家を出る時イチジクがたくさん 実っているのに気がついた |
二人で一緒にソファに座った。父の落ち着きのない目がキョロキョロと動く。昔父がバイクで京都から東尋坊まで行った時のことを聞いた。何時間ぐらいかかった?途中でどこかに停まって食事をした?というようなこと。普通に返事はできるが、隣にいるのは娘の格好をした敵だ、だまされてはいけない、と思っているのが手に取るようにわかる。
そのうち暑いなあ、扇子がどこに行ったかなあ、あんたのハンドバックに紛れ込んでないか?とバックを調べたいと言う。何か武器を隠し持っているのではないか、と疑っているのだ。バックを調べさせる。それでも父は猜疑心でいっぱいのようだ。一緒に廊下を行ったり来たりして、ソファに座っては立ち上がりまた歩くということを1時間ぐらい繰り返した。
そのうち父は暑くなったようで、部屋に帰ろうと誘うと同意した。すんなりと部屋に入れてくれる。まずは第一関門突破。飲み物をあげても毒が入っているのかもしれない、と父は信用できないようで、いらないと言う。喉が渇くと水道に行ってコップに水を入れて飲んだ。
しかし、少し気持ちはゆるんで来たのか、朝食を食べるというので部屋に運んでもらった。夕べは殆ど何も食べてないと聞いたので、雑炊と納豆を食べ終える父を見てホッとした。薬を手の平の上に置いてあげた。食後のお皿を見たら、薬は吐き出してあった。
園長さんがまた部屋をノックする。出てみると「少し廊下でお話していいですか。」と聞かれた。相談員マネージャーのSさんを伴っている。Sさんに「夕べはありがとうございました。お疲れでしょう。」と声をかけた。Sさんはいいえ、とかすかに微笑する。園長さんが本題に入る。
「お父さまは夕べバルコニーから飛び降りようとなさっていたので、今日は日曜大工のお店に工具をスタッフに買いに行かせました。でも、やはり入院なさるのが一番ではないか、と思っています。」ということだった。この時点で頭の中で何かがプツンと切れた。自分たちのミスで父をせん妄状態にした上、病院に入院させて自分たちがケアしないというのか。それでは余りにも父がかわいそうではないか。だから言った。
「森先生は父が入院して薬をやめれば治るでしょうとおっしゃいました。」園長さんはそうでしょう、とばかりにニッコリとしながらうなずいた。続けた。「ただそれをするのは簡単ですが、今回は◯◯さん(ホームの名前)にケアのまずさを振り返ってもらうために、◯◯さんに帰ってもらって学習してほしいと思っています。
1週間たっても回復していない場合は、森が入院という形で面倒を見ます、とホームにお伝えください、とおっしゃっていました。」と。ここまで言ったのは安易に入院という言葉を出して来たホームに腹が立ったからだ。一番苦しんでいるのは父なのだ。足もおぼつかなくなり、一晩中寝ることもできずバリケードを作ったのだ。部屋の中にはその残骸が散乱していた。それを自分たちでケアするのは無理だから、病院に任せましょうと言うのか。
ただ父の状態を考えると入院も仕方ないのかもしれない、と思った。このままだと脱水症状に陥るかもしれない、バルコニーから転落するかもしれない、フラフラと歩いていて転倒するかもしれない。危険はいっぱいなのだ。入院して幻覚がなくなるまで鍵のかかった所に入る方がいいのかもしれない。考えてみます、と返事をしておいた。
目が覚めた父に入院の可能性を話すと絶対いやだ、と言う。脱水症状にはならない、90歳の老人にしては誰よりも水分は摂っている、入院は必要ないと。でも父が最近バルコニーから飛び降りようとしたこと、スタッフを一切信用せず薬や目薬も全て拒否していることを話すと父はびっくりする。自分がそんなことをしたとは信じられない、と言う。15分ぐらい話しているうちに元通りの父の姿が見えて来た。
姉に電話して入院のことを言うと、父をこれ以上激変する環境の中に入れたくない。もし父がまた夕べと同じ状態になったら、ホームのスタッフが10人必要であっても、これから1週間24時間態勢で見てほしいと言うということだった。それはそうだ。薬を処方して、経過観察もなくここまで父を苦しめたあげく、もうホームでは見られません、家に連れて帰ってください、と示唆する。それは許しがたい。
一方で父はスタッフに謝罪に行った。いやあ、長い夢から目が覚めました。本当に変な夢を見ました。娘が二人とも殺された、と誰かに言われたんです。もうそれなら生きていても仕方ない。もしバルコニーから逃げようとして飛び降りて死んでしまっても、仕方ないと思ったんですわ、と高笑いをする。
ランチを食べながらその話を繰り返している。薬もちゃんと飲んだ。その後部屋に帰って来てまた同じ話を繰り返す。園長さんが入って来た。父は最敬礼をする。色々と失礼なことをしたようで本当に申し訳ないです、と言う。父としばらく談笑して部屋を出ようとする園長さんに、こんな状態ですし、父がまた環境の激変する所に入ることは良くないと思います、入院はしないということでお願いします、と返事をしておいた。
その後ホームに隔週訪問して診察してくれるお医者さんにも診察してもらう。父は普段気になっている手足の湿疹のことなどを明るく話している。お医者さんが部屋を出たあと、もう疲れたから帰るよ、とちょっと前に来た姉と一緒に父に言うと「はい。ありがとう。」としっかりと返事する。これから2階に行って佐野さんと話す、と言う父を2階に送り届けてから帰宅した。
さて、今晩父はこのまま正気を保つことができるのか、それとも昨日のようになってしまうのか。幻覚を見なくなったとしても、父はまたすぐ新たな問題を作ってくれるのだ。人間関係、身体の不安、温度の調整、スタッフへの不信感。
まだまだ苦難は続く。