それは父に対する罪悪感が原因なのか。
それとも、これから先の自分の人生に対する不安からか。
多分両方だろう。
二つ注文した父の補聴器のモールドは一つ1万円だが、一つ分だけは福祉の補助があると補聴器センターで言われ、見積書を区役所に持って行った。
父の認知症の進行は遅々としたもので、話が通じにくい日と、記憶もしっかりしている日と様々だ。
去年は野菜の名前が一つも思い出せなかったのに、昨日は『ねぎ、大根、生姜、梅、レンコン、ごぼう、苺』と次々と言えた。
自分の体調に対しての不安があるのはいつものことだが、「ワシは絶対に無理はせん。」と言い続ける。
その辺のポリシーは一生変わらないらしい。
私を見て娘とはわかるが名前はすぐに出てこない。
昨日は朝から忙しく、夕方父のところに行った時にはかなりの疲労を感じた。
今までは父を楽しませてあげよう、とノンストップで話しかけてあげたものだ。
昨日はそれをやめた。
難聴の父にずっと話しかけるのは体力を要する。
それも父は楽しい話相手ではなく、不安を言い続け、家族がその不安をしっかり受け止めてあげないと満足しない人なのだ。
声を出すと疲れるから歌もいやだという昨日は、ただただ横に座ってポツリポツリとだけ話しかけた。
それでも父は「あんたが来たら楽しいなあ。」と安心するようだ。
1時間半一緒に過ごして帰ることにした。
父は私や姉に、もっといてほしいと懇願することがほとんどだが、昨日はすんなり帰ることができた。
今度はいつ来れる?と聞く父に『明日の朝。』と嘘をつく時も悲しい気持ちになる。
父は明日になったら覚えていないのだ。
帰り道、暗い思い出が呼び起こされる景色があちこちにある。
幻覚症状があった頃の父がホームを逃げ出して座り込んだ縁石。
その時父が『助けてください。』と入って行った交番。
見るのがつらい場所はたくさんあるのだ。
だから父が死んだらもう京都には住みたくないなあと思う。
父が好きだった鰻丼を見るのもつらい。
鰻が高いので、父はいつも穴子丼を食べていた。
ついこの間まで、父はおはぎやあんパンを、おいしいおいしいと喜んで食べていたのだ。
父のために淀屋橋にあるパン屋さんに、全粒粉ゴマあんパンを買いに行ったものだ。
今や父が食べられる固形物はほとんどない。
もっと鰻丼を買ってあげたら良かった、と伊勢丹の地下にある鰻屋さんの横を通り過ぎるたびに胸が苦しくなる。