカーのものなのだが、1ヶ月後の12月23日に修理班がまず来た。

3つのネジ?の1つが足りないからまた来ます、と2つだけ新しいものに交換し、$280ボッタクって帰った。


1月3日に戻って来るはずがドタキャン。


1月24日ドタキャン。


2月7日ドタキャン。


いずれもその日は予定を入れずに準備していたのに、朝ドタキャンメールが来る。


2月12日にやっと来てくれたらしい(私はコロラドにいた)が、5つのパーツを新しいものに変えた。


が、直らない。


冷蔵庫はキッチンの中で存在感のあるものだ。


なのに機能していない。


こんな時、アメリカが嫌になる。


日本ではまずこんなことはありえない。


とはいえ、今後日本でも働き手の不足で起きる可能性はある。


サンクスギビングの前日壊れたのだから、もうすぐ3ヶ月になる。


いつか将来直る日があるのだろうか、という気持ちである。



さて、昨日コロラドから帰宅した。

コロラド明日からの気温


サンノゼ気温


次男の転倒による後遺症は色々とまだまだ問題が残っていて、そのことに関して少しずつ書きたい。

次男も孫1とキャッチボールができるほど回復しつつあるが・・・


コロラドにいる間は孫ズが私につきまとう。


7歳孫1はとにかくアクティブ。

ポゴというバネのついたスティックで
1000回以上ジャンプするほどの体力


4歳孫2は1日中お絵かき。

来る日も来る日もゴーストバスターズの絵を
描き続けている


夜は二人とも私の部屋で寝たがる。

私のベッドの横にマットレスを敷いて寝る二人


私が昨日サンノゼに帰ってしまった、と孫1が昨夜大泣きしたらしい。


私が孫のレベルで遊んだり話したりするので、楽しかったのだろう。


まあ、長くてあと2,3年のことだ。


私も祖母が我が家に遊びに来て、帰ってしまった日は大泣きしていたものだ。


が、私が夜あまり寝ていないのは、i-phoneの睡眠の質を見ると明白である。



このグラフは上が自宅にいる時の、下は次男宅で孫ズと寝ている時の覚醒時間を表している。



昨夜久しぶりに安眠



ばーちゃん寝させてくれや〜〜‼️

2025年2月7日金曜日

満州からの帰還 4/4

佐世保に着いた時は本当に嬉しかった。


私は叔父さん(母の弟松XX之)とその娘陽子さんの家に行こうと思い、広島県にある八本松駅まで汽車で行くことにした。


川本のおばさんたちは、八本松駅の一つ後の駅で降りる。


私は八本松駅から竹仁という小さな街までバスに乗るつもりだった。


竹仁に叔父さんの家があったので、バス停から歩こうと思ったのだ。


私がバス停を探していた頃、一つ後の駅(志和駅と記憶している)で降りた川本のおばさんたちは私の父にばったり会った。


父はその志和駅から広島駅に行くところだったのだ。


広島駅に行き、私を探すための新聞広告を出すつもりだった。


NHKラジオの人探しコーナーでも、私を探していると毎日放送されていたようだ。


駅でバッタリ父に会った川本のおばさんは、父に私が八本松駅で降りた、と話した。


父は駅員さんに、自分の娘が今八本松駅にいる、そこに自分が行くまで動かず待つように伝えてください!と頼んだ。


八本松駅では駅員さんが私のバッグに書いてある名前を見て、「今お父さんが来るからここにいてください!ここから動かないで!」と言った。



しばらくすると父の乗った汽車がホームに入ってきた。


顔を真っ赤にしたお父ちゃんが、私に向かって走って来る。 「完」



これではこのドラマの感動はなかったかも

2025年2月5日水曜日

満州からの帰還 3/4

姑に戦時中の話を聞き始めたのは、半年ほど前になるだろうか。


姑は次女家族と住んでいるが、私がコロラドで滞在する次男の家からは車で30分ほど離れている。


なので、何度かに分けてインタビューしたのだが、こうしてまとめているうちに食い違いが出てくる。


で、電話をして掘り下げて聞くのだが、話すことで姑の記憶がだんだん蘇ってくるそうで、「長いこと忘れてたことを今になって思い出した!」となる。


最初に聞いた話と少し違ってくる。


なので、最初は「母と妹と3人で日本に帰ってきた」と聞いていたものが、実際はもう母妹は亡くなっていた、と何度か話しているうちにわかった。


これは姑が忘れていたというよりも、話しているうちにどこかで食い違いが発生したのだろう。


二人が死んだ年も思い出した、ということ。


なので、このシリーズの第一回と第二回は、少し書き換えた部分もある。


 ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞


京城に着いた私たちは、港にあるアメリカ軍の施設の中に入り、全員が裸になってシャワーを浴びさせられた。


シラミがついている人はシラミ退治をされたが、幸いにも私にはシラミはいなかった。


シャワーというものを浴びるのは初めての経験だった。


着ていた洋服が洗濯され、乾燥までしてある。


暖かい清潔な洋服に着替えた私は気持ちが良くて、ハンサムな若いアメリカ兵士たちはなんて親切で優しいんだろう、と感謝した。


それから日本の大きな船に載せられて(100人以上乗っていた)日本に向かった。


船長や船員が皆真っ白な制服を着ている。


「赤いリンゴ」の歌を船の中で聞きながら、これもまた真っ白な日本の船はなんてすばらしいんだろう、としみじみ思った。


日本の船員たちも皆親切で、私達にとても良くしてくれた。


満州からは一緒に帰った人たちが同じ船に乗っている。


川本のおばさん(と私は呼んでいた)、おばさんの娘二人(一人は私と同じ年齢)と、お嫁さんも一緒だ。


あとで知ったことだが、父、兄たち、姉は、この頃にはもう風の便りで母と妹が死んでしまったことを聞いていたらしい。


船は佐世保に向かっている。


80年後にここまで日本が復興するとは、
誰が想像したことだろう

2025年2月3日月曜日

満州からの帰還 2/4

終戦から4ヶ月後、12月26日に妹が亡くなった。


妹は奉天でもよく入院していた。


昔から病気ばかりしていた、身体の弱い妹だった。


薬もなく、医者を見つけるのも大変な世の中だったのだ。


その悲しみのせいもあったのだろう、母が翌年1月18日早朝眠るようにして亡くなった。


寒いからお母ちゃんのへり(そば)に寄って寝なさい、と私に言ったのが最後の母の言葉だった。


母が死んだのは悲しかったが、周りは親を失った子も多く、皆で暮らす楽しさもあった。


中の一人の笑い方がおもしろいので、その子が笑うと伝染したように周りが笑うのだ。


朝鮮の年配の男性が、約100人の日本人たちに家や学校を確保してくれていた。



皆でそうやって暮らしているうちに、1947年になった。


私は日本に帰りたかったが、朝鮮を出る手段がない。


が、ある日その年配男性の計らいで船を雇い、夜中にこっそり沖に出ることになった。


家を出る前に、同じグループの皆で家を掃除した。


どこからともなく、「松XX之」という名前と住所を書いたクシャクシャになった紙が出てきた。


母の弟、つまり私の叔父の名前である。


私はとっさにその紙を自分のポケットに入れた。



航海中、私は隠れながらも時々デッキに出た。


1週間ほどたった頃だったろうか、小さな漁船が来た。


漁師が魚を買ってくれないか、と言っている。


誰かがお金を出した。


が、漁師は「ここは韓国だから朝鮮のお金は使えないよ。」と言った。


(朝鮮が北朝鮮と韓国に分割されたのは1948年なので、この時点ではどういう通貨が使われていたかは定かではない。)


漁師の言葉で、ここは南だ!とどよめいた。


遂に韓国に着いたのだ。


 ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞


つくづく思う。


なんでいがみ合うのだろう。


なんで戦争するのだろう。


なんで殺し合うのだろう。


ここで縄張り争いをしているのは、アイドルだけ