アメリカに帰った途端これですよ 友人と食べに行ったランチ(おいしくなかった) チキンサンドイッチとポテト、チップ税込でほとんど$19 |
父の1周忌にはやはり日本にいてあげたい、と思っての日本訪問だった。
最期の瞬間に父のそばにいながらも寝てしまい、父が一人で逝ってしまったこと。
父が亡くなる数日前に、父は初めて『もう生きる気力がなくなった。』と姉に言った。
もう後悔はやめよう。
父のことでは後悔も多い。
最期の瞬間に父のそばにいながらも寝てしまい、父が一人で逝ってしまったこと。
あの時父にずっと声をかけてあげてたら、父は聞こえたのだろうか。
娘の声に安らぎを感じることができたのだろうか。
そうじゃなかったかもしれない。
父はもはや何も聞こえていなかったかもしれない。
でも、もしかしたら聞こえたかもしれない。
それでもやはり一番の後悔は、ホームの食事がまずかったのに、もっとどうにかしてあげなかったことだ。
父はまずい、と文句を一度も言わなかった。
が、何度もおいしいかどうか聞くと、ワシは味は気にならん、腹に入ればそれでええ、と言うのだった。
つまりおいしくなかったのだろう。
姉がおいしい金ごまを見るたびに言う。
ごまぐらいもう少し高いのを持って行ってあげれば良かった。
あまりにホームのご飯がまずかったから、ごまを持ってきてくれ、と娘に頼んだのだろう。
なのに、安いゴマしか持っていかなかった。
父はまずいご飯に少しでも味をつけたくて、ゴマをかけていたのだろう。
夜父を訪問する時は、お寿司、うなぎ、和菓子、果物などを持って行ったが、訪問しない日もあった。
そんな日、父には楽しいことなんて何もない一日だったのかもしれない。
父のお墓はまだない。
母と一緒にアメリカに連れてきて散骨するか、あるいはお墓を作るか。
赤穂出身の父を思い出すお寺だ。
父のと同じ家紋が石に彫り込まれていた。
なんだか父とのつながりを勝手に感じている。
父が亡くなる数日前に、父は初めて『もう生きる気力がなくなった。』と姉に言った。
姉が父に長生きできるよ、と言ったことに対しての返事だった。
その頃姉はもう1週間に1度の訪問しかしていなかった。
もしかしたら、娘も以前ほど来てくれなくなって、生きる気力が失せて行ったのかもしれない。
私が日本にいる時も、父は私のことも忘れ始めていたので、2日連続で訪問しない日も多くなっていた。
真実はもうわからない。
もう後悔はやめよう。
また泣きました。もうどうしようもできません。だから、親の分まで自分が後悔しないように生きましょう。きれいな景色を見たり、美味しいものをたくさん食べたり、親がやりたかったであろうことをやろうと思います。それと私は母が心から望んでいた安定した生活を送ろうと頑張ります。
返信削除...飛竜頭たべたい!
美知子さん、
削除共感してくださってありがとうございます。そうなんですよ。親がやりたかったであろうこと、これを自分たちがすることは供養になりますね。自分が親として子供に望むことは、自分に何かしてほしい、ということではなく、子供が幸せになること。ただそれだけですよね。つまり、親は子供が自分にしてくれなかったことを恨まない。私たちが安定した生活を送る、それは親への一番の孝行なんでしょう。
飛竜頭、その言葉は知りませんでした。ボキャブラリーが増えました。ありがとうございます^^
mikimieさんのブログ記事には胸がキュンと締め付けられるような思いです。
返信削除素敵な親子関係を築いておられたmikimieさんでさえたくさんの後悔の念を抱いておられるのですね。
私は老父との間に、確執を未だ抱えています。父がいずれ旅立つ時に私はきっと大きな後悔をすることになるのでしょう。
そのことがわかっていてもどうしても歩み寄れないのです。
でもmikimieさんの文章に突き動かされるように、なにかアクションを起こすべきか気持ちが揺れはじめています。
いつも素敵なブログをありがとうございます。
にゃごさん、
削除ありがとうございます。こんなブログにそういう気持ちを抱いていただいて嬉しいです。
私は父に子供の頃からかわいがられていましたが、姉は少し違う扱いを受けていました。そのせいで姉は父との確執が大きく、また母の介護をしていた時にも父への怒りがいつもあり、私はそんな姉の思いがつらかったです。でも、姉がそういう感情を父に対して持つのは仕方ないような、父の姉への態度でした。父には姉への愛情がありながらも、接し方は自分勝手で下手でしたね。
母が他界したあと、父は少しずつ姉に頼るようになりました。姉は、父の自分に対する今までの態度を思い出しては腹立ちが治らないようでしたが、それでも私よりはちゃんとした介護をしていました。私はずいぶん自分勝手な父への接し方だったと思います。
父が最期にありがとう、と手を合わせたのは姉にであって私にではありませんでした。私のことはもうほとんど覚えていなかったのです。父は最期の数時間私の声に反応していました。姉だと思ったのかもしれません。もう真実はわからないです。
父が炉に入る時、私は自分の人生で一番苦しい瞬間だと感じました。これが父との本当のお別れなんだと思うと、絶叫したいようなやりきれない気持ちでした。多分姉も少なからず同じような気持ちは持ったのでしょう。姉は父が死んだあと全てを許せたと言っていました。
にゃごさんも、お父さまに対する気持ちの折り合いがつくといいですね。
無事アメリカへ戻られたのですね。
返信削除お帰りなさい!:)
お父様、mikimieさんがゆっくり休んでいる顔を見て、きっと起こしたくなかったのでしょう。何となく思いますが、だからこそお父様も心の中で素直に「ありがとう」と言いながら逝けたのではないでしょうか?きっとそうですよ。
すみません・・・不謹慎と思いつつも、「うふふ、やっぱり食べ物にこだわってる^^!」と感じました。でも、私も同じ事を絶対思います。おいしいものを沢山食べて満足してもらいたい・・・というのは、皆(日本人?それとも人間として?)共通して感じるのではないかなあ?と思うんですよ。
そりゃあ楽しい旅行に連れて行ってあげたいとか、面白いお芝居を見せてあげたいとか、いろいろあるでしょうけど、でもやっぱり「食」というのは人から簡単には切り離せないものですよね。アメリカでも、Comfort foodとか、 Soul foodとか、結局食べる事で心が温まると言う意味の言葉があるじゃないですか?それと同じですよね。
私も自分の父や母の逝く時が近づいたら、一番好きなものを食べさせてあげられたらなぁ・・・と、それだけは今からぼんやりと考えています。
(ほらね!)
その時に、私の帰国が間に合うといいのですが・・・。
(父はせっかちなので、きっと待ってないかも?とは思いますが^^;)
おれんぢ猫さん、
削除ありがとうございます。そうですね。父は『こりゃよう寝とるわ、もうちょっと寝させておくか。』などと思っているうちに、その時が来たのかもしれないですね。
母に『目が見えないのと食べ物の味がわからないのでどっちがつらいかなあ』と聞いたことがありました。母は『味がわからない方。』と答えていました。自分の状態を悲観しないように、という母の自衛的な感情からの答えだったのかもしれませんが。でも、母は美味しいものが大好きでした。
母にはおいしいものを食べさせてあげたい、といつも思っていたので、お刺身などを細かく刻んで食べやすいように工夫してあげていました。が、最後の脳出血を起こしたあと母は全く食べられなくなりました。目が見えず、四肢が麻痺して、その上美味しいものも食べられなくなったのです。だから、母が死んだ時、諦めることができました。母にとって唯一の喜びであった、おいしい食べ物を楽しめることができなくなった、これは致命的だったからです。
最後までおいしく食べたいですね。Soul foodとかcomfort foodという言葉、よ〜くわかります。私にとってのcomfort foodはパンです!
親の死に目に会いたいというのは当たり前の感情だと思いますが、やはり生きている時に会ってたくさん話をしてあげる、がいいですね。でも、そう言いながらも会うと意地悪なことを言ってしまったり、の繰り返しでしたが^^;