2019年2月27日水曜日

日本国籍を喪失すること 1/2

遂に日本国籍を失ってしまった。2010年8月にアメリカ市民権を取得した後も、アメリカにおいては二重国籍保持者だった。日本は二重国籍を認めないのでいずれ日本国籍を喪失するのは仕方ないと思っていたが、いざ喪失するとなるとなんとなくもったいないような、寂しいような。

日本への出入国もアメリカのパスポートを使っていたし、日本のパスポートも更新していない。わざわざ喪失届なんて提出しなくても、と思っていたが、京都の実家を姉のものとして登記する必要がある。登記するためには相続人の印鑑証明が必要だ。でも住民票のない私は印鑑証明を取ることができない。その場合必要になるのがサイン証明だ。

サイン証明を取るために、12月から降り止まない雨の中サンフランシスコのファイナンシャル・ディストリクトにある領事館に行く。

去年の山火事の時にはあんなに降らなかった雨
今は降り止まない

アメリカ市民権を取得した時の証明書、日本から送ってもらった戸籍抄本、日本とアメリカのパスポートを提出した。とても感じのいい女性係員に喪失届の書類、市民権取得証明書の和訳(その場で簡単に書き込めるような内容)用紙と証明書発行申請書を渡される。

ひと昔前なら外務春子だったのかもしれない


全て日本語で書き込むので、例えばアメリカの住所が、

123 Miranda Street
San Jose, CA, USA

だと、アメリカ合衆国、カリフォルニア州、サンノゼ市、ミランダ通、123番と書く。そのあたりがわかりにくい。

世帯主の氏名のところに夫の名前を書かないといけないことに
なんとなく反発


とにもかくにもサイン証明を2通発行してもらい、これを3月に京都の法務局と銀行に提出して相続をすませる。法務局では遺産分割協議書と共に、銀行では銀行の相続用紙と共に提出。サイン証明というからアメリカで署名する時のようにアルファベットで署名したものを提出するのかと思っていたが、日本での書類ではアルファベットを使うことはないのだそうだ。だから、戸籍に記載されている日本名を書き、印鑑の代わりに母印を押す。それを元日本人としての私が領事館の係員の目の前で署名しましたよ、と証明されるというわけだ。

日本人ではなくなった私がどうやって相続書類に署名するのかなあ、としばらく疑問に思っていたがこれでやっと解決してスッキリした。こうやって一つ一つ学んで行くのだ。

そういえば今日もう一つ学んだことが・・・


私の親指
デカい・・・

2019年2月14日木曜日

LOVE❤️

恐ろしいことが起きた。



いつものようにピーツでEnglish Breakfast(紅茶)とバナナマフィンを注文。



紅茶を手渡され、マフィンを待つ。



待ち遠しそうな顔でその場を去らない私を見た店員さん。


👩何か?
🐽まだマフィンもらってませんけど・・・
👩さっきあげたでしょ。(不審気な表情で)
🐽・・・


そんなはずはない、と思いながらバッグの中を見ると、ちゃんと入っているではないか!

最近マイブームのBanana Blueberry Muffinは糖質28g!!



父のアルツハイマー病が進行していく様子は忘れない。



昔のことは覚えているのに、数秒前から数日前までに起きたことは忘れているのだ。



進行していくに従って、数年前に起きたことも忘れるようになった。




アルツハイマー病を発症(診断は2010年)して5年後(2015年)には母が死んだこと(2010年)さえ忘れてしまった。



自分の親のことはずっと覚えていたのに。



最期(2016年)は私のことも懐かしい人だとはわかったようだが、自分の次女だということを認識できなかった。



父も祖父もアルツハイマーにかかったのだから、私もアルツハイマーになる可能性は高い。



介護が必要になる認知症や脳梗塞などの病気が一番怖い。



だから生活習慣病に気をつけないといけないのに、なかなかそれが実行できない。



そして物忘れが日々ひどくなりつつある。




感動などの強い気持ちをを伴って起きた出来事は忘れないと言う。



特にアドレナリンのような怒りや危険が迫った時に出る脳内ホルモンはドバッと出るので、その出来事は長い間忘れないそうだ。



そうかもしれない。



例えばこの写真を見ただけで、これは11月29日に新大阪駅『弦』で食べた、とろろご飯、蕎麦、小鉢セットで値段は980円だった、と思い出せるのだ。



幸福を感じる時に出るセロトニンが出ていたせいなのだろう。



一番いいのは恋心を持つと出るドーパミン。



ドーパミンが出ることで若々しくなり、体内年齢も脳も若返るそうだ。




しかし、ここ何十年も恋心を持つということは、ない。


いや、あるにはある。



最近映画館に3度足を運んだ『ボヘミアン・ラプソディー』



この映画でフレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレックに恋心を感じた。



いや、ラミ・マレックに感じたのではない。



ラミ・マレックが演じたフレディ・マーキュリーに恋心を持った。



つまり、ラミ・マレックがこれから他の人を演じても恋心を持つことはないだろうし、フレディ・マーキュリーに恋心を持つこともない。

別に彼の筋肉がいいというのではなく、
この歌のシーンが特に好きだっただけですが


ラミ・マレックが演じたフレディ・マーキュリーだけが好きなのだから、これ以降ドーパミンが出ることはなさそうだ。



なら、脳内ホルモンを出すには美味しいもの(例えば下の写真のようなサンマ丼とタヌキ蕎麦セット)を食すことしかないではなかろうか。

ドバドバドバ(ドーパミンとセロトニンがほとばしり出る音)

2019年2月13日水曜日

百均テープ

早速札幌のお医者さん、H先生からお返事をいただいた。

今朝は一層右瞼が下垂していた
目の全体像の写真を載せられないので、わかりにくくてスンマヘン

結論を言えば、このH先生に手術はしていただけない。なぜなら国民保険を持っていない人の手術はしないこと、札幌と京都は遠すぎる、という理由からだ。だから浜松のお医者さんを勧めます、とM先生の名前をくださった。

外国人の特典として日本国内でのレールパスはよく知られていると思うが、実は飛行機の特典もある。日本中どこに飛んでも何時のフライトでも片道$100というものだ。ANAでフライトもチェックしていたのに残念だ。札幌のホテルは東京に比べるとシーズン外はとても安い。

札幌、という言葉でかなり盛り上がった気持ちがシュンとなってしまったが、静岡はマイブームの場所だ。よし京都から浜松に行き診察を受けた後、清水に行き海鮮丼を食べるか、それともうなぎを食べるか?

浜松は京都からだと1時間半ぐらいで行ける。駅からクリニックは遠いが診察は日帰りでできるのだから、こちらの方が良かったかもしれない。このクリニックを紹介してくださった札幌のH先生はとても良心的だと思う。H先生は聖路加病院でご自身も眼瞼下垂手術を受けられたそうだが、クリニックのサイトでH先生の写真を見ると7年経った今も瞼はすっきりしている。が、聖路加病院は紹介状が必要で受診するのは簡単ではなさそうだ。

幸い浜松のクリニックに電話したら3月中旬に予約が取れた。まずは受診してその後手術のことを決めることになるのだろう。手術をするとしたら夏か秋にまだ日本に行くか、などと考える。

このクリニックの院長M先生はためしてガッテンにも出演したことのあるお医者さんらしい。でも、クリニックのサイトで眼瞼下垂手術に関する記事を読んでいると不安になる。とはいえ、この一日中涙が止まらない生活にももうこれ以上耐えられない。

5歳年上の姉は去年から二重まぶたにするためのテープを瞼に貼っているそうだ。それだけでも瞼が少し上がるということ。ダイソーで買ったというそのテープを封筒に入れて送ってきてくれた。これで瞼を持ち上げれば涙目にもいいんじゃない?と言う。


これがそのテープ
しかしこのテープ、薄い上に細い!瞼のどこにつければいいのかもわからない。つけてもはがれる。指にくっついてヨレヨレになる。20枚ぐらい使って悪戦苦闘したが、どうにかつけられた。

ふ〜む。なんだか瞼が少し上がったような気がするぞ。お金もかかるしちょっと怖いし、手術はやめてテープにするべき?

眉を少し描いてみた


気のせいか涙も今日は減ったような気がする。よし、当分はこれで行こう!

パワー of 百均

2019年2月12日火曜日

右目トラブル

年をとると色々な障害が出てくるものだが、最近私を悩ませるものの最たるものは涙だ。それも右目だけ。

12月に眼科で診察を受けた時に、涙目の原因は眼瞼下垂だろうと言われた。それ以来症状がますますひどくなり、先週のある朝目が覚めたら目ヤニで右目だけ開けることができなかった。そして友人と話していても涙が止まらず、『あなた涙が止まらないのね。』と指摘されることが多くなってきている。

ティッシュが手放せない。車を運転していてもしょっちゅう右目を拭く必要がある。

これはいよいよ眼瞼下垂手術を受けないといけないのかもしれない、と腹をくくることにした。

5年前の写真  右目の眼瞼下垂が少し始まっている
が、スッピンでもまだまつ毛が見える状態

64歳になる友人が去年ベイエリアのある医院で眼瞼下垂手術を受けた。友人は瞼を5ミリ切る手術を受け、結果に満足できずその後どんどん瞼を切り続け合計4度の手術で1センチ以上切ってしまったようだ。が、自分が思っていたような結果にはならなかったらしい。

「アメリカで手術すると白人の目になるのかしら。なんだか少し落ち窪んだみたい」と満足できないようだ。やっぱり日本で手術した方が良かったのかなと言う。

そうかもしれない。日本のお医者さんは瞼をどんどん深く切っていくのではなく、切れ長に切るようだ。

今日現在の写真、お化粧して13時間後
左目(こちらも眼瞼下垂が始まっている)にはマスカラが残っているが、

右目はお化粧が涙で流れてしまっている
そしてまつ毛は瞼に隠れて全く見えなくなっている

姉の知人で京都で眼瞼下垂手術を受けた女性が、この先生のクリニックで手術を受けたら良かった、という札幌のお医者さんに連絡してみた。札幌は遠いがやはりいい先生に執刀してほしい。

私は国民保険もないし、札幌往復には費用もかかる。まだ返事待ち段階だが、一応夫に話しておかないといけない。

「手術費用プラスホテル滞在でちょっとお金がかかると思うけど、もう日々の生活に支障が出ていてつらくて仕方ないから手術を受けたいと思う。」と言うと夫は破顔して「グッドアイデア!」と言うではないか。

そんなに私は眼瞼下垂が進んで醜いのか?とムッとするがまあ仕方ない。老後預金が減ってしまうことに夫が文句を言わないのだから、大目に見ようではないか。

が、夫が喜んだのには訳があった。どうも自分も一緒に札幌に行くつもりらしい。単純な夫のこと、彼が考えることは手に取るようにわかる。

Ramen Sapporoで検索した画像を食い入るように見つめる夫

2019年2月7日木曜日

国籍喪失届を提出するにあたって、古い日本旅券を持ってきてくださいと領事館の職員に言われた。



見てみると母の介護をしていた頃は毎月アメリカから日本か、日本からアメリカに移動している。



日本に1週間の滞在でアメリカに帰国することもあれば、2ヶ月の滞在の時もある。

最後のスタンプは2010年8月

日本に滞在中、介護からの唯一の息抜きが夕食の買い物にスーパー行く時だ。



なのに30分で帰ってこないと『何か事故があったのではないか。』とか『母の熱が37度もある。すぐ看護師さんに連絡してほしい』と不安神経症の父から携帯に電話がかかってくる。



京都の家を出る時は、両親を残してアメリカに帰国してしまうことへの罪悪感、そもそもアメリカに移住という自分勝手なことをしてしまったという後悔が心を重くしていた。



とはいえ、やっと気候のいいカリフォルニアに帰り、介護のことをしばらく忘れられる、という開放感は大きかった。



姉はそういう開放感を持つことがもう何年もなく、いつも出口のないトンネルの中にいたような気がしていたらしい。



でもそのことで私を責めることはなかった。



だから日本滞在中は、普段姉がしていた介護をできるだけ私が引き受けるようにした。



そして私が帰国した途端父は姉に心底頼り、何か不安があると職場にいる姉にすぐ帰ってきてくれと叫ぶように電話するのだった。



会議のあと机に戻ってみると、携帯には13回の着信履歴が残っていたりすることもあったらしい。

父がいつもそばに置いていた姉の電話番号


両親ともいなくなってしまった今、後悔、悲しみ、懐かしさを持って二人を思い出す。



が、それでもこの先親が苦しみながら死ぬのではないか、お金が続かなくなるのではないか、自分自身が健康を損なって介護できなくなるのではないか、といった不安がなくなり、やっと介護が終わったんだという安堵感もある。



去年の11月12月は、介護がなくなって以来初めて、姉と夫と3人で神社仏閣を廻った。



やはりこの時もできるだけ拝観料を払いたくないので、安いところあるいは無料のところを優先的に訪ねる。


いつも行く南禅寺水路閣ー無料
六義園ライトアップ−300円
夫のために大判振る舞い、東福寺ー400円
東寺ライトアップ1000円!!!
が、なんと!門前にいたカップルに
『拝観券が余ったので差し上げます』と無料で拝観券をもらってしまった!


こうして、京都や東京で観光をしている時も、突然ホームの相談員さんから父のことですぐ来てくださいと電話がかかる心配もなく、ゆっくり過ごせるのが嬉しかった。



こんな時姉はやはり一緒に戦った戦友なのだなあと思う。




京都最終日、夫が醍醐寺に行きたいと言う。



行ってみると醍醐寺は、紅葉シーズンのため拝観料が普段の800円から1500円に跳ね上がっているではないか!



腹が立つが仕方ない。



夫だけを入らせて私と姉は外で待つことにした。



夫を待つ間姉が言う。「醍醐寺は五重塔をただで見られる場所があるって聞いたわ。」




「見つけた!」と西大門と霊宝館の間にある土手をよじ登る姉。

こんな時姉との強い絆を感じる

2019年2月5日火曜日

東京のマンション

どこでもあなたの好きな場所に家(マンション)を買ってあげます、と言われたらどこを選びますか?

アメリカと日本以外ほとんど知らない私(台湾・韓国は仕事で数日滞在、あとはカナダに4度家族旅行)が選ぶのはやはり日本だ。特に去年12月の滞在でメトロ24時間乗車券というお得なチケットを発見し、東京の新たな魅力を知ってからは東京に部屋を借りてしばらく住んでみたい。

東京をよく知っている人なら六本木、乃木坂、赤坂、麻布、青山などを選ぶのだろうか。が、私には華やか過ぎて気後れしてしまう。


クリスマスデコレーションは丸の内が一番好み

私が住みやすそうと感じるのは神楽坂だ。東京駅に近い、庶民的、赤城神社も趣がある、食べるところも多い、とパーフェクト。だから神楽坂に住んでみたい思う。日本で高齢の、それも仕事をしていない女性がマンションを借りるのはほぼ無理らしい。ではマンションを買うとしたらいくらぐらいなのだろう。

友人Sえさんに神楽坂にマンションがほしいなあ、と言うと『それはみんなそうなんです、でも高いから買えないんです!』というお答えだった。なるほど。

ランチに通った神楽坂『魚SEN』
しかし!去年10月に閉店してしまった!

そうですか。では東急田園都市線と井の頭線沿線ではどうでしょう(この選択理由については後日説明します)。田園都市線なら友人のMささんにも簡単に会いに行ける。イリノイ州在住でありながら、田園都市線の駅から徒歩1分の立地にマンションを買ったMささんは、8月の竣工・引き渡しを待っているところだ。

東急田園都市線と京王井の頭線沿線、それから神楽坂で築15年以内、駅から徒歩10分以内、南向き、3千万円以下という条件で検索してみる。何もヒットしない。多分この地域では5千万円ぐらいはするのだろうという予想から金額設定を一気に2千万円あげる。

出てきた。

東急田園都市線駒澤大学前駅徒歩5分
築6年 1LDK 43.62㎡
南西向き
4480万円

京王井の頭線高井戸駅徒歩4分
築8年 2LDK 56.18㎡
南西向き
4980万円

東急田園都市線桜新町駅徒歩9分
築7年 2LDK 50.98㎡
南西向き4980万円

東西線神楽坂駅徒歩10分、都営大江戸線牛込柳町徒歩5分
築2年 1LDK 40.0㎡
南西向き
4980万円

やはりこんなに高いのか・・・


では、とSえさんが『この辺りなら少し安いし住みやすい』と教えてくれた練馬(Sえさんの実家のある所)を見てみる。

西武池袋線練馬駅徒歩5分、桜台駅徒歩4分
築10年 1DK 31.65㎡
南向き
3180万円

やはり練馬も高い!


一昨年の冬、街を歩いてみて住みやすそうだなと感じた根津は?

根津神社も良い

千代田線根津駅徒歩4分
築9年1LDK45.85㎡
南西向き
3780万円

やはり私が買えそうなマンションはなさそうだ。12月に東京滞在を満喫した夫に言ってみる。「東京に小さくてもいいから一つ部屋があるといいよねぇ。」

夫の返事はシンプルなものだった。

「マンションがほしいなら働いたら?」

ごもっとも。

東京で下宿人をお探しの方
いらっしゃいましたらご連絡ください

2019年2月3日日曜日

父のハンカチ

父の死から2年半がたった。



そして最近父のことをよく考えるようになった。



多分今までは父のことを考えないようにしよう、と思い出をブロックしてしまっていたのだと思う。



父は自分の趣味や母のためには思いがけないお金を使うことはあったが、娘たちに1円でも多くお金を遺したいと考える人だったので、色んなところで節約をしていた。



こう書いていて気がついたが、これは私の夫がよく似ているところだ。



自分の趣味のためにお金は使わないが、息子たちに1セントでも多く遺したいとせっせと貯金をしている。




1970年代から母の介護のため父は働きに出ることができなくなった。



母の介護補助金(薬害のため国から少額だが補助金が出ていた)と自分のなんらかの収入を必死で節約する。



千円でも貯まればそれを投資して少しでも増やそうとしていた。



日々暇さえあれば、外貨預金や投資信託の記事を、スクラップブックに貼り付けていた姿を覚えている。

父のスクラップブックから出てきた切り抜き(これは東京銀行?)
昭和55年頃、郵貯固定金利貯金などは10年で2倍になったらしい




父の預金は少しずつ増え、孫たちにおもちゃを買ったりお小遣いをあげたり、私が介護往復をする時に飛行機代を負担してくれることはできるほどになったらしい。




孫煩悩だった両親
これは父が67歳の時


なのに、後年私が父を病院に連れて行ったあとモールでお買い物をしようと言っても、父は百均にしか行きたがらなかった。




父の遺品を整理すると、父が遺したものはほとんど百均のものばかりだった。



百均の物を買う時だけ、父は無駄遣いをしているという感覚がなかったのだろう。



父の物は父の死の10年ほど前から少しずつ姉と私とで整理していた。



なので、遺品は気が遠くなるような量ではなかった。



便利グッズが多かったが、値の張るような物もない。


こういうものばかりだった


だが、その中の一つの物を私は大事にしている。



ベッドサイドテーブルに入れて、時々取り出しては父を懐かしむ。



それがこれだ。

父特製タオルハンカチ



タオルのハンカチがほしい。



でもタオルは家にたくさんあるから、わざわざハンカチを買うのはもったいない。



なら、そのタオルを切ってハンカチサイズにすればいいのではないか。



父はそう考えたのだろう。




が、仕事と介護で忙しい長女(私の姉)に縫い物を頼むわけにはいかない。



次女の私はアメリカに住んでいる。



だから父が一針一針縫ったのだろう。



この縫い目を見るたびに、なんでもう少し父に優しくしてあげられなかったのだろう、と私は今でも涙する。




一応色の組み合わせは良いが




私にひとこと言ってくれればもう少し綺麗に縫ってあげられたのに。



そう思いながら、自分の履いているパンツの裾上げしたところを裏返してみる。



父に負けとるがな