2016年4月30日土曜日

猫と孫

山歩き仲間に次々と孫が生まれ、孫の話で会話がはずむ。

孫とはかわいいものらしい。が、実感は湧いてこない。もちろんまだ孫がいないのだから、実感が湧くはずがないのだが、できればもう数年はほしくないというのが正直な気持ちだ。

長男はもうほとんど30歳だ。日本ではおじさんと呼ばれることもあるだろう。それでも親にとってはかわいいかわいい子供だ。もちろん次男だってそうだ。そんなかわいい息子たちの子供なのだ。かわいくないはずがないのだろう。

が、もう少し『手のかかる子供がいない母の時代』を楽しみたい。次男は結婚しているのだし、子供ができてもおかしくはない。子供ができたら母親に時々子守を頼みたい、と思っているようだ。が、孫よりは京都のお寺を見に行ったり、東京の街をお散歩したり、友人とおしゃべりしたり、カフェでぼーっと座っていたい。

孫なんて興味ない!

と思っていたのに、その自信が揺らいできた。次男とマリーが飼い始めた猫の存在が、自信を揺り動かしているのだ。毎日のように次男やマリーが猫Idleの写真を送ってくる。それを1日に何度も見てしまう。ビデオも繰り返して見る。



いつも誰かのそばにくっついているらしい

SFジャイアンツの試合後花火が上がり、その音に怯えて隠れている

とにかく頭を撫でられるのが大好き

仕事から帰った次男のお腹の上で寝ている

鳴き声がまたなんともかわいい(もしかしたら他の人にはうるさいだけ?)


ほら、まだ会ってもいない猫にメロメロになっているではないか。息子の猫というだけで最初からボーナス点を与えてしまっているのだろう。そして、これはもしかして『マゴ』という代物に通じるものがあるのだろうか。孫なんかいらない、と言っているくせに、実際孫が生まれたらオモチャなどを買いまくるのだろうか。

そんなことはない!絶対にない!!

多分

2016年4月28日木曜日

野菜

熊本地震から今日で2週間たった。熊本だけでも避難者は4万人近いそうだ。今父のホームで地震があったら、と考える。父のホームには備蓄はかなりある、ということだが、停電や断水は免れない。一番困るのはスタッフがホームに来る道が断たれることだ。

父個人のことを考えると、避難所の生活でかなり混乱するだろうと思う。そんな時どう対処すればいいのか、ちょっと想像できない。

先週違う場所で開かれたワイワイ広場のあと
あんなに混乱したのだ

避難生活は高齢者や障害者には本当に大変なものになるだろう。サンフランシスコだっていつ大地震が起きるかわからない。来週帰国したらお水やドライフードを買っておこう。

今日はささやかだが九州支援として食材をできるだけ九州産のもので揃えてみた。

今日買ってきたもの
ミニトマト(熊本)

ピーマン(宮崎)

人参(鹿児島)

すいか(熊本)

いちご(熊本)

オクラ(鹿児島)

ナス(熊本)

九州産白和え
特に野菜は熊本産が多いことに気がつく。

セロリ(福岡)

ああっ!帰ってよく見ると違った・・・

老眼

2016年4月27日水曜日

父のアクセル

父が2010年、アルツハイマーの診断を受けた当初からかかっている病院の主治医、森先生の診察の日だ。本来ならば父のホームで訪問医の診察を受けるべきなのだが、父の場合外部の主治医にそのまま診てもらっている。

9時に診察券を入れたが連休前のせいか今日は混雑している。父は12番目だそうだ。ホームの車で父が病院に到着したのは10時32分。実際に診察を受けることができたのは12時前。これは比較的短時間の待ち時間と言える。長い時は3時間待ちということもあった。

そんな時父と一緒に待つのは大変だった。2年ほど前の父は暑い、気分が悪い、喉が乾いた、お腹がすいた、暑い、暑い、とまあひっきりなしに文句を言う。が、父のアクセルはもう完全に勢いを失ったようだ。今日の父は時たま頭が痛い、どうしてかなあ、と言うだけで辛抱強く待っている。いや、辛抱強いというよりも、自分を取り巻く環境に対しての意識が低下しているという様子だ。

病院では数時間待ちということも多い

診察室に入ると父はガラッと変わる。森先生の問いかけににこやかに返事をし始める。よく寝られます、食べられます、などと答えている。が、最近の父は何を言っているかわかりにくい。

森先生によると、これは構音障害。話す内容は普通だが、唇や舌の機能が低下したためにろれつがうまく回らない。だから聞き取りにくい。

頭が痛いのは季節の変化によって自律神経がうまく機能していないため。突然の痛みの場合は診察が必要だが、慢性的な痛みは心配ない。

穏やかですね、と言う森先生の感想を受けてホームの相談員Sさんが、『でも、夜中とか目がさめると誰かにいてほしい、とずっとスタッフを呼び続けられます。』と報告する。それに対しては『日中活動量が少ないせいですね。』という診断だ。それはそうだ。父は1日中ベットに横たわり宙を見ている。

まあ、順調に(?)父のアルツハイマーは進行しているということだろう。3ヶ月後の予約をしてホームに帰ることにした。3ヶ月後の父は一体どんな状態なのだろうか。もしかしたらもう生きていないかもしれない。父の姿に活力がないのは言うまでもないが、どんよりとした父の目を見ると本当に悲しい。

弱々しい父の姿を見ると胸がいっぱいになる

父がホームからのお迎えの車を待つ姿を写真に撮っておくことにした。もうこれが最後かもしれない、と思うと涙が出て来て困る。まばたきをし続けて我慢した。Sさんに涙を見せたくない。

が、写真を撮られていることに気がついた父

これ見て涙が止まった・・・

2016年4月26日火曜日

父の顔

東京に里帰り中のイリノイ在住、友人Mさんが京都に来てくれた。三条通にあるPaulでランチを食べる。

京都文化博物館の横
フランスから来たカフェPaulには外国人客が多い

スモークサーモンサラダ、パン食べ放題、カフェクレームの
ランチセットは1180円

Mさんはいろんな分野の情報満載の人で、日本での携帯やWi-Fiはどこの会社が安いか、航空会社の良し悪し、日本の税金、不動産など本当に詳しい。二人でマシンガンのようにしゃべっていると、あっという間に移動も含めて4時間が経っていた。

Mさんが笑う。ブログの中でお父様の顔はぼかしを入れないのね〜。


今日のワイワイ広場での父
風船バレーボールでアドレナリンがブンブン

しかし父はきれいな実習生にも目が行くようだ

Mさんにも私にもわかっている。父が素顔を見せたからと言ってどんな差し障りがあるのだ。仕事に行くわけでも学校に通っているわけでもなく、かわいいからと誘拐されるわけでもない(よね?)

上の写真の父を拡大したもの

父の目
美人にロックオン

2016年4月22日金曜日

変化

父は自分の保険証のコピー、銀行からの通知、ATMレシートなどなどを決して捨てない人だったので、シュレッダーにかけたい書類が大量にある。毎日うつむいてその作業をしていたら、疲れてしまった。どうも作業に集中したせいで肩がパンパンになってしまい、それが不調につながってしまったようだ。

だから水曜日木曜日と2日間ホームに行けなかった。火曜日のワイワイ広場のあと父は少し不安定な状態だったから今朝は心配だったが、父はとても穏やかだった。朝食も完食しよく眠れている、とスタッフのS田さんがすぐ報告に来てくれる。20代であろうこのS田さんは、本当に頼りになる人だ。いつも思うのだが、信頼できるかどうかは年齢には関係ない。こういうスタッフがいるから、安心して父をホームに任せることができる。

整理していて出てきた写真を父に見せた。この中でどれが自分かわかるか、と聞くと、父はメガネを2本の指で上げて興味を持って見ている。


右端、と指差す。正解だ。次の写真を見せる。



左端、とやはりすぐわかる。父が言うには、自分の写真は必ず体が傾いているからすぐわかるのだ、ということだ。これはどうもこの2枚の写真を見たことで、取ってつけた理由のように聞こえる。が、もしかしたら真実なのかもしれない。

昭和41年に九州旅行に行った時の写真だと書いてあるよ、と言うと『ほう〜』ともう一度写真を見つめる。写真を見る限り、父が以前言っていた『自分は誰よりも背が高かったので・・・』という言葉はあながち嘘ではなかったのかもしれない。そういえば戦友会の写真を見ても父は他の戦友に比べて背が高いようだ。

これは阿蘇山で撮ったと説明がついている、と見せながら熊本の地震について話す。が、相槌は打っていても地震のことは父の頭の中に浸透して行かないようだ。

1963年(40歳)の父

2012年(89歳)の父
つまり、上の写真のほぼ50年後
人間はこのように縮むのか

多分2年前なら阿蘇山旅行のことも覚えていただろう。新しい記憶はなくとも、古い記憶はずっと残るのが認知症で、不思議なことに父は自分の姉の名前はよく覚えているのに、一番親しかった12歳年下の妹の名前は思い出せないのだ。

とにかくあまりにも単調な父の毎日。こうして何か興味をひくような物を持って行って見せることで脳を活性化させたい。父と過ごす時間はあと1週間しかない。次に京都に帰ってきた時(2ヶ月後)、父の認知症はどこまで進行しているのだろうか。

穏やかだった今日の父
環境の変化には対応できない父だが、ちょっとした刺激や変化は必要だ。


今日は父の左側から写真を撮ってみた
(ちょっとした変化)

2016年4月19日火曜日

父のシャツ

ガンバレ熊本という文字を見ると涙が出る。避難所で生活する老人を見るのが一番つらい。東北地震の時も思ったが、戦争を体験したお年寄りが晩年またこんな大変な生活を強いられるなんて、かわいそうで胸が苦しくなる。

そして今京都で大地震が起きて父が避難生活をしなければならなくなったら、どんなに大変だろうかと心配になる。認知症には環境の変化が一番良くない。

今日は毎週火曜日にあるワイワイ広場が、いつもと違う場所であった。ホーム1階にあるイベントルームは選挙会場として使われていたので、2階のダイニングルームが急遽ワイワイ広場になったのだ。

ダイニングルームが入居者でいっぱいになり暑かった

今でも女性の外見にこだわる父は、介護士実習生の美人さんに補助してもらって嬉しそうだ。

きれいな実習生に構ってもらって機嫌が良くなる父

ところが、イベントのあと父は自分の部屋がダイニングルームのすぐ横にあると主張する。父の部屋は1階上の同じ位置、3階のダイニングルームの隣にある。父をエレベーターに載せようとしても、渾身の力を振り絞って両手でエレベーターの壁を押して乗り込むのを拒否する。

ここは2階で、父の部屋は3階にあるのだから一旦エレベーターで3階に上がらないといけない、と説明してもダメだ。ほら、ここは2階だから父の部屋はないでしょ?と父の部屋と同じ位置にある2階の部屋を見せても納得しない。

階下の同じ位置にある部屋を見せても父は信じない

何度か説得を試みたが、父は自分の部屋に戻る、と2階から動こうとしない。やっと父が疲れたところでエレベーターに載せて3階に連れて上がることができた。が、ベットに入った父は混乱したまま、騒いでいる。何を言っているかわからないのだが、何かが不安らしい。

父は難聴があるので、そんな父を落ち着かせるには大声で話しかけないといけない上、騒ぎ続ける父をなだめるのには体力を使う。寒い、耳がおかしい、目が痛い、今日は何曜日?などと言いながら、自分に何かするべきことがあるのではないだろうか、と不安が募るようだ。大丈夫大丈夫と父を落ち着かせながら、ベットを起こしてみたり、寝かせてみたり、目を清浄綿で拭いてお茶を飲ませてあげたり。それでも父は手を振りながら、何かを言い続けている。

混乱し騒ぐ父

1時間後やっと少しだけ落ち着いた父を置いて部屋を出ることにした。今日は父の補聴器の修理のことで区役所に行かないといけない。こんな父にあと何年付き合わないといけないのだろう、あと何年日米を往復せねばならないのか、と暗い気分で歩いた。

が、父の様子を撮った写真をあとで見てかわいそうになる。父の気持ちを思うと涙がこみあげてきた。

父は娘たちに1円でも多くのお金を遺してやりたいという気持ちが強く、それは認知症になっても決して変わらないのだ。いまだに何かを買ってあげると、ワシのためにお金を使うな、と言う。

痩せてシワだらけになった父が着ていたシャツの袖口は、
父が自分で針と糸を使って修繕していた

2016年4月14日木曜日

太った父

引き続き父の物を整理している。もうほぼ終わったと思っていたが、掘り起こすと結構色々出てくる。写真は今日も整理し続けた。

父は几帳面なので写真もイベントごとにまとめてラベルが貼ってある。戦友会xx年というように。観光地もちゃんとラベルが貼ってあるので、殆ど中身を見ずに捨てていた。

こういう風に写真にぴったりのサイズの箱を見つけるのが父

テーマごとに整理してあって、ちゃんとラベルがついている
が、時々貴重な写真が出てくるので、やはり一応中身をちゃんとチェックすることにした。母が編み物をしている写真も出てきた。母も父も私が結婚してアメリカに移住してしまってさぞかし寂しかった頃だろうと思うが、それなりに幸せそうに二人が生活していた様子が見えて嬉しい。

頭の中で目数を考えながら編み物をする母

この左に見える足は父のですよ。実はこの頃の父はこんなんです。

ほ〜ら。

70キロぐらいありそうな60代の父
年を取ると痩せるのだ。人間、80歳90歳を超えると食べても食べても多分痩せていくのだろう。

そして今日の父
シーツ交換で廊下に座っていた
多分40キロぐらい
と乱暴な結論を出し、明日のランチはこれに決めた。

アンデルセンのクラブサンドセット

2016年4月13日水曜日

古い写真

父の趣味は写真だった。カメラを収集し写真を撮ることが何よりも好きで、よくカメラの埃をスポイドで取り除いたり、レンズを磨いたりしていた。

だが、父は今そういう趣味を持っていたことさえ覚えていない。ベットに横たわり、一日中壁を見ている。

父の目からは知の光が失われつつある


実家にある父の物は殆ど捨てたが、まだいくらかは残っている。今回の日本滞在では最終段階の整理をしている。父の物の中には写真が多い。




今まであまり興味を持って写真を見たことはなかったが、こうして一枚一枚古い写真を見ると、父にも母にも歴史があったんだなあ、と胸に迫るものがある。

左は母の姉
真ん中が母4歳

母の子供時代

女学校時代の母

戦場に送られ、無事生還したあとも苦労の多かった父。母もそんな父と結婚して一緒に苦労を重ねた。

父は戦争中台湾に送られた

駆け落ちして結婚した両親

海での写真が多い
この時代のレジャーは海水浴だったのだろう

母は最期までとても明るい人だった

母が発病する少し前に姉と撮った写真

薬害で発病した当時でも母は明るかった
治療にステロイドが使われて太っていた
この時点ではもう全盲で下半身付随だったが表情に屈託がない

母を42年間介護した父に明日はもう少し優しくしてあげようかな、と思ったりする。

先週大型ゴミとして母の車椅子を捨てたが、
これはとてもつらいことだった
(老人ホームへの寄付は断られた)

母は私が12歳の時には寝たきりになったので、それまでの母との記憶があまりない。それでも楽しい子供時代だったことは間違いない。決して裕福ではなかったが、幸せだったのだろう。

が、あまり賢い家族ではなかったような