2017年9月13日水曜日

グルテン生活

山歩きの仲間とピーツに集まっておしゃべりしている時、油壺にある『エデンの園』という老人ホームの話になった。アメリカに住んでいても70歳を超える頃には『日本に帰りたい』と思い始める人が多いらしい。

アメリカの老人ホームではやはり美味しい食事が望めない。山歩き仲間の一人Mさんが『親にも最後まで美味しいものを食べさせてあげたいですね。』と言った途端に、涙がじわっと浮かんだ。これはいつまでたっても私の心の中の痛点らしい。父のホームの食べ物が美味しくなかったことが、本当にかわいそうだったと私が言うと、Mさんに『それはお父さまがそうおっしゃったんですか。』と聞かれる。それには答えることができなかった。もう痛点を過ぎて心がズキズキし、隠れて涙を拭くのが精一杯だった。

父は決してそれを私にも姉にも言わなかった。何度も書いたが、それを私や姉に言うことで自分のためにお金を使わせてはいけない、と思っていたのがよくわかる。アマゾンで注文したレトルトの介護食の方をずっと美味しい美味しいと食べるので、それをホームのスタッフに預けてはいた。が、忙しいスタッフが父のために特別な食事を毎日用意するわけにはいかない。ホームの食事のメニューは悪くはなかった。ただ、味がなかった。毎日食事を運んで介助することができたなら、もっと美味しいものを食べさせてあげられただろう。でもそれは無理だった。いや、私が日本にいる時なら無理ではなかっただろうが、しなかった。

父の最後のおせち料理だけは料亭から注文されたもので
美味しかったらしい

今度私が日本に行った時には、粗食の毎日にしてみようか。そうすれば少しは罪悪感が薄まるのだろうか。

いや、それではせっかくの日本が楽しくない。一日一食は美味しいものを追求してもいいだろうか、などとすぐ考え始めたりする。今の自分の楽しみは、京都や東京で街を歩き美味しいランチを食べるためにフラッとレストランに入り、リーズナブルな値段で食事をすることなのだから。

いやいや、だからこの数年血液検査の結果が悪いのだ。悪玉コレステロール値なんて高値安定してしまっている。特にこのところ以前よりもっとパンが好きになってしまい、そればかり食べている。グルテンまみれだ。

サンフランシスコのNeighbor Bakehouse

パリス・バゲットのセサミタピオカパン

ピーツでのカプチーノと甘いパンの間食という悪癖も復活してしまった

父への気持ちの整理のためにも食生活を変えよう。

自分の腹・尻を見て思う。まるでヒロと同じだ。

あっという間に育つ

2017年9月6日水曜日

孫はかわいいのか

友人たちから次々と同じ質問をされる。



メールやテキストメッセージでも同じことを聞かれる。



『で?実際孫ができてどう?猫よりかわいい?』



そりゃ孫の方が猫よりかわいいという人も、孫より猫の方がかわいいという人もいるだろう。



私も自分が飼っている猫じゃないとはいえ、やっぱりしょっちゅう会っている猫はかわいくて仕方ない。



死んだ時のことを考えると、かなりペットロスになりそうだ。



とはいえ、いずれは孫の方がかわいくはなるのだと思う。



今の時点ではどちらもかわいい存在なのだが、より大事なのは孫の方だと言えるだろう。


最近タイタンはいつもこのテントの中で寝ている


孫の存在というのは不思議なものだと思う。



かわいいかと聞かれればかわいいが、やはり自分の子供にはかなわない。



それは孫がいくつになっても同じらしい。



孫は自分の子供が愛する存在だから、自分にとってもとても大事だ。



だから自分の子供が慈しむ孫は自分にとっても愛する存在になり、その愛は少しずつ深まっていくのだと思う。


3連休にまた来た長男とサキ

孫が病気になったり何かとんでもない出来事に巻き込まれたりしたら、親である自分の子供が苦しむ。



だから、病気になったり事件に巻き込まれたりしてほしくない。



何も問題なくすくすく育ち元気でやってるよ、と聞けばそれでいい。



責任は子供夫婦が持って育てる。



私は時々会ってかわいがってあげればそれでいい。



と、今の時点ではこんな感じ。

まだ起きている時間がほとんどない



それはなんというか『XXは元気で留守がいい』という存在というか。

亭主とはかなりニュアンスが違うが

2017年9月3日日曜日

Boundaries(親子の境界線)4/4

暑い。サンノゼの今日の最高気温は42度。湿度が低いので日本の暑さとは質が違うが、それでもうだる。今週末は3連休で金曜日も休んで4連休にした夫と35度のサンフランシスコ(記録的な暑さ)に週末だけ避難してきた。

サンノゼの家の近所を散歩していたら七面鳥に遭遇
秋になるとよく見かけるようになる

次男が少しムッとしている。なんと今朝ヒロのオムツを替えている時、ヒロのお腹にノミを発見した、ということ。次男自身数カ所噛まれてあちこちが痒いらしい。日本で買ってきたキンカンをつけてその場しのぎをしているが、解決策になるわけではない。

猫たちの体にノミはいなくなったが、完全にノミを全滅させるためには卵も退治しないといけない。卵から孵化しないように、床にあるかもしれない卵を毎日掃除するのをサボってはいけない。家具を動かし家中掃除機をかけてモップで拭く。その上夜中の授乳と家事を担当して疲れているのだろう。が、彼らは育休/産休中で毎日が日曜日なのだ。このノミ騒動がなければそろそろ育児にも慣れてきて、ヒロを楽しむだけの毎日になってきていたことだろう。

私もマリーが搾乳した母乳を哺乳瓶で飲ませてみた

マリー母から10月まで休暇を取って、週5日次男とマリーのマンションに泊まり込みヒロの世話をする、という申し出があったということだ。が、二人は相談して末断った。以下がその理由。

マリー母は孫をかわいがることで自分自身の問題から逃避しようとしている。それはやめてほしい。幸福感を得るために孫の存在に依存するのではなく、自分自身で解決してほしい。それはヒロにとっても良くないことだし、マリーにとっても重荷であり次男との関係にも影響を及ぼす。まず問題を解決して自分自身を幸福にすることができてから、ヒロと接してほしい。

生後2時間のヒロを抱くマリー母

だから『今は週1のペースの訪問にしてくれ。』と母に言ったらしい。厳しい。アメリカ人だなあ、と思った。

マリー母は知的でいい人だとは思う。まだまだ綺麗な50代で、喋り方も知的な上癒される声の持ち主だ。が、マリーは常々『母にはBoundaryがないの。つまり(親子の)境界線というものがない。自分が一番で、自分がしたいことをいつでもどこでもする。』と言っていた(最近私もそれは感じ始めていた)。だから毎週長期で家に滞在されるのは苦痛でしかないらしい。

そして、私には今までのように来てほしい、正直私のヘルプは本当に助かるから、とも言う。まあ、私は今までのようにサンフランシスコとサンノゼを往復しながらの生活はいいのだが、やはり自分の家にいる方がずっと落ち着く。友人たちも皆サンノゼにいる。


葡萄棚も手入れしていないので、極小の甘い葡萄が鳥につつかれていた

サンフランシスコのマンションは家族(私、夫、長男)が使えるように、という条件で毎月のローンの支払いを私たちと次男たちで半々で払っている。次男が結婚する前の取り決めだ。でも、だからと言って自分の家という感覚はない。マリーだって今は私の手伝いが嬉しいだろうが、やはり次男とヒロと3人だけで住みたいのは当然だ。私に気を使ってほしくないし、私も気を使うのは疲れる。これから大幅に訪問回数を減らして行きたいと思っているところだ。それこそ私のBoundaryつまり境界線だ。


もう育児は次男とマリー二人で大丈夫だろう

そんなことを話し合いながら、私は幸福なのだろうか、と考えた。わからない。目的も趣味もなく生きている。自分の内から幸福を得る努力をしない限り、本当の幸福は訪れないらしい。

ではどうすればいいのだろうか。何か(誰か)から幸福感を得るだけではダメ?

何か

2017年9月2日土曜日

Boundaries(親子の境界線)3/4

姉が和室の天袋に両親の洋服を見つけた、洋服が入っていたケースはゴミの日に捨てたというメールを送って来た。母の洋服は捨てられなかった、と書いてある。父の洋服は捨てたのだろうか、当然捨てるしかないのはわかるけど、それも悲しいなあ、などと複雑な気持ちになってしまった。

父の洋服はいつも近所の大型スーパーで
調達していた
今でもこの売り場の横を通るのがつらい

友人のSさんが言う。「私の父に対する気持ちは小学生の作文で原稿用紙半分ですむようなもの。『私のお父さんはとてもいい人です。だからお父さんのことが大好きです。お父さんが死んでしまったら悲しいです。』というような。母に対する気持ちは20枚にはなるわね。複雑な気持ちが絡み合っていて、とてもとても簡単に書けるものではないのよ。」だそう。

持つべきものは賢い友人だ。私が夫の発言に怒り狂っていた時、それは夫に(私の悩みを)受け入れる引き出しがないからよ、と言ったこの友人は、私の表現できないモヤモヤを毎回適切な言葉で表現してくれる。

う〜む、それだ。父にも母にも愛情があるのだが、母への愛情は単純だ。父への思いとは違う性質のものだ。懐かしいのだが、怒りや腹立ちがなかっただけクリーンな思い出だ。だから、明るい光と共に思い出し懐かしみ、その思い出は時間と共に遠くなっていく。

父に対しては違う。子供への愛情は深いが依存心が強かった父には、私や姉に対する境界線というものがなかった。私はそんな父にいつもイライラさせられていた。なんで社会性にこんなにも欠けていて私や姉が後始末をする羽目に陥ることになるのだ、なんでヘルパーさんを受け入れないのだ、なんで言いたい放題なんだ、なんで自分の心配事を私にぶつけるのだ、ともう父からのストレスで憤死しそうになることが毎日のようにあった。

去年の元旦、おいしいおせち料理を食べた後、
父は部屋で上機嫌に東京音頭を歌った
この日こそもっと長い時間を一緒に過ごしてあげるべきだった

それでも父が死んだら、と思うとそれだけで涙があふれる毎日だった。母への愛情と比べると、なんというかクリーンな愛とドロドロの愛の違い、のようなもの?あの時自分の怒りが抑えられなくてホームの父の部屋を出て行った、あの時父に厳しい言葉を投げつけた、あの時、あの時、と延々と後悔と共に思い出す。全ては父が私に対して境界線をひいて接することができなかったからだ。だからその時その時の私を不幸な気持ちにさせたのだろう。

父のことを思い出すたびに、自分も息子たちに対してちゃんと境界線を持って接することができないといけない、と思う。それはむずかしいが人生の最後の成長段階なのかもしれない。子離れできない状態と、誰かへの依存心が強い状態は似ているのだろうか。

ちなみに猫に対する愛はただただ与えればいいものだから、クリーンでシンプル。ノミ問題が完全に解決するまで、アイドルとタイタンは次男とマリーの寝室に入れない。2匹は私がサンノゼの家で預かる、と提案したのだが、それでは猫たちがかわいそう、と二人ががそれは拒否した。夜二人が寝室のドアを閉めてしまったあと、猫たちは途方に暮れている。なんで?と思っているのだろう。

これは親の深い愛ゆえの境界線

2017年9月1日金曜日

Boundaries(親子の境界線)2/4

このブログを読んでくれている兵庫県在住Nさんからメッセージをいただいた。私と同じ頃子育てをしていたNさんによると、日本では当時紙おむつは高価なもので、お出かけの時ぐらいしか使えなかった、肌に優しい布オムツだと赤ちゃんが濡れて不快感を感じてオムツ離れが早くなるとか、紙おむつだとそれがないからさぁどうする、というような布オムツ信仰があった。だから、皆布オムツで必死に頑張っていた。あんなときこそ母体のいたわりを考えて、精神的にやられないように手を抜くべきだったのに、と今だからわかる。義理母は口を控えてちょうどかな、とNさん自身色々と思い出したということだ。


実家に帰ると姉が長男をおもちゃにして遊んでいた
亡くなった母の手編みのカーディガンを着ている

お乳の足りている赤ちゃんはよく眠る、Nさんの場合お乳が出ないから夜中にずっと赤ちゃんを抱いて、お乳をくわえさせたまま過ごしたことを思い出しました、とのこと。今でも気持ちの中でヒリヒリするものが残っているのだそうだ。

実は私もだ。昨日長男が赤ちゃんだった頃の体つきを見たくなったので、古いアルバムを引っ張り出したのだ。見るんじゃなかった。涙が止まらなくなってしまったではないか。痩せた長男を私はいつも枕の上に置いてあやしていたのだ。いつも泣いていた長男を思い出し、決して満足できなかったのだろうなとヒロの姿と比べて悲しくなる。姑の『お乳が足りないんじゃないの?』と言う声が忘れらないと書いた。だから、私はマリーには自分から『アドバイス』は決してしないと決めている。ええええええ〜、マジ?というような赤ん坊への対応があったとしても、絶対に口を挟んではいけない、と肝に銘じている。ここは嫁姑の境界線なのであろう。

昨日次男にヒロの新しい写真ある?と聞いたら
寝てばかりだから最近あまり撮ってないということだった

私の姑は決して悪い人ではない。浅はかな物言いをする人だが、結婚7年目に夫を亡くしたあと3つの仕事をしながら4人の子供を育てた立派な人だと思う。境界線を超える発言は多々あった。しかし、それに関しても一度謝ってくれたことがある。私が姑からの電話を避けて出なかったあとのことだ。今は仲良くしている。

先週次男とマリーがマリー実家に帰っていた時、長男が野球を見に来た。2枚のチケットが手に入り、サキは野球に興味がない、ということで私が一緒に行ったのだ。二人だけの野球観戦。

久しぶりに二人で色々と話せた

その時も野菜のない長男の夕食に気を揉む。球場なんだから仕方ないではないか。

ビーフブリスケットサンドイッチ($10.50)

長男が赤ちゃんの時いつもお腹がすいていたかもしれない、と今私が思い出して泣く必要はないのだ。糖尿病ボーダーラインと言われているほど太り始めたのだ。大人になった長男の将来を心配して口を挟むのはバカげている。私が『ちょっと太り過ぎ。間食を少し減らしたら?』という発言をしてはいけない。それは親子の境界線を超えている。

うむ、というような返事はする長男。心の中ではうるさいなあ、と思っているだろう。子供の身体は自分のよりも大事なのだ、という親心を長男はまだ知らない。一人目で多分無駄に厳しく育ててしまった母の後悔と、言葉少ない長男を今でもかわいくて仕方ないと思う母の気持ちも知らないだろう。

自分の家に帰って行く長男の車のテールランプを見ながら
涙するおバカな母の気持ちも