2025年1月31日金曜日

満州からの帰還 1/4

今日から何度かに分けて、姑が戦後満州にいた時の話、そしてその後日本に帰ってきた話を書こうと思っている。


書き進めていくうちに、いくつか辻褄の合わないところがあるので、インタビューを重ねつつ記録している。


例えば最初は姑が一人で帰ってきた、と聞いていたが、よくよく聞いてみると違うようだ。


とにかく、この話を普段の生活に関してのみのブログの日も交えながら、しばらく書いていきたい。


このブログにコメントをいただいたお二人の体験談、あるいはお二人のファミリーヒストリーとしてのお話も、改めて紹介させていただこうと思う。


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第二次世界大戦時、私は父の仕事の関係で家族と満州の奉天市に住んでいた。


終戦(1945年8月15日)の1週間前、ロシア軍が攻めて来た。


ロシア兵から避難するため、女子供100人ぐらいがそこに来た日本軍の2,3台のトラックに分かれて載せられた。


荷台に乗った私たちが着いたのは奉天駅。


奉天駅から平壌まで汽車に乗ったのだが、汽車の中で一夜を過ごす長時間の旅だ。


その時私は12歳、5歳下の妹と母と一緒だった。




当時18歳の長兄は奉天の日本軍にいた。


15歳だった次兄(現在東京在住)は、避難したくないと言って奉天に残り学校に行った。


次兄は未だにそのことを後悔している。


戦後腎臓を悪くして亡くなった母を守るために、一緒に行くべきだったと思ったのだ。


父は属官(官司に所属する官人。次官以下の職員)としての仕事、22歳の姉も仕事があるので、奉天に残った。



平壌に到着して、ある日本人の所有する大きなお屋敷に住むようになった。


朝鮮人の女中が何人もいた。


日本人は朝鮮人を丁寧に扱わなかった。


何人がそのお屋敷に住んでいたかは覚えてないが、1週間後終戦になった。


私は13歳で、周囲の人々が泣いていたが意味がわからなかった。


誰かが「日本は戦争に負けた」と言った。



父と姉からあとで聞いた話によると、その頃ロシア軍が家に来て、「娘(姉)を出せ」と言った。


2番目の兄が「姉はいない」と言った。


父、姉、二人の兄は当時、軍の官舎に住んでいたのだが、隣の家と彼らが住んでいた家の、屋根裏部分の間にあった壁を取り払い、お互いが行き来できるようにしていた。


ロシア軍が来た時、姉は屋根裏経由で隣の家に隠れていたのだ。


こうして、姉は事なきを得たが、父は足を撃たれたこともあった。



日本が負けたことで、朝鮮半島は日本の植民地支配から開放された。


そして、朝鮮人の中には態度が変わり始めた人もいた。


年配の人は良くしてくれたが、若い人たちは横柄な態度を取り始めたのだ。


多くの日本人たちは、朝鮮人をバカにしていたが、私の母は決してそんなことをしてはいけない、と厳しく言った。



その頃、父、姉、兄二人は葫芦島から船で日本に帰国した。



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こうして姑から聞いた話をブログでまとめているうちに、いくつかの食い違いに気づいたので、食事をしながら質問する。



が、姑も忘れていることも多いし、なかなか進まないが、時間をかけてインタビューしながら進めていきたい。




鍋焼きうどんと天ぷらを注文する姑の生命力はすごいなあ、と毎回思う。



それに比べて私が食べたのは、サーモン、サラダ、オレンジのみ
が、パンとお菓子で補填する

2025年1月27日月曜日

シリコンバレーのお葬式事情

友人の友人(69歳)のご主人(71歳)が、朝起きたら亡くなっていたそうだ。


パーキンソン病はあるが、前日まで普通に暮らしていらしたということ。


お葬式の準備を始めたら、サンノゼ(シリコンバレー全体?)の驚愕の現状がわかった。


火葬のウェイトリストはとんでもなく長く、1ヶ月先まで順番が回って来ない。


両親の死の際に思ったが、火葬する時の悲しみは大変なものだ。


とはいえ、そうすることで気持ちを整理し始めることができる。


その日が来るのが遅ければ遅いほど、その分悲しみを引きずるような気がする。


それが、1ヶ月!


その間実際に遺体に会いたいと言う弔問客もあることだろう。


その場合、冷凍庫(と友人は言った)の引き出しを開けて遺体に実際に対面するには、毎回$100かかるということ。


誰かの弔問が10回あったとしたら、それだけで$1000。


死を悼むどころか、そろばん計算機をパチパチしそうだ。


調べてみると、サンノゼでの火葬費用は$1195から$2350、お葬式は$1575ドルから$9280ドルということ。



今回姑と義妹2人が我が家に滞在していた時、3人は本当に元気だなあ、とつくづく思った。


食べるものを見てもそう感じる。


例えば以下の写真は、近所のレストランに朝食に行った時のもの。

義妹1はチーズたっぷりのハム、ポテトにトースト



義妹2はハッシュドポテト、オムレツ、トースト

夫はハッシュドポテトとスパニッシュオムレツ


私はパンケーキ普通サイズ1枚


とこんなところでも、生命力の違いを感じる。


92歳の姑が食べたものはこれ⬇️


あと20年はいけるでしょうな

2025年1月25日土曜日

義妹たちとコロラド移動

コロラドに来て3日目。

義妹たちは雪でサンノゼに来る時2時間遅れたので
$100金券を受け取ったらしい!



こちらに来るフライトは姑、義妹2人と一緒だった。

機内はガラガラ


姑に腹を立てながらも、世話をする義妹たち。


どうしているのか、と電話で様子を聞いてくる義兄。


姑は幸せだなあ、とつくづく思う。

髪がフサフサなので、抜け毛があるかどうか聞いたら、
「1日に3,4本は抜けるよ」ということ


今回はコロラドで初めて雪道を運転したが、路上の雪はすぐ溶けるので思ったよりは怖くない。

車庫から出たところ


次男は怪我のあと、最初の数日で4㌔ぐらい体重が減ったそうで、痛みもまだある。


前歯2本を含めて3本の歯が折れたので、それを直すまで日本には行けない。


もちろんまだ口に入れられるものは、ストローで飲めるものだけ。

ベビーフードの他に買った出来合いのスープ


写真のような出来合いのスープを買ってきて、ブレンダーで液状にし、こし網で粒が残らないようにヘラで濾し、ストローで飲む。


これが三種の神器


MRIによると脳震盪はなかったそうだが、近いうちに心臓内科の専門医の診察を受けるようだ。


これは転倒したあと、受けるべき検査らしい。



さて、姑が満州から日本に帰還して来た時のことを、近いうちに何度かに分けて書きたい。


この記録は、私が一番好きな夫側の親戚R叔父さんさんに最初に送るつもりだった。


が、義妹たちが「R叔父さんはコントロールフリーク(状況や人々を支配したい人)だから、送ってはダメ!」と口を揃えて言う(この発言こそちょっとコントロール・・・?)。


知的でユーモアのセンスもあるR 叔父さんがコントロールフリークとは思えないが、そこまで言われると送ることはできない。


約束を反故にしたようで気になるが、少し時間を置いて送ろうと思う。


フサフサ真っ黒髪の義妹には絶対勝てない‼️

2025年1月19日日曜日

ベビーフードと胃カメラ

明日から姑+義妹X2が、我が家に滞在する。


3泊である。


その寝床の準備で忙しい。


もしかしたら、明日のコロラドは雪で飛行機が飛ばないかもしれないのに。

コロラド都市部の気温

サンノゼの気温

いつも温暖なサンフランシスコが懐かしい


私はその数日後コロラドに飛ぶ。



昨日、まだ定期的な収入のない次男のために、タンパク質を多く含むベビーフードを買って、彼の家に届くように手配した。



上の写真を見ると、先月400個が購入された、と出ている。



12月全米でたった400個?



富裕層でない限り、6個で$27(日本円にして4200円)、つまり1パウチあたり700円のベビーフードを、日々赤ちゃんのために買うのは大変だ。



が、タンパク質含有量は高い!


高くてもベビーフードしか食べられないのだから、金持ちではない私たちも買うしかない。


痛みはあるが、ベッドで仕事はしているようだ。

歯はワイヤーで留められていて口は閉まらないし、
唇もかなり腫れている状態


一方私は昨日消化器内科の専門医の診察があり、胃カメラについて話した。


医院の待合室

診察室
お医者さんはコンピューターで問診/入力する


その前にピロリ菌があるかどうか調べましょう、ということ。


その後胃カメラを撮りましょう。


胃カメラはなんらかの鎮静剤を静脈に注射して撮るのだと思う。


20年近く前に撮った時、知らないうちに検査が終わっていた。


だから胃カメラ検査を受けることは怖くない。


が、説明書の患者の顔を見るとビビる。

なんかコエーよ〜〜

2025年1月15日水曜日

次男の怪我と植木の伐採

次男が大怪我を負った。


転倒し意識を失い、目が覚めた時には顎の骨は折れ、顔の3箇所に裂傷、そして歯が数本折れていたらしい。


CTで脳は損傷を受けていないことを確認、全身麻酔手術に備えて胃の内容物が空になるまで一晩入院。


翌日手術を受け、夜遅く帰宅(日本なら多分1週間は入院するだろう)。


術後、病院のベッドで休む本人からメッセージが来て知った。


術前にメッセージを送ったら、私が心配するだろうから、術後に送って来たのだろう。


それは正しい判断だったと思う。



実は次男は、2月に私と一緒に仕事のことで日本に飛ぶ予定だった。

数年ぶりに関空に飛ぶ予定だった


が、今はワイヤーで口が閉じられた状態。


2週間後に外れるが、身体はある程度衰弱していて、元に戻るまで時間がかかるだろう。


数本折れた歯の治療も必要である。


その時の状態で日本行きは決めることにした。


 

本当に人生、全てがうまく行っていても、次の瞬間には何が起きるか誰にもわからない。


LAで火事に遭った方々も同じ思いだろう。


2018年の火事によって起きた現象、サンフランシスコの不吉な赤い太陽を思い出す。

実際は写真よりもずっと赤く不気味で、
「血の色」だと感じた


あの頃は空気清浄機を探して、多くの人たちが走り回っていた。


今、我が家も火事を防ぐためにできるだけのことをしている。


屋根は瓦で壁はスタッコというセメントや石灰を混ぜた素材なので、木は使われていない。


とはいえ、我が家は森林に近いので、いつ火災保険を打ち切られるかわからない、と思ったりもする。


家の外壁から1.5㍍以内に植木があると、とても危険らしい。


つまり、植木は火が燃え移りやすく、そこから火が家に廻る可能性が高いというわけだ。


外出していたら、夫からメッセージが来た。


「家の周りを見回って、火事の原因になりそうな植木を整理するけど。」


どうぞ、と一言返事を出しておいた。


数日後、庭に出てみてびっくり。


ラベンダー・・・、紫陽花・・・、サルスベリ・・・、数々の植木・・・


な、な、な〜〜んも残ってない‼️


ここまでとは・・・


ビフォー⬇️

ついこの前まではこんな感じ


アフター⬇️


ボーゼンと立ち尽くす私であった

2025年1月10日金曜日

AGジーンズ

8年ぶりぐらいにジーンズを4本買った。


普段履いているジーンズに穴が開いてしまったからだ。


よく見るとステッチも切れ切れである。

これは数年前御徒町で買った


上の写真はエドウィンのものだが、出かける時はAGというメーカーのジーンズを履く。


昔は白いTシャツにジーンズばかりだったので、白銀台に住む友人と数年ぶりに話した時に、「あなたは今でも白いTシャツにジーンズなの?」と聞かれたほどである。

1987年京都で


AGというブランドが好きで、この会社のストレートジーンズでサイズ25を2枚買ったのが8年前。


股下から足元までの内側の縫い目の長さを示すインシームも、大体31㌅がこの会社のデフォルトなのか、これもピッタリ。


31㌅は78.74㌢だが、私の股下が79㌢近いわけではなく、どういう基準なのかわからない。


私のサイズ25のライトカラーは売り切れているので、25ダーク2枚と、26ライト2枚を注文。


これもこの会社のものはサイズ表記が独特なのか、他のブランドのジーンズだと多分27から28㌅ぐらいが私のサイズだと思う。


正価は大体$200〜250ぐらいのものが多いが、お正月セールで$208のものが$25だった。


$100分買えば送料が無料になるので、4本買った。


10年履けば元が取れる(履くのだろうか・・・)。


届いた。


キツい‼️


明らかにサイズが変わっている。


以前の、独自のサイズ表示に不都合があったのか、25はとてもキツい。

古いジーンズの上に新しいのを置くとこんな感じ
この差が結構大きい


26も少しキツくて辛い。


とはいえ、返品できないセール商品だったので今後はこの26を履くしかない。


今まで愛用していたジーンズ(右)と並べると、左側の新しいジーンズはラインが少しダサい(私見)ようにも感じる。

両方とも25㌅


次は左が26㌅の写真である。


新しいタイプのウエストは細くなっているのに、
足部分はずっと太い


が、これだけこだわったからといって、誰が見る!


ダサいも何も関係ないではないか。


ウエストはもう何年も前からなく、下腹部はダラリと下がり、腿もシワだらけ。


ジーンズはAGでも、体はNGなんである。


25は姉に履いてもらうしかなさそうだ。



とにかく、もう少し体に合うジーンズは他にないだろうか、とAGサイトに戻って探す。


こっちの方がおしゃれかも、と新たにストレートジーンズを見つけた。


姉に写真を送った。


「どう思う?」


姉から返事が来た。


「モデルの写真を見てイメージしたら、とんでもないことになるで〜」


わかっとるがな

2025年1月4日土曜日

2025年抱負

みなさま、新年おめでとうございます。


もう日本では1月4日、今年もよろしくお願いいたします。


親の介護の記録を残したい、という思いでブログを始めたことから、たくさんの友人もできました。


本当に不定期更新で、忘れた頃に更新する、という情けないブログですが、読んでいただいて嬉しいです(とはいえ、ここ数年はほぼ食べることばかり書いていますが・・・)。

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先週受けたMRCP検査結果が、3日後に出てメールで送られてきた。


エコー検査で肝臓、そしてそこから出る胆管に何かが写っていたことと、胆嚢の炎症の疑いがあったからMRCP検査をした、と書いてある。


結局、問題はなかったわけだが、英語で読んでもなんだかチンプンカンプンの内容で、Google翻訳をしてみた。


Googleさんはこうおっしゃる。


胆嚢における正常な胆管の変化。総胆管内に結石やその他の空間占有病変の証拠はありません。総胆管が膨大部に向かって生理的に先細になること。肝臓実質の正常シグナル生成。重大な脂肪浸潤の証拠はない。肝臓に嚢胞性または固形病変はない。


いや、だからどーゆー意味よ。


ちょうどその時、ザグレブを旅行中の美女医R子さんが「結果出た?」とメールで聞いてきてくださった。


英語の原文のままの所見を送ると、4分後に「大丈夫そうね」という返事。


さすが消化器内科の専門医。


とても心強い。


2年前まではカイザー保険(カイザーホスピタルにしか行けない)だったので、検査というものがほとんどなかったが、ブルークロス保険に変えた途端検査の多いこと。


それでも、やはり日本の医療システムの方が安心だ。


そもそも、入院となると一番困るのが病院食である。


本当に本当にまずい。


なので、今後日本に移住する可能性もなくはないが、高くはない。



実は一昨日1月1日に、とても気分が滅入る出来事があった。


毎年Mよさんが年越しそば・おせち料理・お雑煮の用意
私がお刺身担当というようにThe日本人のお正月で明ける


今も引きずっていて、朝目が覚めた瞬間から悩んでいる。


何もかもから離れて、1ヶ月ほど日本で過ごそうか。


が、逃避しても何も解決しない。


今年はクヨクヨ悩むのをやめて、ポジティブに暮らしたい。



1月2日、気分転換にスタンフォードショッピングセンターに出かけた。


サンドイッチを買い、1軒のお店に行きたかっただけだが、いつ来てもアウトドアの素敵なお店が並ぶ。


そこを背筋をピッと伸ばして、大型犬を2匹連れ堂々と歩く高齢女性の姿があった。


今年は目標はこれだな。


カッケーばあちゃん