父の最期を考える。
自分がその場にいなかったとしても『それは仕方ないことだろう。
生きている間に父との時間を一緒に過ごしてあげればそれでいい』
そう思っていた。
自分にもアメリカでの生活はあるし、もう精一杯のことをしているではないか、と無意識のうちに思っているのだろう。
山歩き仲間が撮ってくれた 今日のランチョ・サンアントニオ このところの雨で新芽がきれいだった |
が、先日届いたメールで気持ちが揺れている。
『死に目に会う』という記事を読んでくださったこの方のメールには、
『母は誰もいない部屋で亡くなりました。時が取り戻せるなら、間に合うように日本に帰っていられたら、と思います。』
と書いてあった。
その方と今毎日のようにメールを出し合って、お互いの気持ちを打ち明け合っている。
すると、自分でも気がついていなかった自分の感情が見えてくる。
あんな父なのに、父に対する愛情は母へのものより大きい。
そんな父が一人ぼっちで死んだら、と考える。
今までは、自分はその場にいなくても姉がいるところで父は最期を迎える、と無意識のうちに考えていたような気がする。
私も姉もいないところで父が死んだら、父がかわいそうとずっと悔やむ気持ちが残るのかもしれない。
父のアルツハイマーはどんどん進行するばかりで、良くなることはない。
もう1年も生きていないかもしれないし、あと10年生きるかもしれない。
父の表情はこのところますますどんよりしてきているし、会話が成立しなくなってきた。
ついこの前まで簡単にできていたことが、突然できなくなる。
1年後の父は娘たちのこともわからないだろうし、父を訪問しても父の目はもう何も認識しないのかもしれない。
自分でも感じる。
この前まで簡単にできたことが、年を取ると突然むずかしくなってしまう。
最近ガレージの開口部が狭まった |