2016年3月3日木曜日

死に目に会う、という意味

『父(母)の死に目に会えなかった』と悔やむ友人は多い。



それは無念だろうなあと長い間かわいそうに思っていた。



自分がそうならないように、いつでも駆けつけられる準備をしておかねば、と危機感は常にあった。

55年ほど前の(?)父との写真
白黒写真だった頃のだが、多分後ろは紅葉なのだろう



今は違う。



親が生きている時に会ってこそ、という気持ちが強い。



死に目には会えなくてもいいと思うようになった。



だから父には少しでも一緒にいる時間を作ってあげたい、と思う。



なのに、実際ホームに行き父と話し始めるとイライラして、一刻も早く帰りたくなる。

これがたった2年ちょっと前の父だと思うと驚く



特に最近の父は話していても、ファーファーファーと言っているように聞こえる。



何を言っているか推察するしかない。



別に目新しいことを言っているのではなく、いつもの父が言いそうなことを繰り返しているだけだ。


だから想像はつくし、会話は一応成立する。



だが、それに付き合うのは体力が必要だ。



とにかくこのファーファーファーと話し続けている父の横に、1時間以上座っているのだ。



勿論実際に要介護度の高い親の世話をしている人に比べると、介護どころか世話をしている、とも言えない。



それでも父といる間、頭の中では他のことを考えている。



このあと何を食べに行こうか、とかそんなことを考えたりしているのだ。




少し年取った親のことについて、ホームについて、介護について、と書きたい。



どうも毎回分析や結論を出したいと思うから、なかなかブログを書き続けることができない。



だから、今日からは結論どころか、あまり意味のない(いつも意味はあったのか?)エントリーが続きそうだ。



が、頭に浮かんで来ることを書いてみたいと思うので、しばらくおつきあいお願いします。

今年のお正月にはおせち料理をおいしいおいしいと
よく食べた父だったが


『あ〜、読まなきゃ良かった、時間の無駄だった。』という憂き目に遭うかもしれませんよ。