2016年3月9日水曜日

年をとってできなくなること

父の最期を考える。自分がその場にいなかったとしても『それは仕方ないことだろう、生きている間に父との時間を一緒に過ごしてあげればそれでいい』と思っていた。自分にもアメリカでの生活はあるし、もう精一杯のことをしているではないか、と無意識のうちに思っているのだろう。

山歩き仲間が撮ってくれた
今日のランチョ・サンアントニオ
このところの雨で新芽がきれいだった

が、先日届いたメールで気持ちが揺れている。『死に目に会う』という記事を読んでくださったこの方のメールには『母は誰もいない部屋で亡くなりました。時が取り戻せるなら、間に合うように日本に帰っていられたら、と思います。』と書いてあった。その方と今毎日のようにメールを出し合って、お互いの気持ちを打ち明け合っている。

すると自分でも気がついていなかったものが見えてくる。あんな父なのに、父に対する愛情は母へのものより大きい。そんな父が一人ぼっちで死んだら、と考える。今までは、自分はその場にいなくても姉がいるところで父は最期を迎える、と無意識のうちに考えていたような気がする。私も姉もいないところで父が死んだら、父がかわいそうとずっと悔やむ気持ちが残るのかもしれない。どうやってその気持ちに折り合いをつけるのだろうか。

こういう姿をずっとずっと思い出すのだろう
父のアルツハイマーはどんどん進行するばかりで、良くなることはない。もう1年も生きていないかもしれないし、あと10年生きるかもしれない。父の表情はこのところますますどんよりしてきているし、会話が成立しなくなってきた。ついこの前まで簡単にできていたことが、突然できなくなる。1年後の父は娘たちのこともわからないだろうし、父を訪問しても父の目はもう何も認識しないのかもしれない。

自分でも感じる。この前まで簡単にできたことが、年を取ると突然むずかしくなってしまう。

最近ガレージの開口部が狭まった