2016年3月7日月曜日

母の最期

2月の初めには5人家族だったのが、今は夫と二人になった。ご飯の支度が飛躍的に楽になり、エンゲル係数もかなり下がるなとほくそ笑んでいる。なにしろ夫は晩御飯がなくても文句は言わず、ご飯にキムチを載せてお茶漬けをすれば満足、という人だ。

それでも一応は夕食を作るが、作りながら毎日のように思う。母の介護が大変だった頃のことだ。年に5回のペースで日米を往復し、毎回3週間ぐらいずつ滞在した。が、2ヶ月以上滞在したこともある。心配だったのは家族の食事のことだった。あの頃家族は一体何を食べていたのだろうか。

最近の夕食はこんな感じ
ネギトロ丼、セロリの和え物、ごぼうとワカメのお味噌汁

そんなにも何度も往復したのに自分がしっかり介護をした、できるだけのことはした、という満足感は全くない。前回書いた遠距離でもできることリストなんて、最初の頃は全て姉に任せきりだった。自分がアメリカからでもできることがあるなんて思いもしなかった。

最終的に母の命を奪ったのは新米看護師さんの吸引ミスだった。脳出血のあと大きな障害が残りながらも、命に別状はありませんと太鼓判を押されていたのに、このミスで母の呼吸は停まってしまい、3日後に亡くなった。主治医から謝罪はあったが、母は戻ってこない。

が、母の最期は苦しみのない穏やかなものだった。姉はかねてから母が苦しみながら死ぬことだけが心配だったと言う。姉と私とで交代しながら付き添っていたので、二人とも母の死に目に会えたことは偶然だった。父だけが間に合わなかった。

この医療ミスさえなかったらまだまだ生きられただろうに、とその時の様子を思い出すと悔しい。そして母に悪いことをした、という申し訳ない気持ちで苦しくなる。この苦しさは一生続くだろうと思う。

母が私のことを恨んでいないことはわかっている。親は子供を決して恨まないのだから。

が、子供は親を決して恨まないとは必ずしも言えない