2018年5月31日木曜日

母 最期の日々 ⑧ キノホルム

人工呼吸器をつけるかどうかすぐ決めてください、と面倒そうに言った医者の顔と声が今でも忘れられない。



そこには死の間際にいる家族を持つ人間に対する、憐憫の気持ちはまるでないようだった。



過労状態の医者が疲労の極限状態にいることはわかる。



が、その医者にとってはただ一人の高齢の患者である母も、私と姉と父にとってかけがいのない生身の人間、家族なのだ。



それを何の前置きもなく『人工呼吸器をつけるかどうか早く決めろよ、めんどくさいな。』という声音で言われたことが、その後も長い間許せないと思った。



姉も私も周囲の人たちからよく言われた。



なんで親のためにそこまでするの?と。




母が単に年をとって介護が必要になっていたら、そこまでしなかったかもしれない。



が、母は薬害で38歳で寝たきりになったのだ。



キノホルムというヨーロッパでは劇薬として扱われたいたのに、日本では厚生省の都合で認可されていた薬だった。



整腸剤として処方されていたキノホルム。



母はその頃毎日朝から晩まで働いていた。



不調のせいで仕事を休むという選択肢のなかった母は、医者から処方されたキノホルムをせっせと飲んだ。



その上不安神経症の父がうるさく言う。



飲まないともっと具合が悪くなる。



ちゃんと飲め。




少しずつ具合が悪くなっていく母を私は不安な気持ちで見守った。



12歳だった私は、毎朝起きた時、母が使う包丁のトントンという音が響いているとホッとしたものだ。



製薬会社は医者にキノホルムをもっともっと、と使わせた。



医者は母に(そして他の1万人以上の患者に)国が認めていた処方すべき量の5倍(他の患者の処方量は知らないが)のキノホルムを処方した。



母は日に日に弱っていった。




が、こんな時ですら母は明るかった。



病院の3階に入院していた母が私に言う。



『なんかもう毎日どんどん具合が悪くなっていくから、昨日なんか死にたくなったのよ。


で、トイレの窓から飛び降りようかなと思って下を見たら、サボテンがあったの。


あそこに落ちたら痛いだろうなと思ったからやめたわよ。』と笑う。




私はまだまだ子供だったのだ。



母があまりに明るい口調で言うから、大したことはないんだろう、と思っていた。



母は多分すぐ退院して家に帰ってくるのだろう、また元通りの日々が戻ってくるのだろう、と。



しかし、母の状態はどんどん悪くなっていく。




娘を心配した祖母が訪ねて来た。



そして祖母が去ったあと、赤い洋服を着た私を見て、母は言った。



『あらぁ、おばあちゃんに着物を買ってもらったの?』



いつものようにのんびりした口調で言う母を、私は笑った。



洋服を着ているのに、なんで母は私が着物を着ていると思うのだろう。



母はほとんど失明していたのだ。

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