2018年6月30日土曜日

緊張ペディキュア

リース・ウィザースプーン主演のLegally Blondeという映画がある。



キューティ・ブロンドというちょっとセンスを疑う邦題で公開されたこの映画の中で、恋人に振られたヒロインのことを、ネイルサロンの女たちが笑う。『あんなキューティクルでは絶対に恋人を取り戻せないわよ。』だそうだ。




アメリカでは爪のケアをすることが、最小限の女の身だしなみと考えられているらしい。


が、私は一度もネイルサロンに行ったことがなかった。


爪にお金を使うのはもったいない、というのがその理由だ。




そんな私に友人のY子さんから情報が入る。


日本のスーパー『にじや』に行った時、隣にあるネイルサロンに入ってみた、ペディキュアだけだったが思いの外良かった、$25で簡単なマッサージもついていてオススメ。一度行ってみたら?


う〜ん、私も最小限の身だしなみとして、爪にも気をつけるべきだろうか。


が、手の爪にマニキュアを塗ってもらっても、すぐはげる。ペディキュアだけならしばらくはもちそうだ。$25なら悪くないかも。やってみるか。




だから今日一念発起して行ってみた。


10人ぐらいのベトナム人のネイリストが働いているこのサロンの中で、キムさんが私の担当だ。


キムさんはペディキュア初めての原始人のような私の爪を見て呆れている(ように思える)。




キムさん、なんだかちょっと怖い。面倒くさそうに、足をこのお湯につけて、お湯から出して、膝を曲げて、と言いながら私の足を軽く叩く。英語の問題なのか、汚い足が問題なのか。ムッとした顔をしている(ように思える)。




ペディキュアを塗る前に爪を切ったり、甘皮や薄皮を切ったり、ローションを塗ったり忙しい。


高いところからキムさんを見下ろす椅子に座っている私は、明らかに今まで爪のケアなんかしたこともない。


なのにキムさんをひざまずかせて爪を磨かせる私って、一体何さま?と落ち着かない。


30分のうちプレップが25分ぐらい?



両手は一体どこに置くべき?


腕を組むのは偉そうだし、腿の上に置く?


そわそわと手をあちこちに置いては動かす。




落ち着かないがiPhoneなんか見てはいけないだろう。


目線はどこに向けとくのが妥当?


他の人を見つめるのは失礼だろうし、キムさんの手元を見るのはキムさんを信用してない、と思われるかも。




他の女性はリラックスしてネイリストとしゃべりながら、あるいは隣に座っている友人と談笑している。


なのに私は緊張したまま、じっと宙を見つめ続けた。




30分たってやっと終わる。もう私はヘトヘト。


サロンを一刻も早く出て家に帰ってリラックスしたい。


「靴を履いていいですか?」と聞いた途端、周囲の女性のおしゃべりの声が突然止む。


3人の女性が私を振り返って注目する。


明らかにバカな質問をしたようだ。


緊張でカチカチの足



靴は1時間は履かないように、とキムさんに説明されてピンクの紙の草履をもらって歩く。



記念にキープ?としばらく迷ったが結局捨てた紙スリッパ




家に帰った時はもうクタクタになっていた。


ペディキュア初体験はかくも疲れる体験だったのだ。


でも、なんていうか気持ちいい。




私も今日からちゃんと爪に気を使うおしゃれな女?




と気持ちだけは『素敵な私・おしゃれな私』になっている。


あの『居心地悪過ぎ』ストレスも価値はあったかも。




Y子さんから「どうだった?(茄子紺の)色はイメージ通りだった?無事家までキープできた?」とメッセージが入る。


写真送ってね〜、だって。




そうか。ペディキュアはサロンで終わるわけではないのか。家までちゃんとキープしないといけないのか、そりゃそうだな。




アップで写真を撮ってみた。


ガラガラガラ
世界が崩壊した音

2018年6月21日木曜日

配食サービス

父は物を捨てなかった。



そのことにイライラした私は、ことあるごとに捨てるように言っていた。



80代の父はもう何を捨てて何を保存するべきか、の判断がつかなったのかもしれない。



父のいない今、父が捨てられなかったものを私は懐かしさを持ってながめる。



例えばこれも『父が捨てなかったもの』、母の配食サービスメニューだ。



このお弁当は1食800円でおいしかった。



嚥下に問題のある母には潰してトロミがつけてあるものだ。



父は他のお弁当屋さんから500円のものを配食してもらっていた。



500円の方はあまりおいしくなかった。



私たちが母と同じお弁当を配達してもらうように何度言っても、父は『500円のお弁当の方が好き』と、決して変えようとはしなかった。



豪華な行事食も多かった



父の500円弁当に固執する理由は明らかに300円の差額だったのを、今でもかわいそうに思う。



父は少しでも自分の娘たちにお金を遺したかったのだ。



これが、日々のお弁当メニュー。





来月のあなたの頭痛の種が一つ消えましたね

2018年6月20日水曜日

配達弁当

日本に介護のため往復していた時、一番の気がかりは家族の食事だった。



2ヶ月も家を留守にすることもあり、そんな時は男たち3人が一体何を食べているのだろう、と毎日考えた。



日本のスーパーのお惣菜や、オリジン弁当のようなお弁当屋さんがあれば、と何度も思ったものだ。



配達してもらえるお弁当がある、ということを聞きつけた友人が企画してくれた食事会。



お弁当を食べながら、その頃のことを思い出していた。



お弁当はチップ込みで$12。



メニューはエビとブロッコリーのバター炒め、揚げ麩の煮浸し、ワカメと長芋梅和え、オクラ胡麻和え、キノコと人参の混ぜご飯、鶏つくねの照り焼き、はまち大根の煮物。



こういう配達弁当があったら、もっと日本に長く滞在できたかもしれない。



父は2年前の今日、6月20日に逝ってしまったのだった。



両親とももういない。



父のことを考えたり、その頃の息子たちのことを考えて切なくなりながら食べた。



アルツハイマーを患った父との日々を、これから少しずつ振り返ってみたい。



しかしそこまで切ない気持ちになっているのに、無意識にこんな大きなお弁当をほぼ完食する自分が怖い。

体重は先週に引き続き+3ポンドの高値安定

2018年6月17日日曜日

ダイニングテーブル

今まで一度も使ったことがない猫ベッドと、しばらく見向きもしていなかったキューブ。

ダイニングテーブルの上に置いた途端、そこが一番居心地の良い場所になるらしい。

猫ズの謎

2018年6月16日土曜日

タピオカブレッド

10日前に決意した『間食をやめる』のをやめて久しい。

最近のマイブーム。

85ベーカリーのパン(好きなのはクランベリーとクリームチーズ)
とアメリカーノコーヒー

Trader Joe'sのケトルコーン

ネーブルオレンジ
ピーツのベリーピーチスコーン

間食をやめるように催眠術をかけてくれる人がいないだろうか、と本気で考える。

やめることができないから、やっぱりグルテンフリーの間食ならいいのではなかろうか、と思いタピオカパンのミックスを買って来た。それも5箱。

韓国マーケットで買ったタピオカブレッドミックス

もちもちしておいしい。小麦粉ではなくタピオカ粉なんだから、と安心してモリモリ食べ続けた。するとこの5日で3ポンド(約1.5キロ)太りウェストがなくなった。

調べてみるとタピオカ粉は芋だということだ。知らなかった。こんにゃくのようなものだと思っていたから、いくら食べてもいいという思い込みがあった。が、タピオカはキャッサバという芋、つまデンプン、つまり太る!らしい。

前回の記事で、体重を気にしているわけではない、と書いたがそれはやはり事実ではなかった。実際に体重が1.5キロ増えるとウェストがこんなに変わり、ジーンズもきつくなった。そうするととても気分が悪い。

明日は父の日の食事会をするが、そのあとから本格的に糖質カットの生活に入ろうと思う。

まずはタピオカブレッドの残りを食べてしまわないと・・・

2018年6月7日木曜日

昨日食べたもの

朝食。



お昼は山歩きの仲間とカフェに集まったので、皆で分けあったホウレン草とケールの入ったパン半分とスコーンを3分の1ぐらい。それと緑茶。



昨日は夕方サンフランシスコに移動したのだが、お昼と夜の間の間食を我慢した。夜はマリーのリクエストによる手巻き寿司。どのくらい食べたかはっきりわからないが、多分ご飯はお茶碗1杯分ぐらい?

お寿司はネギトロ、ハマチ、サーモン、納豆
野菜は水菜、ラディッシュの酢の物
これに煮野菜とわかめのお味噌汁でもあればパーフェクト?

デザートに切っておいたオレンジを少し。

食べたのはこの半分

その1時間後にSee's Candiesカフェラテ味。



この食事で今朝の体重は.6ポンド(270㌘)減。が、体重減を狙っているのではない。コレステロールが下がることと、血糖値が上がらないように糖分摂取を控えた食生活にしたいだけだ。でも、これは典型的な血糖値が上がる一日ではないだろうか。

今日の目標。昨日山歩きの仲間からいただいたミニ羊羹を・・・

3本一気食べしないこと

2018年6月6日水曜日

間食やめます(一応今日は)

年を取ったら腹八分目と言われているのは知ってる。いや、腹六分目でもいいぐらいだと聞く。が、それはできない。

なら間食をやめて3食をきっちり食べるだけにすればいい。が、それもできない。

でも友人に聞くと間食は3時のおやつのみ、あるいは一切しないという人も結構多い。

先週友人と食べたタイ料理は量が多かったが、二人で分けあって完食

それを実行するには、ブログに毎日食べたものを載せるのが一番だと気がついた。

最近のお気に入り#1 Trader Joe'sのケトルコーン

だから、今朝の決心をこうして公にすることで、継続できるかもしれない。が、(一応今日は)というのは何なのか・・・

今日はお昼時に山歩きの仲間とカフェに集まるので、ランチは甘いパンになる
ということでPalo Alto Firefighters Pepper Sauceをかけたオムレツとパンの朝食
(でもパン2個は多すぎない?)

では明日、今日の結果を報告します。


最近のお気に入り#2 サンフランシスコのSTEEPの抹茶アイス
これも今日から存在しない(一応今日はそう思っている)

2018年6月4日月曜日

母 幸福な一生

母の最期も納得できるものではなかった。



あの時シーツ交換をしていた看護師さんたちは、母の心拍数がどんどん下がり始めたのがわかっていたはずだ。



そこまで下がって母が蘇生できないのもわかっていたはずだ。



が、もう誰のことも恨んでいない。



あの時ああしていたら、と後悔しても自分が不幸になるだけだ。



後悔の感情は何も生み出さない。



過去を変えることはできないのだから。



後悔を引きずれば次に進めない。



母は自分が死んだあとの父を心配しては大泣きしていた。



姉や私にも後悔の感情を持ってほしくないだろう。



母が亡くなった9月24日は突然気温の下がった日だった。



その前日まで京都は酷暑が続き、病院への往復は大変だった。



母が荼毘に付されるのは9月27日。



涼しくなってよかった。



母と3晩も一緒に過ごせる。



母の死に顔は本当に安らかで、母が一番綺麗に見えた日だった。



そしてその日は過酷な介護が終わった日でもあった。



今晩から寝られる。



アメリカと日本の介護往復も終わる。



母には悪いがホッとする気持ちもあったのだ。




もっともっと過酷な介護をしている人は多いだろう。



認知症の介護の過酷さに比べると母の介護はなんでもない。



夜中じゅう痰吸引をしないといけない介護もある。



母は2時間続けて眠ってくれることもあった。



毎晩15分置きに起きていたわけではない。



一番つらかったのは、先が見えないことで精神的に追い詰められていくことだった。



母の一生は何だったのだろう、とこの8年間考え続けた。



ずっとずっと母のことがかわいそうでたまらなかった。



母はスモン病という理不尽な病で半生を失ったようなものだ、目も見えない、歩けない。



なのに国は母が一家の大黒柱ではないから、という理由で保証金さえ殆ど出さなかった。



大人になってそれを聞いた私はなんて理不尽なんだ、とやるせない気持ちになった。



が、最近気がついた。



母は不幸ではなかったのかもしれない。



なぜなら母には何よりも打ち込める編み物という趣味があった。



ある日、目が見えなくても編み物はできる、と気がついたと言っていた。



そしてそれから少しずつ編み物をし始めた。



いつも頭の中でセーターなどをデザインしては、模様編みもしていた。



編み物に関してはいつも驚くほどの記憶力だった。



よく考え込んでいた。



フィッシャーマンズセーターまで編んでいた母だから、頭の中は編み目の カウントでいっぱいだったはずだ。



朝起きると、あ〜、今日も編み物ができると思い嬉しかった、とよく言っていた。

袖ぐりなどの減らし編みなどうまく作ったものだと思う



父のプロポーズの言葉『箸より重いものは持たせません。』は「いみじくもそうなったわねえ。」と母が思い出してはよく言っていた。



70歳近くまで趣味で忙しく、賑やかな家族に囲まれていた。



いつも時間が足りないと言っていた。



母がのめり込んだような趣味もなく時間があり余っている私の方が、もしかしたらずっと不幸ではないか、と思ったりする。



慶応大学院で幸福学を研究する、前野隆司教授のインタビュー記事を引用する。



長続きする幸せは、環境に恵まれている幸せ、健康である幸せなどの他に『心の要因による幸せ』が多く含まれています。私は因子分析によって、心の要因による幸せを『4つの因子』に整理しました。この4つを満たせば、私たちは長続きする幸せを手に入れることができます。

1つ目は『自己実現と成長』の因子。夢や目標ややりがいを持ち、それらを実現しようと成長していくことが幸せをもたらします。

2つ目は『つながりと感謝』の因子で、人を喜ばせること、愛情に満ちた関係、親切な行為などが幸せを呼びます。

3つ目は『前向きと楽観』の因子。自己肯定感が高く、いつも楽しく笑顔でいられることは、やはり幸せなのです。

4つ目は『独立とマイペース』という因子。他人と比較せずに自分らしくやっていける人は、そうでない人よりも幸福です。



編み物が生きがいだと常に言っていた母は1つ目を満たしている。



あとの3つの因子も母の性格にぴったり当てはまる因子だ。




母は幸福だったのだ。


この細胞の中にも母が生きている
(脂肪の中にも?)

2018年6月3日日曜日

母 最期の日

主治医から告げられたのは予想通りの母の状態だった。



腎臓も肺ももう機能していない。



だから人工呼吸器をつける必要があった。



母があとどのくらいもつかはわからない。



沈痛な面持ちだった。



が、呼吸停止のあとの『高齢者は回復していると思っていても急変することがある』という説明には納得していなかったし、もう一人の医者への不信感も残っていた。



高齢患者とその家族にもう少し誠意を持って接することはできないのだろうか。




だから言っておくべきだと思った。



ドキドキしながら言った。



『母は回復し始めていましたよね。
でも、肺炎になり今はもう回復の望みがなくなりました。
それは痰吸入の失敗が原因ですね。
あの失敗がなかったら少しずつ回復していたはずです。
母も家族も希望を持ち始めた時に起きた事故です。
私は病院側の落ち度を追求するために言っているのではありません。
これから同じようなことが起きてほしくないんです。
他の患者さんのためにも、はっきりと認めてほしいんです。
そして病院としてもそういう指導は徹底してほしいんです。
病院にとってはただの一人の患者にすぎないかもしれませんが、私たちの大事な家族なんです。』




主治医はしばらく沈黙したあと言った。



『吸入についてはおっしゃる通りです。
これから病院内で検証していきます。
看護師も指導していきたいと思います。』



それで充分だった。



母はやはり生きるつもりだったのだ。



生きるつもりだったが事故にあってしまった。



病室に帰って、姉と主治医から聞いた母の状態を話し合った。



母からの反応はもう何もないし、あとどのくらい生きていられるかわからない。



これからも姉と私で交代で母に付き沿うことにして、姉がとりあえず帰宅して休むことにした。



が、午後姉が家で休んでいる時、一人で母の横に座っていた私は胸騒ぎがした。



母はもしかしたらもうダメかもしれない。



姉にメールした。



なんか危ないような気がする。



大丈夫とは思うけど、と姉が返信してくる。



でも、やはり何かが違う。



姉が来るべきだと感じた。



そして、そうメールした。




姉が天婦羅をご飯の上に載せて、簡単な天丼を作って持ってきた。



母に何も変化がないのを見て安心した姉は、母の横で食べるよりもちょっと気分転換に外に出ようと言う。



駐車場に停めてあった、姉の車の中で食べることにした。



病室を出る前に姉が母に話しかけた。



母が入院するまで往診をしてもらっていたN先生に家から電話した姉は、N先生からこう言われた。


『お母さんはまだ耳が聞こえていると思う。ずっと話しかけてあげてください。』



「もうちょっと頑張らなあかんな。療養型の病院に移ったらまたアイスクリーム一緒に食べよな。」と姉が話しかける。



その後車の中でタッパーに入った簡単な天丼を食べた。



意外にもおいしくて全部食べられた。



数日ぶりの食事だ。



『ほら、こうしたら案外と美味しいやろ?』と言う姉。



なんだか希望が湧いてきた。



あのおふざけが大好きな母のことだ。



私たちを怖がらせようとしているだけだろう。



まだまだ大丈夫。



が、病室に帰ってしばらくすると、看護師さんたちが母のシーツを交換し始めた。



呼吸器を外した母の心拍数がどんどん下がっていく。



私はハラハラと心拍数を見ていた。



こんなに低下したのではもう元の数値まで上昇させるのは無理なのではないか。



そしてその通りになった。



心拍数は下がったまま。



主治医が呼ばれて母を蘇生させようとしている。



すぐ父に電話してタクシーで病院に来るように伝えた。



42年間父は母の横を一日も離れず介護した。



その父を待っていてほしい。



タクシーに乗れば10分で到着するのだ。




母に頼んだ。



どうかどうか、父を待ってて。



母は最後までいつもの母だった。

2018年6月2日土曜日

母 最期の日々 ⑩ 主治医との話し合い

9月23日の夜、姉が母のいる部屋の近くにある病室に泊まり込んだ。婦長さんの計らいだ。

痰吸入のミスの話をして以来、婦長さんは何度も様子を見に来てくれ、何かと便宜を計らってくれた。

9月24日の朝は私が病院に行き、姉と交代することにした。母の足はますます紫色になっていた。もうおしっこも出ていない。姉が自宅に帰る前に二人で主治医と話すことになった。

父は病院に来ずに母と毎日過ごした部屋で一日中宙を見ていた。母の状態を受け入れることができないようだった。

私は主治医に認めてほしかった。母がこういう状態になったのは、痰吸入のミスによるものだ、と認めてほしかった。

脳出血を起こした母は生きようと頑張っていたのだ。母は戦い始めていたのだ。なのに、病院のミスで母は死ぬかもしれない。母の名誉のためにも、母はあのまま生きることができたのだ、ということを認めてほしい。あんなにも強く生きてきた母がこんなに簡単に諦めるなんてありえない。

そして認めてくれるなら、それを世間に公表しよう。母を犬死させてたまるもんか。あの私たちに何の感情もなく『人工呼吸器をつけるんですか。』と面倒そうに言った医者のことも、投書しよう。そうじゃないと悔しさが晴れない。

数年前母がこの病院に入院した時、母にイラついた看護師さんが捨て台詞を残して部屋を出て行ったことがある。また母がMRI検査をした時、検査技師が母を人間としてではなくただの物のように扱ったこともある。決してここには母を入院させたくないと思っていたのだ。

そういうスタッフや医者たちが、これからも他の高齢者や障害者を軽く扱い、同じことを繰り返す可能性を思っただけで許せない気持ちになっていた。

カンフェレンスルームで主治医と話してください、と言われた。

写真は母38歳ぐらいの時のものだろう
ステロイド治療でムーンフェイスになっていた

私はハンドバッグの中にボイスレコーダーを入れた。


2018年6月1日金曜日

母 最期の日々 ⑨ 延命治療

母が痰吸入の失敗で呼吸停止したのは一昨日の9月20日。



昨日までは意識があったのに、今日9月22日は意識がなくなった。



でも普通に呼吸して顔色もいい。



主治医には、母が回復すると言われたばかりなのだ。



カンフェレンスルームで『人工呼吸器をつけるんですか。どうするんですか。』と、この医者が言っているのは他の患者のことに違いない。




でももしかしたら、と確信が揺らぐ。



やはり母のことなのだろうか。



心臓がバクバクし始めて頭の中が真っ白になった。



『母がそういう状態なんだと突然言われても信じられません、つい先ほど主治医から回復していると言われたところなんです、なのに突然そう言われても受け入れられるわけがないじゃないですか、主治医に確認します』と姉が横で言っている。



私は『なんでコンフェレンスルームって英語で書いてあるんだろう。』とドアに印字された白い文字を見ていた。




翌日9月23日、私も姉も胃がほとんど何も食べ物を受け付けなくなって3日目。



どうにかゼリーと飲み物だけを補給する毎日だった。



交代で家に帰り少し仮眠しては病院に戻る。



が、これからまだまだ看病が続くのだ。姉と私は近所のお店にアイスクリームを食べに行くことにした。



人工呼吸器をつけるかどうか。



つけたあと母は回復する可能性があるのだろうか。



それともただ意味もなく延命して、そししてその後死んでしまうのだろうか。



姉と話し合った。



どうすればいいのかわからなかった。



でも、人工呼吸器をつけることで母が意識もなくただ横たわっているだけになっても、息さえしてくれていればいい、という結論を二人で出した。



42年間寝たきりだった母が、こんな医療ミスであっけなく死んでしまうことは受け入れられなかった。



延命治療をしてもらおう。



そのあとのことはそれから考えよう。

iPhoneで写真を手軽に撮ることをまだ始めてなかった頃
母の写真が少ないのが悔やまれる



久しぶりに明るい気持ちになり、病院に戻った。



姉が足をさすってあげようとお布団をめくった時、私たちの目に「母の最期」という事実が飛び込んで来た。



母の足は真紫色になっていたのだ。