2016年1月11日月曜日

母が泣く時

以前にも書いたが母はポジティブな人で、「私は本当にラッキーな星の下に生まれたのよ。」と信じられないことを言うのだった。家族に囲まれ編み物ができて、父のプロポーズの言葉『箸より重い物を持たせません』は「いみじくも本当になったわねえ」と笑うのだ。

両親は6畳プラス2畳の縁側がついた和室で暮らしていた
父はこうしていつも母の横で書き物をするのだった

実際母が持てるものはお箸と編み針だけだった。

父と母は一日中おしゃべりしていた。父はせっせと新聞を切り抜いてスクラップして、母に読む。その記事について二人は延々と話すのだ。よくまあこんなに話すことがあるなあ、とびっくりするほど両親は四六時中会話していた。母の口癖は『まあ〜』と『あらぁ〜』で、何にでも感心し目を輝かせるのだ。小さかった長男と次男はいつも母の真似をして、まあ〜、あらぁ〜と言っていた。




両親の興味は似ていて、父が新聞をスクラップしては
母に読む毎日だった

しかし母だって天使ではないので、父に意地悪なことを言うこともあった。なにしろ父の人間性は問題だらけだ。それでもよくこんな父に母は長年我慢しているなあ、と私と姉はいつも母がかわいそうだった。

母は一日中編み針を動かしていたが、目が見えないので模様編みは全て記憶に頼らないといけない。いつも指を折って計算していた。10段ごとに小さなピンクのプラスチックの輪を編んだものの端っこにつけて、時々段数を数えるのだ。が、ある日母が大泣きしていることがあった。横で父がしょんぼりしている。父を許せない!と泣いている母に理由を聞いた。母が模様編みをしていた時、どこまで編んだかわからなくなってしまった。父に聞いたが父が面倒がっていい加減な答えをした。母は父を信じてそのまま編み続け、やっとセーターの前身頃ができた。その時点で父が母の間違いに気がついて、ほぼ最初から編み直しになってしまった。

その日初めて母は目が見えないことがつらい、と泣くのだった。いつもいつも明るくて自分ほどラッキーな人間はいない、と言う母も心の底ではつらいことが多かったはずだ。孫のことだってどんなにか見たかったことだろう。でも母が弱音を吐くことはまずなかった。編み物をしながら、次に何を編むか考えるのが一番の幸せと母は言うのだった。

母はこの病院に何度も入院した
今でも救急車の音を聞くのがつらい

母の幸せな日々は数年続いた。

私の幸せな日々は年末から2週間続いた。

京の四季860円

ポンドステーキハウス980円

コーヒーハウスMAKI650円

尾張屋1760円

今日現在2キロ増。かなり不幸・・・

2016年1月7日木曜日

母の編んだセーター

今思うと、よくぞ母を置いてアメリカに行ってしまったものだなあ、と自分でもびっくりするが、母は健康な人となんら変わりがないような錯覚を起こさせる人だった。それでも私が結婚してアメリカに移住してしまった時、母は泣いていたらしい。それからは両親二人だけで住むようになった。

2年後長男が産まれた時、母は本当に嬉しかったのだろう。病院から帰った私のところに電話をかけてきて、「今日から毎日電話するわね。」と言った。孫の話を聞くのがうれしくて仕方ないのだ。孫を見ることもできないのはかわいそうだなあ、と思ったが、母をそんなにも喜ばせることができるのは嬉しかった。この時母は55歳。

長男は手のかかる赤ちゃんで、母にアドバイスを毎日聞いた

母は孫のために毛布やセーターを編んでくれた。目が見えないのによく編めるなあ、と驚くほど母は編み物が上手だった。編み物が楽しくて楽しくて仕方ない、できることが本当に幸せ、と毎日のように言うのだった。父がせっせと毛糸を買いに行き、母は一日中何かを編んでいた。

今、母が編んだものの写真を見て改めてびっくりした。一体どうやってこんな模様編みができたのだろう。






これは父に編んだカーディガン
袖と前身頃に縄編みが入っている
こうして母の幸せな時代が続いた。

下のセーターは奇抜だが一体どういうデザインなのか。どうやら余り糸を使い切る目的で編んだものらしい。

母も主婦だったのね

2016年1月5日火曜日

おみくじ

昨夜はなかなか寝付けなかった。



3月に次男とマリーと一緒に日本に来る予定なのだが、そのチケット予約のことで大失敗をしてしまった。



昨日はユナイテッド航空とANAに電話したり、次男と話したりで対応に3時間ぐらい費やした。



それでもまだ解決していない。





その上母のことを書くのはやはり苦しいことで、当時のことなどを調べていると気分がかなり落ち込んでしまう。



だから、今日は少し休憩。



久しぶりに父のホームでのわいわい広場に行ってきた。



父のホームでは数々の行事があり、かなり充実していると思う。



囲碁教室や色鉛筆教室など、参加すれば楽しいだろうに、父は最初数回行っただけですぐ行かなくなった。

行事は盛りだくさんなのに、父は参加しようとしない

父のいる棟



リハビリももっとしてほしいのだが、やはり気力が段々なくなってくるようで、今は部屋からほとんど出ずにいつも寝ている。


リハビリの先生も本当に親切だ



わいわい広場では歌ったりすることで、少しドーパミンが出ているようだが、先生の指示に従うのはとてもむずかしいようだ。



アルツハイマー患者は空間認知機能が衰える。


なので、例えば患者の目の前で影絵のキツネを手で形作り、同じものを作ってください、と言ってもできない。



だから、わいわい広場でも、先生が両手を使ってトントントンなどと簡単な動きを指示しても、父はそれについていくことができない。

今日は参加者が10人もいなかった


それでも少し元気が出たのか、昨日はいやがった年賀状を今日は書くことができた。



昔からの友人4人に書いただけだが、微妙に書いている文が違うのがおかしい。

去年が最後だと思ったのに

人によって文面が違う
『数々の思い出をありがとうございました。』
『あたたかい思い出をありがとうございました。』
これが最後の年賀状なんだろうなあ、と思う


年賀状を投函して夕方帰宅したが、昨日からの精神的疲れでアプの散歩のあと1時間ほどお昼寝してしまった。

アプが待っていた



これから父の症状がどう進行していくかわからないのに、こんなやわなことではいけない、と自分でも思う。



でも、今日はこんなものにも慰めを感じてしまう。

わいわい広場でひかせてもらったおみくじ

2016年1月4日月曜日

病気が進行する

​母の状態は日に日に悪化した。


まず足が痺れる感覚はひどくなる一方で、立つことができなくなった。


服用していた劇薬は、身体中の神経を麻痺させていくものだった。


足の次は腰、そして麻痺はどんどん上がっていく。


遂には視神経が侵された。


10月末に祖母が母のお見舞いに来てくれたが、母はもう自分の母親の姿をはっきりと見ることもできなかった。



祖母は私にオレンジとブルー糸の混じったセーターを買ってくれた。


それを着た私を見て、母は『おばあちゃんに着物を買ってもらったの?』と聞いた。


母にははっきり見えないのか、とびっくりした。


その数日後母は完全に失明した。


38歳の母は下半身付随になり、そして失明までしたのだ。


母の親兄弟には、母がもうダメかもしれないと連絡した。


母の弟が声を押し殺して、しゃくりあげていた姿は忘れられない。


発病する少し前の母


原因究明のために激痛を伴う検査が繰り返された。


検査手術で足の神経を引っ張られた母は、まるで人体実験をされたよう、と言うのだった。


日本全国で母と同じ症状をもつ患者が増え、やっと薬が原因だと結論が出て使用停止されたのは1970年。母は40歳になっていた。


母の入院している病院には同じ症状をもつ患者がたくさんいた。


同室のKさんの症状は母のよりも重く、脳まで侵されていたので一日中呟いたり泣いていた。


向かいの部屋のOさんは高校教師だったということ。


母よりは少し軽い症状で、杖をついて歩くことができ、かろうじて視力が少し残されていた。


母、Kさん、Oさんの3人が重症だったが、ほかの患者は比較的軽症だった。


それでも大腸からの出血が続いたり、免疫力が落ちたり、と皆予後は悪かった。


亡くなる少し前、79歳の母


当時の母は多くのことが自分でできた。


採尿器を使って排尿することもできたし、食事も介助なしで摂ることができた。


1日ラジオを聞きながら過ごし、夜は父がベット脇で寝る毎日だった。


誰にでも優しく明るい母は、他の入院患者に観音様と呼ばれるようになった。


患者が入れ替わり立ち替わり部屋に来て、母に悩み相談をする。


入院患者の娘まで部屋にきて、母に恋の相談をするのだ。


母が悩み相談に対する答えを持っていたとは思えない。


それでも母の病室にはいつも誰かがいて賑やかだった。


母は幸せそうだった。


ところで今日父のホームに行く前に歩いた三条大橋脇の
弥次さん喜多さんの銅像
実は今日まで、助さん格さんだと思っていた

2016年1月3日日曜日

母が発病した頃

母が発病したのはちょうどアポロ11号が月面着陸のニュースで世界中が湧いていた頃だった。その時私は中学1年生。母のことは心配だったが、自分の世界のことで頭は一杯で母の病気の深刻さは理解していなかった。

裕福な家庭で育った母は、親の決めた結婚相手がどうしても生理的に受け入れられず、仮祝言の前日に父の元に逃げて来た。当時母は父の経営するタイプライター塾の助手をしていたのだ。その時母は20歳。父は27歳。

母(左)が28歳ぐらいの時の写真
その日から母は父の両親の家に住み、数ヶ月後結婚した。父は何度も転職し母が家計を支えた。そんなストレスからか、母はお腹を壊すことが多くなり、受診した病院で消化機能を助ける薬を処方された。ところがこの薬は外国では劇薬として使用を中止されていたが、日本では厚生省が認可していて、全国の病院ではまだ使用頻度の高い薬だったのだ。

服用を続けることでどんどん症状が悪化し、母はお腹が硬い、とカチカチになった腹部をさすりながら痛がっていた。受診すると、では薬をもっと増やしましょうと大量に投与された。毒を飲むことで具合が悪くなっていくのに、その症状を緩和するために医者からはもっと毒を飲みなさいと言われ、毎日せっせと服用したわけだ。当時の母はいつも具合悪そうにしていたので、小学生の私は台所から朝お料理をする音が聞こえてくるとホッとしたものだ。

が、そのうち遂に血便が出始めて、母は入院することになった。病院では引き続き同じ薬が投与される。同じ薬を長期投与することの副作用に関しても意識の低い時代だったのだ。この頃の母は治療のためステロイド剤を服用していたため、ムーンフェイスという副作用で顔がまん丸になっていた。苦しさのため何度も病院を抜け出して帰ってきては、やはりこれでは治らないとまた戻っていくのだった。

病院で母は38歳の誕生日を迎えた。痛みは全身に広がり始め、あまりの苦しさに3階の病室から飛び降りることを考えたこともあったらしい。後に母はよく笑いながら言ったものだ。『病室の窓の下にサボテンがあったのよ。で、あのサボテンの上に落ちたら痛いだろうな、と思って飛び降りるのはやめたわ。』と。

しかし、その頃12歳の私は本当に自分勝手だったらしい。今思い出しても母のことを心配する気持ちよりも、学校での楽しいことしか覚えていないのだ。テニス部に入り放課後練習をすることが何よりも楽しかったのと、当時人気だった『宇宙大作戦 (Startrek)』の誰がいいか、などと友人たちと楽しく話していたことしか思い出せない。

ちなみに友人たちは全員キャプテン・カークのファンだった。私一人がスポックのファンだった。そうか、今改めて確認できた。

子供の頃からショーユ顔ファン

2016年1月2日土曜日

遠距離介護

ロスアンジェルスと東京を遠距離介護のために往復しています、というブログを読んでくださっている方からメールをいただいた。



3ヶ月おきの往復だそうだ。



このブログを読んでくださる方には、やはり遠距離介護の悩みを抱えた方が多い。



私たちは皆共通の思いを持っている。



『これからどうなるのだろうか。
いつまで続くのだろうか。
親を最後まで自宅介護してあげられない自分は冷たい人間なのだろうか。』
というものだ。



先月山歩きをしている時、歩き仲間に『母の介護は42年続いたけど、大変だったのは最後の10年間だけ』と話したらびっくりされた。



そうか、私たちにとっては短く感じられた年数でも、10年というのは実は長い年月なのか、と改めて母の介護を思い出した。



42年間母を介護した父は、母が亡くなった2010年にアルツハイマー病と診断された。



その後2012年までの2年間は比較的平穏に過ごせたが、それからの2年間は怒涛の2年だったと思う。



やっと今少し落ち着いているが、これもいつまで続くのかと家族の不安は常にある。

まだ自分でお茶も飲める父


両親の介護を少しずつ振り返って、書き記したい。



と、昨日から前置きばかり長いのだが、実は記録として撮っていた写真を見ることができない。



写真は外付けハードドライブに入っていて、パソコンに接続するためのケーブルを持って帰るのを忘れてしまったのだ。



ということで、見られない。




まずは明日ケーブルを買ってから、母の介護記録を見ながら記憶を辿っていきたい。



42年間の介護には勿論つらいこともあったし、母だって父に対して意地悪なことを言うこともあった。



が、母は悪意というものを持たない人だった。



だから42年間家族やヘルパーさんたちは、せっせと母の介護をしてくれたのだと思う。



父はどうか。



その辺も少しずつ書いてみたい。

とりあえず悪意には無縁キャラ

2016年1月1日金曜日

ゼリー食

父にはまだ知性が残っていた。



痴呆症という言葉は嫌いだ。記憶を失っていき、最終的には失語し寝たきりになってしまうアルツハイマー病。



だが、まだ知性が完全に失われてしまっているわけではない。



父の人間性は昔と同じで、いつも何かが不安で小心な父の性格は以前よりもひどくなっている。



それでも、例えばユーモアのセンスは昔のままだ。

父の晴れ着
近所のスーパーで買ったポロシャツとフリースジャケット



だから父の両親の名前を聞くとちゃんと言えるし、『まだ呆けてはいませんよ。』と自分の頭を叩く。



味覚だってちゃんとあるのだ。



だから、毎日ほとんど味のないゼリー食を食べている父が不憫になる。



父は文句を言わないが、今日の新年会で食べたおせち料理はさすがにおいしかったようで、何度も『おいしい』と呟く。



ドーパミンが出ているようで、父の表情に明かりが灯る。

普段のホームの食事は申し訳ないが『まずい』
今日のおせち料理はゼリー食とはいえおいしかったらしい

ゼリー状の白味噌のお雑煮とお赤飯



が、今日一番父が嬉しそうにしたのは、去年退職された園長さんが訪ねてくれた時だ。



涙を出して喜ぶ父。



この園長さんがいなかったら、父は今日このホームにいなかっただろう。



これから父のアルツハイマー病の歴史を、改めてもう一度辿っていきたい。

訪問してくれた元園長さん
父は泣いて喜んだ
新しい記憶はどんどん失われるのに、園長さんの
ことは覚えているのが不思議



それにしてもやはり元旦というのは、今年一年の目標をなんとなく設定したくなるものだ。



父を見ていると、子供に介護という負担をかけたくない、とつくづく思う。



今年は健康な老後を目指してエクササイズと食生活の改善に気をつけよう。



パンとコーヒーの食事が何よりも好きな私なのだが、朝から質素な和食にするべきだろう。



今朝もお雑煮の代わりに、京都駅八条口にあるイノダコーヒーでモーニング(下の写真)を食べてしまった。



今年こそは粗食で健康的な食生活を始めよう。



嗜好を今のうちに変えないと。




じゃないと、将来一番困るのはこれだろう。

これをゼリー食に・・
なんて無理だもんねえ