斎場には行かないつもりだった。
母を荼毘に付す。
そんな事実を受け入れるのは無理だ。
目の前で母を火葬にしてしまう。
余りのショックで立っていることさえできないだろう。
だから父と二人で家に残ることを決めていた。
姉は『大丈夫、私一人で行くから』と言ってくれた。
父が行けないのは仕方ないことだろう。
お葬式も家族だけでした。
3人で介護してきたのだ。
3人だけでお別れしたかった。
火葬の前夜、やはり明日は姉と二人で斎場に行こうと決めた。
お茶目な母のことだ。
母の明るさで我が家はいつも笑いに満ちていたのだ。
もしかしたら、最後に何かいたずらをするかもしれないではないか。
確かめたくなった。
母のお棺が車に運び込まれる時が来た。
父が黒いスーツとネクタイ姿で玄関に出て来た。
そして、お棺に向かって最敬礼をした。
それが、42年間介護し続けて来た母との別れだった。
2010年の夏は酷暑だった。
私は日本で体調を崩し7月末にサンノゼに帰って来たが、父と姉は38度が続く京都で母を介護した。
母にはいつも誰かがついていないといけない。
1分も母を一人にすることはできないのだ。
夜も15分おきに起きないといけないことが多い、過酷な介護の日々。
姉は思った。
『この夏誰かが死ぬ。』
母が荼毘に付された日は9月27日。
やっと涼しくなった日だった。
母と最後のお別れをしたあと、斎場の待合室で姉と二人、外の木々を見ながら待った。
木々が葉ずれの音を立てていた。
サラサラ、サラサラ、サラサラ。
斎場で母を待つ間苦しくてたまらないだろうな、と思っていたのに。
木々を見ているうちに、母の死は仕方なかったのかもしれない、と受け入れられるようになった。
小さな葬儀屋さんに頼んだお葬式だった。
準備ができました、と葬儀屋のJさんが呼びに来てくれた。
いよいよ、母と対面するのだ。
母は黒い鉄の板の上にいた。
母のことだ。
何か楽しい気分にさせてくれるに違いない。
母の顎と歯はしっかり残っていて、まるでアカンベーをしているようだ。
姉とその顔を見て泣きながら笑った。
やっぱりなあ、まるで笑うてるやん。
母の骨を拾う。
その時突然目の中に、一つだけ色の違う小さな骨が飛び込んで来た。
薄いブルーグレーのような色だ。
とてもかわいい形をしている。
よく見るとそれは足袋の形をしていた。
Jさんが「あっ!」と声を出した。
「これは観音様の足袋と言いまして、成仏された時にこの骨が残ると言われています。お母さまはこの足袋をはいて、今旅立たれるんですね。」と言う。
優しいJさんが家族を慰めるために、その場で作った話なのかもしれない。
でも、嬉しかった。
38歳の時に薬害で視力を失い下半身不随になった母。