2018年5月22日火曜日

母 最期の日々 番外 ばば

私の息子たちは母のことを『ばば』と呼んでいた。父のことは『じじ』だ。両親とも自分がばば、じじと初めて呼ばれた時にとても喜んでいた。

私は孫が生まれても自分をどう呼ばせるか迷っていた。ヒロより2ヶ月前に生まれた孫のいる友人Y(現在63歳)は『絶対おばあちゃんなんて呼ばせない。なーなと呼ばせるの。』と鼻息荒く言う。アメリカではグランマと呼ばれるのがいやで、ナナと呼ばせる人が多い。

この友人は今孫に会うために東海岸に行っている。もう超かわいくてメロメロ、というメールが来た。『しっかりばあばを楽しんで来てね』という私へのメールには『なーなを楽しんでいます。』とすぐ返信が来る。そうか、彼女にばあば、おばあちゃんという言葉は禁句だったな、と思い出す。

友人M(61歳)にも近いうちに孫が生まれる。孫にどう呼ばせる?と聞くと『まだ決めてない。でもおばあちゃんだけは絶対イヤ。なんだか年寄りっぽいじゃない。』ということだ。

そうだよなあ。立派におばあちゃんの年齢になっているにもかかわらず、おばあちゃんと呼ばれることはなんとなく抵抗がある。

ヒロはもう歩き始める寸前で、マンマなどの喃語も出始めている。急がねば。

やっぱりナナ?いや、おばあちゃんと呼ばせるのがかえって潔い気もする。

よし、私の母のことを息子たちがずっと思い出すためにも、私の呼び名は一つしかないだろう。

カッコいい?『ばば』を目指そう

2018年5月21日月曜日

母 最期の日々 ⑥ 呼吸が止まる

9月20日の朝、F本さんが母の痰吸引をするために病室に入ってきた。F本さんは18歳ぐらいにしか見えないあどけない顔のスタッフで、看護師さんだったのかどうかはわからない。

吸引を始めようとしたがチューブがうまく入らない。強引に母の気道にチューブを差しこもうとするF本さんを私はハラハラと見つめた。

母が呼吸できなくなったのがわかった。母の両手が宙をかく。

『やめてください!!』と私は叫んだ。びっくりした表情で私を見るF本さんに私は声を上げた。『息ができないじゃないですか!』

不服そうにチューブを抜いたF本さんの表情は母を見て変わった。母の顔色は紙のように白くなっていた。呼吸が止まっていたのだ。

F本さんがベルを鳴らし、ガラガラとワゴンを持った数人の看護師、医師が入室して私に廊下で待つように促す。私はガタガタと震えながら姉に電話した。母が呼吸をしていない。母が死ぬ。母が・・・

医者の措置により蘇生した母はもう一度呼吸し始めたが、そのまま集中治療室に運ばれて行った。その後、主治医が廊下で私に告げた。母は肺炎の状態になっている、今後は肺炎の治療をしないといけない。

『それは今朝の吸引の失敗が原因なのではないですか。母は回復し始めていましたよね?そろそろ胃瘻の手術をして、療養型病棟のある病院に転院する予定だったではないですか。』と私は言った。が、主治医は否定した。『こういうことはよく起きるんです。回復していたと思っていても、なにしろ高齢の方です。突然こういう状態になることもあるんです。』

当然納得できない答えだったが、今ここで議論をしても病院側が認めるわけがない。これは後日話すことにして、今は母の肺炎に対処するしかない。


暗い暗い思い出なのに、高速道路を運転していると
何故かいつも母の最期の日々を思い出す

2018年5月20日日曜日

母 最期の日々 ⑤ 胃瘻

9月14日、父がその後ずっと主治医として通うことになる森先生の診察を受けた。最初に電話をしてから4ヶ月待ったあとだ。名医と評判の森先生の診察を受けたくて、全国から患者が集まる。

ヘルパーさんに母の見守りを頼んで、姉、私、当時のケアマネT田さんと森先生の診察を待つ。待ち時間はなんと5時間だった。ケアマネのT田さんは子供の具合が悪いので、と途中で帰ってしまった。診察の結果父の認知症はまだ深刻な段階ではないとわかって姉と私は少し希望を持ち始めることができた。

が、同じ頃母の主治医からは胃瘻を勧められた。嚥下訓練が全く進まず、言語療法士は母の唇を湿らせるだけで、『喉が乾いてはるやろに、お水飲ませてあげられへんでごめんね〜。』と言いながら訓練を続けてくれた。

ある日一滴のお水が母の舌の上に垂らされた時、母は初めて積極的にそれを飲み込もうとしていた。母が生きる気力を持ち始めたようで嬉しかった。でも、それ以上のお水を飲むことは無理だ。母は本当にお水を渇望しているように見えた。なのに飲めない。ほとんど表情のない母が、お水だけはほしそうにしている姿がかわいそうでたまらなかった。

口から食べ物を摂取できないのだから、胃瘻しかない。姉も私も胃瘻の手術を受けることには反対だった。が、他に選択肢はないのだ。そして胃瘻を始めると母の自宅介護は無理になる。転院先を探さねばならない。

姉と二人であちこちの病院のサイトを調べて訪問した。そのうちの一つS病院を訪問した時、一目見て私も姉も『ここだ!』と思った。母が入ることになる部屋は広くて明るい日差しが燦々と降り注いでいる。この中には母の車椅子も私たちが座るソファも入れることができる。個室だがどうにか支払いもできそうだ。

調べてみると胃瘻を始めたからと言って、リハビリを続けて母が嚥下機能を少しでも回復すればデザートぐらいは食べても良いという記事があった。そうか、ではそんなに悲観することもないのか。

母にS病院の個室の話をした。S病院でリハビリを続けて、胃瘻をしなくてよくなったらまた家に帰れる。家でアイスクリームを食べられるようになるかもしれないよ、と私が言うと母の目が久しぶりにキラキラと輝いた。父の方もとりあえず深刻な状態ではないし、母の介護も快適な病室で続けることができそうだ。姉と私は久しぶりに幸福な気持ちになることができた。

清潔でとてもきれいなS病院
久しぶりに希望が持てたのに

が、その2日後に全てが暗転する出来事が起きた。


2018年5月19日土曜日

母 最期の日々 ④ リハビリが始まる

母が入院していたT病院はいつも混んでいた。たくさんの団地に囲まれている人口密度の高い地域なのと、地下鉄駅に隣接しているということで待合室は常に人であふれていた。ここに以前母は一度入院したことがあったが、スタッフのお粗末さに辟易して、二度と入院させたくないと思っていた病院だ。が、救急車が母を運んだのはこのT病院だった。

集中治療室を出る日が来た。前回の脳梗塞の時は3日後に『おうどんが食べたい』と言うほど復活した母も、今回は劇的な回復は見込めないのがわかっていた。何よりも閉じたままの右目が母の深刻な状態を物語っている。水分は一滴も受け付けない。

でも少なくとも母は今回も生き延びることができたのだ。まずはそれで充分だ。

今後は大部屋に移り言語療法士によるリハビリを始めます、という説明があった。リハビリはまたしゃべることができるようになることが目的ではない。生きるためのリハビリなのだ。まずはお水を一滴飲むことができるように訓練を始めないといけない。

が、大部屋は困る。家族が交代で泊まり込むことができない。母は微かに意思表示ができるようになってきて、足を動かしてほしい時は少しだけ右手を動かす。表情はあまりないが、時々ほんのちょっとした感情の動きが目に現れるようになった。

では、と病院が提案してくれる。

二人部屋はどうですか?二人部屋ですが一人が入っていただいて、空きのベッドはご家族が休息をとるために使っていただいていいですよ。ただ二人部屋を一人で使うということで、ベッド差額は倍になりますが。

T病院のベッド差額は一日4200円だ。それまで他の病院ではいつも個室の差額が1万円以上かかっていたので、これはびっくりするほど安い金額だと言える。

二人部屋に移ってからは母に付き添うのが少し楽になった。母の感情の動きや要求は家族にしかわからないものだったが、状態が少しずつでもよくなってきていることに安堵した姉と私は、向かいにあるコンビニで買ってきた物を食べながら、毎日母のベッド脇でペチャクチャしゃべり続けた。

リハビリはなかなか思うように進んで行かなかったが、私たちは久しぶりにとてもポジティブな気持ちになることができた。今まで家で介護をしていた時、母を1分も一人にすることはできなかったのに、今はコンビニに行ったりする時間ができた。母には悪いが、私たちには少しだけ息抜きをする時間ができたのだ。

母を車椅子に移動させてシーツを替えたり、夜中も15分おきに起こされることもなくなったのだ。(母は数時間まとまって寝てくれることもあったが、15分おきに起きて咳き込んだりすることもあって、家族は長年睡眠不足の状態だった。)母の状態はかわいそうだったが、これから少しずつ回復できるかもしれないし、私たちには休む時間ができたのだ。なんだか光が見えるようになってきた。

少なくとも母に関しては、だったが・・・

2018年5月18日金曜日

母 最期の日々 ③ 思慕

その朝私は川べりを日傘をさして歩いていた。2010年の京都は9月になっても連日35度を超える日が続いていた。

T病院は地下鉄駅に隣接していたが、病室に一旦入ったら一日座っていることになる。実家から病院までかなり歩くことになるが、今日は歩いてみようと思った。

川の向こう側に母が何度も入院したことのあるR病院が見えてきた。あの病院に前回脳梗塞を起こして入院したのはいつだったのか。確か5年ほど前?と考えた。あの時と今回は全然違う。あの時はすぐ回復できるのがわかったが、今回はもうダメなんじゃないだろうか。

夜も寝かせてくれない母、昼間もずっと付き添っていないといけない母、高校生の息子たちを残して日米往復を余儀なくさせられた介護。苦しかった介護だが、私は母のための介護していたのだろうか。違う。義務感のみの介護だったのだ。1ヶ月間日本で介護をすればまたアメリカに帰れる。帰ったらゆっくりできる。母にはたまに電話してあげればいい、と思っていたのだ。

母が何をしたのだ。母は本当にいい人だった。なのに薬害で38歳で寝たきりになり、それでも明るくポジティブに生きてきた。今は右目を開けることもできず、意思表示もできない。

数ヶ月前に作ってもらった車椅子
もっと早く作ってもらえば良かった

母への圧倒的な思慕が胸の中で膨れ上がってくる。今すぐ母のベッド脇に行って、ずっとずっとそばにいてあげたい。母に生きていてほしい。母は私の母なのだ。母なんだ。母はこの世で一人しかいないのだ。今までごめん!母のことを義務感だけで介護してごめん!と涙が止まらなくなった。

日傘をたたんで病院まで走っては歩き、そしてまた走った。

母に今すぐ会いたい。

2018年5月17日木曜日

母 最期の日々 ② 脳幹出血

8月30日の夜オンラインで関空行きの飛行機に変更できた。そして姉からメールが届き、母は意識が戻ったと書いてある。良かった。また母に会えるのだ。

翌朝出発し9月1日の夕方母が入院しているT病院に着いた。

母は別人になっていた。

脳幹出血を起こした母は、右目が開かなくなっていた。表情がなくなってしまい、私の声に少し反応を示すが以前の母ではない。家族の声に反応した母は頬を少し動かす。母が何かを考えているのか、そもそも家族がそばにいるとわかっているのか、私たちの声が聞こえてはいるようだが、理解しているのかどうかもわからない。

この年の2月に父の物忘れが尋常ではないと気がついた。父自身不安に感じていたようだ。一日中何かがないと探している。5月にO病院の物忘れ外来に行き認知症だろうと診断されたが、O病院の医者に不信感を持った姉と私はR病院の森先生に診察してほしいと思っていた。そしてちょうどこの頃R病院から連絡があり父の予約が取れたところだった。

父も母も壊れ始めているようだ。これから一体どうなるのだろう。

父は母が脳幹出血を起こしたその日まで、その年直木賞を受賞した『小さなおうち』を毎日読み聞かせていた。父も母もこの小説の時代設定に共感することが多かったらしく、母も毎日父が読んでくれるのを楽しみにしていた。母が入院してからも父は毎日タクシーでT病院に行き、ベッドの横に座って続きを読んだ。

が、もう母はこの本に何の反応も示さなかった。脳幹出血により大脳基底核の細胞に後遺症が残り、ドーパミンが減ってしまった状態で、脳からの指令が伝わらなかくなってしまったということだ。ということはドーパミンがないから、身体に障害が残っただけではなく、感情面でも母は変化してしまったのか。少しずつ回復する可能性はあるとは言われたが、そう思えないほど母は違う人になってしまっていた。

母の心の中では何かを考えているのか、それとも家族に対して記憶も興味も失ってしまったのか、それさえもわからない。それが悲しかった。

母が脳出血を起こした前日頭痛を訴えていたのに、酷暑の介護で疲れ切っていた姉は母の血圧を測らなかったことを後悔し続けたように、私も父や姉を助けずに帰国してしまったことを後悔し続けた。

 意外にも淡々としていた父
いつでもどこでも自分の世界

2018年5月11日金曜日

母 最期の日々 ① パスポート

Mrs. xxxx was admitted in our hospital on August 30, 2010 with a hemorrhagic stroke and she is in critical condition.(⚪︎⚪︎さんは8月30日、脳出血で入院し重体です。)と書かれた診断書、申請書類、写真、飛行機の予約確認書を持ってサンフランシスコのパスポート申請窓口に着いた。カリフォルニアの8月30日午前9時半を過ぎていた。

翌日の飛行機の予約は関空行きが取れないので、成田行きをとりあえず取った。翌朝サンフランシスコ空港に行き、そこで関空行きに変更するためにスタンバイするしかない。最悪成田に飛んでもいい。日本にさえ着けばどうにでもなる。


前日これらの書類をFaxで送り、緊急のパスポートを申請する資格があるのかどうか審議された。そしてこの日の朝電話がかかってきて、すぐ申請に来てくださいと言われたのだった。慌てて洋服を着替えてすぐ車に乗り、サンフランシスコの申請所まで急いだ。緊急でパスポートを取りたい人なんて殆どいないだろう、と思っていたがそれは甘かった。申請所に着くと行列ができている。どの人も緊急でパスポートを発行してもらいに来ているのだ。


私の番が来て窓口の係に説明する。アメリカ市民になったところです。パスポートの申請書類を一昨日送ったところだから、アメリカに帰化した書類はオリジナルを持っていません。でもコピーはここにあります。


だが、窓口の係員は言った。オリジナルじゃない書類は受け付けられません。だから移民局に行って帰化したという証明書をとってください。証明書を取ったらもう一度この窓口に帰ってきてください。


ただ、この窓口は12時には閉まります。それをすぎたらもう今日の申請は受け付けません。


その時点でもう10時半頃だったと思う。駐車場に停めていた車まで戻る時間が惜しい。仕事を休んで一緒に来てくれていた夫と走った。


祈るような気持ちで道に出るとちょうどタクシーが来て目の前で停まり、乗客が降りた。すぐに乗り込んで渋滞のサンフランシスコの街を走る。移民局に着いた。果たして私が帰化したという証明書はすぐに発行してくれるのだろうか。ドキドキする。また何か他の書類が必要だと言われるのではなかろうか。


言われた。


が、これがどういう手続きが他に必要と言われたのかはもう覚えていない。静かな場所に移動してどこかに電話をして、どうにか確認が取れた。そして帰化証明書は無事発行された。


またタクシーで申請所に向かう。移民局で思ったよりも時間がかかったので、着いたのはギリギリセーフの12時前だった。そしてその日私の初めてのアメリカのパスポートが発行された。


ひたすら母が恋しかった。


いつも明るかった母が生きているうちにもう一度会えるのだろうか
(写真は父代筆の手紙、これが母からの最後のメッセージになった)